丁寧に切り揃えられた金の髪が揺れて、宗麟が寒さに小さく身を震わせた。標高三百メートルの高さにあるパ ーキングエリアで食べる御当地ソフトクリームはあらゆる意味で特別だろう。寒いのに食べるのをやめられな いというジレンマを抱えつつも欲望に忠実な所が可愛くて、彼女は内心でくすりと笑む。しかし今いるのは山 の中腹部だ。夜はおそらくもっと冷えるだろう。あまりここに長居は出来ない。テーブルの上に置かれた白い 携帯が先程から静かに光りを放っている以外には外灯もなく、日が暮れたらこの辺りは真っ暗になるはず。そ うなる前に山を降りなくてはいけないのだが、何故か車に戻る気は起きず、パーキングエリアの一角にある少 し寂れたカフェテラスで色を濃くしていく夕日を二人は眺めていた。昼間はあれだけ多くの家族連れで賑わっ ていたパーキングエリアも、辺りが薄暗くなった頃から急激に数を減らしてきた。おそらく彼女と宗麟も、日 中はその家族連れの一つに見えたことだろう。今は、どうだろうか。やはり通りすがる人間には二人が親子に 見えているのだろうか。それならそれでもいい、むしろそうならいいのにと、は思っていた。 早くも片づけを始めている店をいくつか見ていると、着信を知らせるように携帯電話がまたもや光を放った。 敢えて無視を決め込んでいるが、その光は向かいの席に座る宗麟にもしっかり見えいる。およそ十五回目の着 信を知らせる光りでようやく、宗麟は出なくていいのですかと面倒くさそうに聞いた。彼女の顔に苦笑いが浮 かぶ。 「話すことがないのよね」 -- 彼女の不妊症が発覚したのが今から五年前のことである。もともと子供が大好きで、いずれは愛する夫との間 に子供が欲しいと考えていた。きっと彼に似て、白い肌と美しい銀の髪を持つのだろう、考えるだけで愛おし かった。そんな彼女の考えていることと夫の考えることというのは、必ずしも一緒ではなかった。家庭よりも 仕事に重きを置く三成は、子が出来ることで仕事に支障をきたすのが嫌で今はその時期では無いと子を作るの を渋り続けていた。夫の仕事に対する真面目さに惹かれたは、その考えが分からないでもなかった。 だから、仕事に追われる夫を気遣って不満を口にすることはしないでいた。それでも少しづつ少しづつ、地面 に落ちた小さな雪が降り積もっていくように彼女の心の内にも徐々に。小さな数え切れないほどの紙魚を気付 かぬ間に作っていったのだった。結婚生活も四年目に入り三成の頑張りが実を結び昇進が決まると、これまで 以上に社会における彼の活躍の場は増えた。長期出張も頻繁になり、社員との付き合いで家に帰るのが朝にな ることも多々あった。また、この頃から二人の生活リズムが合わなくなり始めた。深夜帰宅と午前様が増える と食事を一緒に取る機会がぐんと減り、彼女は家にてたったひとりで食事をとるようになった。こんな時、二 人の子供がいたならまだましだったかもしれないのにと思う。静かな部屋で蛍光灯のもと口に運ぶ食事は何の 味もしなくて、虚しさのあまりは涙を流すこともあった。 夫のおかげで経済的に格段に豊かになったのは事実だけれども、これまでの収入でも毎月十分にやっていけて いたし、連休には一泊二日で旅行に行くことも出来ていた。以前の生活に文句など一つもなかった。帰って来 た三成を玄関で出迎えて上着を受け取ってお帰りのキスをして、それから一緒に夕飯を共にする時が一日のう ちで一番楽しい時だった。しかし今はなにか、その肝心なところが疎かになってしまっているような気がして ならない。昇進によって更にやる気を増したらしい彼に、そんな文句は言えそうになかったが。 「なんか、馬鹿みたい・・・」 そんな折、はほんの些細な疑問から婦人科を受診に行った。 なんとなく、結婚生活の長さから考えてそうではないかと思っていたのだが案の定。彼女が不妊症であるとの 診断結果だった。『子供がいたら、』一人で寂しく過ごしてきた夜を、せめてなんとかしたいと思いついた打 開策への望みもこれで潰えてしまった。夫には診断結果を伏せておくことにした。これで心置きなく仕事を頑 張れると更に喜ばせることになるかもしれないと思うと、言えなくなった。あるいは社会的な地位が上がった 今ならば、子もなせない女はいらないと彼に切り捨てられる可能性を危惧した。優しい彼がそんなことをする とは思えないが、夫婦二人の時間がめっきり減ったために、彼がどんな人間だったか分からなくなってしまっ た。いいや、もしかしたら昇進によって少々人格にも変化があったかもしれない。どうであれそれを確かめる 程二人の時間が持てないのが、今の実状であった。そうしてまた何年かの月日が経ち、気付けば隣の家に住む 少年が中学校入学を迎えた頃。二人の間には夫婦の、会話らしい会話もなくなっていた。彼の傍にいるのが自 分でいいのか、何故だか自分を責めるようになっていた彼女は自然と夫との接触を避けるようになった。幸せ な家庭よりも仕事で頑張りを認められる事の方が重要なのか、最初の頃はそう問いただす程の気力もあったよ うに思うが、果たして自分の不妊を棚に上げてそれを言えるのかを考えると、不満を口にすることが出来なく なっていた。夫を愛していたから、離婚をするのだけは嫌だった。しかし夫を避けるようになったはいいが、 多忙とすれ違いの生活が標準となっていたせいか、彼は妻に避けられていることにも気がついていないようだ った。その彼の姿をみてようやく、もう駄目かもしれないとは思ったのだった。 ・・・あんな人じゃなかったのに。 「宗麟くんがいなかったら、私どうにかなってたと思う」 「?・・・何です?突然」 随分経った。アイスクリームを食べ終えて、テーブル脇に供えられていた紙ナプキンで口元を拭っていた宗麟 が怪訝な目をしてこちらを見る。夕日が丁度、少年の顔の左側を闇で覆っていた。それでもその表情が質問の 内容に対して惑いを浮かべているのが分かる。 「ねえ、宗麟くんはお姉さんのこと、すき?」 「え、・・・はい?」 「答えてよ、お母さんみたいだと思う?」 「が僕の、『母』ですか?」 「うん、そう」 「・・・・」 眉が中心に、一気に寄せられる。大方、これまで二人でしてきた会話や出来事を思い返しているのだろう。そ の小さな頭の中で繰り広げられているであろう想像を考えてみると、自然に自分の口元に笑みが浮かんでいる ことに気がつく。宗麟の頬にアイスクリームのコーンのカスがついていることに気がついて、そっと指を伸ば した。 「なんです?」 「ついてた」 にっこり笑うと、宗麟は顔を小さく赤らめた。かっこをつけたがる年頃なのだなあと、その反応にたまらなく なる。可愛い。の中ではいつしか夫よりも、目の前にいる少年への愛の方が大きく膨らんでいた。 自分が新居に引っ越した先にいた、隣家の小さな子供。不妊症が発覚し誰にも言えず悩んでいた自分には、そ れが運命であるとしか言いようのない出会いに思えた。廃れていく夫婦仲に反して肥大していく愛情。学校の 理科の実験で育てたというプチトマトの苗を少年がくれた事や、運動会に少年の面倒見役であるという宗茂さ んと一緒に両親と偽って参加した事。擬似的な親子体験に過ぎないが、その全てがもし本当の親子であったら と何度思ったことか。 今日、本日、長期出張を終えて帰宅する予定だという夫が家に着く前に。荷物をまとめて食卓の上に離婚届だ けを置いて家を出てきた。明確に離婚したいと思う理由はないが、いうなればこれまでの夫婦二人で歩んでき たその全てが原因だったと、もし問われたらそう答えるつもりでいた。愛は無期限ではないのだ。 いつからかカレンダーに増えていった、夫のいない日を現すバツ印。冷蔵庫のなかの二人分の食材は、それに 合わせて夫と私ではなく、隣家の食べざかりの子供と私とで消費するようになった。彼はほとんど家に帰って こない。女の影がないかわりに、私のもとへも帰らない。会話もない、何もない。何回目かの、携帯の着信を 知らせる光を目にして今度は迷いなく電源を切った。じっと此方を伺う純真な瞳だけが私にあれば、他にはも う何もいらないと思っていた。 「お姉さんと一緒に暮らす気はない?」 私は、ずっとそれを望んでいた。 → |