「いいのいいの、あんなヤツ」


カラカラと快活な彼女らしい笑い声が車内に響いた。赤信号を待っている最中、握ったハンドルをそのままに
一度も目を合わせることなく喋り続ける彼女の口からは、ある男についての愚痴が何度も語られていた。信号
が青に変わり発進するたびに振り出しに戻るその話題に、助手席に座る宗麟はいい加減飽き飽きしていた。一
体どれだけあるのか、尽きぬ男への不満は夕飯時の食事の仕方にまで及んでいる。これほどまでに細かいのは
女が故なのか、それとも彼女の性格が故なのか。どうであれ、夫婦はおろか男女のだの字の欠片も関係のない
中学三年生の宗麟には全くもって、それらは異世界の話に過ぎなかった。帰りたいと、ぼんやり思う。隣人の
話はまだ暫く終わりそうにない。この車は果たして何処へ向かっているのだろう、彼女はどこへ行くつもりで
いるのだろう。開け放った助手席の窓から入る涼しい風に当たることで気分転換をしてみるが、その先に見え
る景色はガードレールと高いブナの雑木林だけで、いつまでたっても変わりそうになかった。今、この愛車だ
という真っ赤なスポーツカーを運転する彼女が何だかんだで宗麟が小学生の頃からお世話になっている同じマ
ンションの住民でなかったら、誘拐だと喚いて自分の世話役である屈強な男に電話をしたというのに。無下に
することが出来ないでいるのは、一重に、宗麟自身彼女のことが嫌いではないからだ。飽きたので視線を窓の
外から運転席に戻すと、丁度こちらを見ていた彼女と目があった。「ごめんねー、お姉さんの我儘に付き合わ
せちゃって」綺麗に整えられた眉が申し訳なさそうに垂れるものの、口ぶりはあまり悪びれた風ではない。彼
女は、そういう女だった。さばさばしていて、どこか男っぽいと思わせる大胆さがある。土日は学校お休みよ
ね?という金曜日の午後、学校を終えて帰宅した宗麟を迎えに来て早々車に乗せたのも、その一つだった。身
勝手だと思う。「でもね、今回ばかりは本気なのよ」そんな宗麟の考えを読んだかのように彼女は言う。長々
愚痴を聞かされて疲れてしまった宗麟は頬杖をつきながらそれを耳に入れる。「そうですか」いい加減眠い。
瞼を閉じてみた。そこで丁度信号が青に変わったらしく、彼女がアクセルを踏んだ。


「・・・で、どこまで話したんだっけ」



--



「宗麟くんかー、可愛いなあ。よろしくね」


宗麟が小学生になるのと同時であるから、それは今から九年前のことだった。住んでいるマンションの隣に新
しい住人が引っ越してきた。夫の転勤でこの地方に移り住みに来たという若夫婦の主に妻の方は、子供がいな
いせいか一人で暮らしているという宗麟の話を聞いてからは何かと理由をつけては宗麟の世話を焼きに来た。
宗茂という面倒見がいるので不要であると断ったが、それでも毎朝毎晩宗麟が無事に学校に行ったのか帰って
きたのかを玄関のドアを開けて確認するという世話のやきっぷりだったので、これは面倒な隣人が来たものだ
と思っていた。だが、親がいたらこんな感じなのだろうと、宗麟は海外に出張に行ってもう五年は見ていない
親の姿をこっそりとその若夫婦の妻に見るようになっていた。次第に彼女の方とは打ち解けて行ったのだが、
ことその夫に関して言えば全くの逆であった。引っ越しの挨拶で顔を合わせた時以来口もきいてはいないが、
そりが合わないであろうと幼いながらに第一印象から感じ取ったのである。


「宗麟くん、この人が私の夫よ。ほら三成くん、宗麟くんが見てるよ、笑顔で挨拶!」
「・・・ふん」
「あ、もうまたそうやって・・・。ごめんね宗麟くん、この人愛想がないけど心はとっても優しい人だから
嫌いにならないでね」


彼女の明るさが無ければ空気が凍り付いていたはずだ。三成という男は子供の宗麟から見てとっつきにくそう
だという印象しかなかった。「別に。興味もありませんのでどうでもいいです」と三成に返した当時の宗麟も
なかなかに生意気ではあるが、大人の対応で愛想を振りまく事が出来ない三成も三成である。ともかくこれ以
来二人は口も利いていなかった。加えて夫の方は余りあるその無愛想さを補って随分と美形であった為に当時
マンションに住んでいた独身女性達の間で浮気相手でもいいから、という話が随分された。マンション住民の
間では小さなアイドルとなっていた宗麟にはこれまた面白く無い話で、余計に三成という男を毛嫌いする要因
になった。とはいえ夫は妻一筋で他の女は全く眼中に無いようで、おしどり夫婦として近所では評判だった。
毎朝、彼女が夫を玄関前で見送り、時にはその頬に熱いキスまでしていたことを宗麟は知っていた。自分が学
校に行こうと玄関を出た先でそういう光景がたまに広がっているのだ。これにはうんざりさせられた。車で送
迎にやってくる宗茂に至っては、何故か彼が頬を染めて照れる始末である。全くもって気持ち悪い。その時だ
けはあの鉄仮面でもつけているかのような夫の顔が赤く染まるのだから、宗麟にしてみれば気持ち悪いの二乗
であった。と思いながらも、しかし仲がいい証拠なのだと思い長年見続けてきたのである。何年もそんな隣の
家の夫婦を見て、宗麟は育ったのだ。


「・・・本当に良かったのですか」
「うん?なにが?」


前方を見据えたままで彼女が聞き返してくる。シートベルトはきっちりと締められ、両手がハンドルを離れる
気配は無い。余所見はしない、確実な運転。宗麟が昔から安心して乗れると思っているのは宗茂と彼女が運転
する車だけだった。視線を傾けるとサイドミラーに映る彼女の、少し開いた唇の隙間から覗く白い歯に目を奪
われる。後悔はしていないのかと聞こうとしていた口を閉ざす。微笑む彼女には不粋な質問のような気がした
からだった。そんな宗麟の心を汲み取ったのか、返事の代わりに白い手が伸びてきて、宗麟の頭の上にそっと
置かれた。信号はまたしても赤だった。


「心配してくれてるの?優しいね、宗麟は。・・・・あいつなんかと大違いだよ」
「どうせ今回もまた、下らぬ喧嘩でしょう」
「違うよ、今回は本気」
「・・・どっちが悪いんです?」
「そうね、全部お姉さんのせいかな。私のわがままだから」


ややあって、それは力ない笑みに変った。


「ごめんね、巻き込んで」


これがでなければ、宗茂に丸投げしていたと宗麟は思う。母親代わりに等しい彼女でなければ。
身長は然程伸びなかったが、頭の中まで出会った頃のままではない。彼女が明るく言ってみせたところで、そ
れがいつもと違う事が見抜けないほど間抜けでは無いし、伊達に何年も隣人をやっていたわけでも無い。いつ
もの痴話喧嘩では、無いのだろう。とはいえ、そんな生臭い話を何故中学三年生の宗麟に相談するのか。


「、何故それを僕に言うんです?」


第一女の感情を良く理解してくれるのは女であるはずだ。男の、それも子供に相談して何のアドバイスが得ら
れるという。首をかしげてそう問うた宗麟に、は笑みを浮かべて言った。


「さあ〜、・・・なんでだろうねぇ」


分からないという言葉であるが、それは明らかに理由を分かっていると含んでいた。だがその理由を話す気は
ないのだろう。仕方なくそこで追求を諦めた。と、突然頭に置かれていた手が激しく動き、宗麟の金の髪を乱
暴に撫で繰り回した。ぐちゃぐちゃにされたことに宗麟は腹を立て抗議しようとするが、そうして身を乗り出
したところで丁度車が発進したために背中を強く座席に打ち付けることになった。「やーん。髪がぐちゃぐち
ゃ、かっこわる〜い」わざとらしく言うは、痛みに耐える宗麟を見てにやにやと笑う。
「誰のせいだと思ってるんです!謝りなさい!」と反射的に怒鳴る宗麟だが、そこは大人の女の余裕でさらっ
と笑ってかわされる。


「ほらぐちゃぐちゃー」
「っやめろ!僕に触るんじゃないっ!」
「言葉が乱暴になってるよ、宗麟。ってあーほらパーキングエリアが見えてきた」
「話を聞いているんですか!?!」
「聞いてない。ところで何か食べたい物はある?お姉さん、何でも買ってあげるよ」
「・・・・今は特にお腹も空いていませんし、結構です!」
「なに遠慮してるの。お姉さんのわがままに付き合ってくれてるんだから、思いっきり甘えなきゃ。先も長い
んだしとりあえずジュースでも買ってくるけど、炭酸は飲めた?」
「・・・宗茂に禁止されています」
「りょーかい、じゃあオレンジジュースにするね」


車を降りていく際に「ここで大人しくしているのよ」とウィンクを残していった彼女の背中が小さくなるのを
見計らって盛大に溜息を吐いた宗麟は、この彼女の気まぐれによって始まった旅がどんな終わりを見せるのか
不安でならなかった。


「宗茂を連れてくるべきでした・・・」