眩しさに目を開けると部屋の隅に無造作に積まれたダンボールの箱が目に入った。次いでカーテンのない窓。 錆び付いたベランダの手摺と、青い空を邪魔する電線が視界に映る。いつもならベッドの天蓋、あるいは窓辺 に飾られた花の匂いで目を覚ますのだが、今日は全く違った。慣れぬ畳に横になったせいで体の節々が痛むが 不思議と気分は悪くない。井草の香が鼻を擽る。悪くは無いがやはり嗅ぎなれなかった。未だにどこかぼんや りとする頭で体を起すと、肩にある毛布が畳へと滑り落ちていった。六畳にも満たない狭い室内に木霊する、 雀の囀り。夢かと思うほどに現実味の無い光景が広がっている。 「宗麟くん、起きたー?」 じゅうじゅうと何かを焼く音に混じって、鈴を転がしたような声が聞こえてくる。ベランダの欄干にて囀る朝 鳥のような可愛らしい声は襖の向こう、ダイニングにある小さな台所より宗麟を呼んでいた。香ばしい匂いに つられて宗麟が和室を出てみれば、ダイニングにある二人掛けの木製の机と椅子が目に止まった。一面の白い 壁の際には未開封の大小のダンボールが二つ並んでいるだけで、それ以外に家具らしいものは一切置かれてい ない。以前の住まいとは違いこの家は随分と狭く、殺風景だ。宗麟が黙って立って見つめていると、気づいた が台所から顔を覗かせた。 「おはよう。もうすぐご飯が出来るから顔洗っておいで」 にこり笑って再び台所へ引っ込むの手にはフライ返しが握られている。目玉焼きに違いない。 直感で悟る宗麟は、そこで自分のお腹が随分と減っている事に気がついた。いつもであれば宗茂が朝食には何 を食べたいかを尋ねてきて、その間に着る服を指定してくれて、一日の予定を伝えてくれるのに。相手は従者 ではなく元いた家の、隣家のだ。に文句は唱えない宗麟は黙って洗面所へ向う。 この古い家ではもといたマンションとは違いボタン一つで湯は出てきてくれない。二つある蛇口の左と右を少 しづつ捻り、自分で丁度良い温度に調節しなければいけなかった。それを知らずに昨夜風呂に入ってしまい、 とんだ失敗をしてしまったことを思い出し、先に頭の中でシミュレーションをする。まず青い線の入った右の 蛇口を捻る。水が出た。次いで左の蛇口もゆっくりと捻る。試しに右手を浸して温度をみるがまだ変化は無い ようなので、捻りが足りないのだと思った宗麟は左の蛇口を更に少し捻った。すると今度は一気に温度が上が り熱湯に近い湯が直に手にかかった。反射的に手を引く。指先はじんじんと痛み、ほんのり赤くなりはしたが なんとか火傷は免れた。緊張のせいか心臓がばくばくと早く打っている。慣れない事はするもんじゃないと、 面倒くささに嫌気が差し顔を上げた拍子。宗麟は眼前に掛けられている大きな洗面鏡に自分以外の顔が映りこ んでいることに気がついた。 「ふふ、精が出るね」 「・・・っ引っ込んでなさい!」 宗麟が手近にあった石鹸を投げるが、は綺麗にかわすとさっさと逃げてしまった。 こんな底辺の生活に順応しようとしている自分が許せなくて、忌々しさに歯軋りをする。だが鏡に映る宗麟の 頬は、確かに赤く染まっていた。 -- 「はい。お姉さん特性の目玉焼き〜」 「目玉焼きなんて誰が焼いても変わりませんよ。宗茂だって作れます」 「・・・可愛くない宗麟君は朝ご飯がいらないのかな?」 「あ、こら。やめなさい」 宗麟の目の前に置かれたボーンチャイナの白い皿が宙に浮く。取り上げられてしまう寸でのところで慌てて掴 んで引き止めれば、カリカリのベーコンの横に盛られた目玉焼きは表面の膨らみを振動に揺らせた。「あ!」 と咄嗟に声をあげるの声に気づいてか、宗麟が急いで皿から手を離す。 さすがに自分で作った料理を粗末にする気は無いらしく、も今度は黙って皿を机に置いた。 黄身が割れずに済んだベーコンエッグと狐色に焼けたトーストとヨーグルトが揃うと、二人は向かい合って座 り、少し遅めの朝食を始める事にした。「いただきます」「いただきます」二人が手にするヨーグルトスプー ン、あるいはフォークが皿に当たって小さく音を立てる以外には会話もなく、坦々と進んでいく食事。なんだ か少し、はそれに違和感を覚えるのだった。 「・・・静かすぎない?」 「電車の音がしないだけでしょう」 「そっか。ここ郊外だもんね。テレビでもつけようか」 「嫌です。大体食事中にテレビなんてどこの貧民ですか」 「えー、一人で食べる時って寂しいからつけない?」 「いつもは宗茂がいますので一人じゃありません」 「あ、そっか。君はそうだね」 は納得したように言い食事を再開するが、今度は宗麟がその言い方に引っ掛かりを覚える。 嫌味で言ったつもりは無いのだろうが、「君は」と宗麟だけに断定をした。それはつまり、彼女はそうではな いということを意味している。平静を装い食事を続けながらも、宗麟はそのことについて考える。彼女とその 夫が玄関先でいつも一緒に居る姿を見なくなってから何年経つかは分からないが、その頃から彼女が一人で食 事を取っているのだとしたら、もう随分と一人でしていることになる。カチャリ、金属の音が耳に聞こえて宗 麟が顔を上げると、がフォークを皿の隅に置いて休んでいた。 視線は窓の外へと向いているが、瞳はどこか虚ろで先程朝の挨拶を交わした時の清々しい笑みも嘘のようにぼ んやりとしている。小さな呟きが宗麟の耳を掠めた。 「・・・そういえば三成くんも、食事中にテレビをつけるのは嫌いだった」 ひとりごと。そう決めて宗麟は聞き流すことにした。けれども彼女が一心に見つめる窓の先には、何かあるの だろうか。気になったので同じように手を休めて視線を吹き曝しの窓へ向けてみるが、残念なことにそこに広 がっているのはこれまた電線とそれによって景観をだいないしにされている青い空と汚い街並みだけで、うん ざりさせられただけだった。向かいに建つ公営住宅がその奥にもずっと続いているのがみてとれる。もしかし たら彼女と同じような境遇の人間がここには沢山住んでいるのかもしれないと宗麟は一瞬考えたが、すぐにそ の思考を打ち消すように目玉焼きにフォークをつき刺した。食べることに専念する。彼女が黙っているせいか 以前住んでいたマンションの近くを通っていた電車の音が聞こえないせいか、はたまた今日が土曜日で朝のラ ッシュがないせいなのか、やけに静かで気味が悪い部屋にフォークと皿のぶつかり合う音だけが響く。 成程これは、テレビの音があっても良いかもしれない。宗麟はの言葉に内心で同意した。 元居たマンションとは違う。ここには宗茂もいなければ彼女がかつては愛していた夫の姿もない。忙しく外を 行き来する車のエンジン音も聞こえては来ない。それがないだけでこんなにも違うのかと思いはするが、決し てそれを悪く言う事は出来ない。この状況を望んだのは他でもない彼女だからだ。彼女自身、それは心得てい るのだろう。やがて窓から食卓へと視線を戻すと、宗麟と同じようにして食事を再開した。その瞳に迷いは見 て取れない。 「二人だとおいしいね」 皿から視線を上げた宗麟の瞳に、幸せそうなが目に入る。どこか泣きそうにも見える程満足げな笑み。 窓の外を飛行機雲が漂っている。まだ照明を取りつけていない室内はほんの少しばかり薄暗かったが、さして 問題はなかった。の言葉に、自分もおそらくこれを望んでいたのかもしれないと、宗麟は思う。 長閑な土曜日、午前十時三十分、遅めの朝食を終える。 |