目的の地に着いたのは夜も大分遅くなってからだった。宗麟が足を踏み入れたのは公営住宅の高い建物の一つ
で、たくさんの郵便受けが備えられているエントランスは安っぽい蛍光灯のせいで目に痛い明かりを放ってい
た。その内のいくつかの郵便受けからはチラシや新聞紙がはみ出し、それでも入りきらなかった物は床に散ら
ばるまでしていた。二人が住んでいるマンションには管理人がいたが、ここにはそれがいないのだろう。だか
らああして散らかっていくのだ。その横に置かれた観葉植物の葉は枯れている。自分には一生無縁な低所得者
向けの住まいだと、宗麟は内心冷めた目でその光景を見つめた。


「こっちよ」


が呼ぶ。大きな鞄を片手に提げて、もう片方の手でエレベーターの上昇ボタンを押していた。
安い明かりに照らされているのにちっとも損なわれない温かい笑みの方へと近寄れば、何故か柔らかな目で見
つめられ、ふふと笑われた。


「なんです?」
「君には馴染みが無いかもね。お坊ちゃま育ちだし」


嫌味ではなく、きょろきょろと興味深そうな宗麟を可愛く思って出た言葉だった。だから宗麟もその言葉に反
発することなく珍しい光景を鑑賞し続けた。ちん、と音がしてエレベーターが到着する。一歩足を踏み入れる
とすぐに酸っぱいような何ともいえない臭いが鼻をついた。決していい香りでは無い。むしろ吐き気を催す程
の悪臭だ。そのあまりの臭さに宗麟は思わず顔を顰める。


「何の臭いです・・・?」
「うーん・・・。生ゴミの汁が垂れた臭いかな」
「なっ、生ゴミ・・・・!?何故・・・??!」


何故生ゴミの汁がエレベーターに垂れているのか、宗麟には全く理解が出来ない。鼻を押さえていると、そう
いう意識の低い人も居るのよ、と隣に立つ彼女は達観したように言ったが、宗麟にはそんな風に冷静でいられ
る神経が分からなかった。例え理解ができても、そういう人間が住んでいるところに自分はいたくない。ここ
は異界だと宗麟は思った。それで仕方なく、鼻を押さえて一刻も早くエレベーターが目的の階に着く事を祈っ
た。早く帰りたいと切に思う。


「・・・大体、こんなところに何の用があるんですか」
「ああ、うん。今日からここに住むの」


当然のようにが言った。鞄の脇についたポケットに手を入れ、そこから鍵を取り出す。
あまりに自然なその一連の動きに彼女の帰る場所が初めからここであったかのような錯覚に陥る。宗麟も思わ
ずいつもの調子で「そうなんですか」と返しそうになったが、口にする前になんとか思いとどまることが出来
た。


「は、え?今、なんと?」
「だから、ここが新居だって言ったんだけど」
「・・・まさかとは思いますが、この僕がこんな安普請に住むなんて冗談・・・言わないでしょうね?」
「安普請は仕方ないでしょ?これから私の給料だけでやってくんだから」


むっとしたように言うに言いたい事はあるはずなのだが、宗麟の頭はそこまで回ってはいない。
ここに来るまでに立ち寄ったパーキングエリアで交わした彼女との会話が思い出される。一緒に暮らさないか
という問いのあまりの唐突さにどう答えていいのか分からず曖昧に返したが、彼女も深く追求はしてこなかっ
た。だからそこで終わったものとばかり思っていたが、そう言う意味だったのかと今更背筋に冷たい汗が伝っ
ていく。ちん、と乗ったときと同じ音がしてエレベーターのドアが開いた。
彼女はさっさと鞄を持ち直しエレベーターを出るが、宗麟は未だ臭い匂いのするエレベーターから一歩を踏み
出すことが出来ずにいた。踏み出せばここの住人になってしまうからだ。ここに住むとはつまりこの場所の事
でポストに入りきらずに床に散らばった広告の山と、腐臭のするエレベーターと枯れた観葉植物に囲まれて暮
らすという事だ。そんなのは耐えられない。眩暈がした。


「あ、ありえません!!ありえません!絶対にありえませんっ!!」
「そうは言ってももう決めちゃったことだし」
「か、勝手に何を!今すぐに家に帰しなさい!!」
「無理無理。もう夜の十一時だよ?十一時」
「・・・そ、それなら一人ででも帰ります!」
「電車を使うにしても最寄り駅まで歩いて三十分はかかるし、乗ってからも二時間以上はかかるのに?」
「・・・っ」
「ちなみに社会勉強ってことで宗茂さんからの了承は既に貰ってます。迎えは期待しないこと」
「宗茂・・・あの不敬者!!」
「まあ大分渋ってはいたけどね。そういうわけだから諦めなさい」


まさか従者までもがグルだとは思わなかった宗麟は、悔しさに握り拳に爪が食い込む程力を入れた。帰ったら
手痛い仕置きをくれてやると心に決め、さっさと歩みを進めるの背を追う。
こんな訳の分からない土地まで来させられたことや彼女と過ごすのが嫌というわけではないのだ。唯場所が気
に食わないというだけで。はあ、と盛大に肩を落として歩いていると無数にあるドアの一つを前にして彼女が
立ち止まった。どうやらこの部屋らしい。中がどうなっているのかなど宗麟にはさらさら興味はなかったが、
はどこか浮かれたように宗麟を振り返った。


「疲れたね。今日はお風呂に入ったら、ゆっくり休もうね」


淡い頬笑みに宗麟はどきりとした。彼女が夫を見送る時に、あるいは出迎える時に見せる表情だった。誰に対
してでも向けられるものではないと、長年見て知っていた。まるで自分が彼女の夫にでもなったように錯覚し
てしまう。何とも言えない居心地の悪さを感じ、宗麟はそこで顔を足元へと伏せた。居た堪れない。
ドアが開いて一番に目に入ったのは奥に広がるメインの居住スペースだったが、靴を脱いだ宗麟がすぐに向か
ったのは脱衣所だった。先に入っておいで、という言葉に甘えることにして荷物の整理は一任したが、ダイニ
ングにいるそのがシャワーの音を耳にしてから三十秒経つか経たないかで問題は起きた。


「うわああああああああ!ー!!」
「なに、そんなに慌ててどうしたの?」
「湯が!熱湯しか出ません・・・!!シャワーが壊れてます!」
「えー?・・・ってこれ壊れてるんじゃなくて手動なのよ。両方の蛇口をひねって自分で丁度いい温度に調節
しなきゃダメなの」
「ちょ・・・調節!?」
「風呂給湯機が全ての家庭に普及してるわけないでしょ。浴室乾燥然り、床暖房然り」
「っんな、んな!」
「平気平気。すぐに慣れるよ」
「ななな・・・!む、無理です無理です!暮らしていけません!!」
「だいじょーぶだいじょーぶ。お姉さんがついてる」


午後十一時三十分、新居に到着。
この時点での着信件数、二十五。伝言メモ、無し。