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水滴が首を伝って、胸元に広がる湯へと落ちていった。
お風呂に入ったら涙は止まった。シャワーで全部流れてしまったか、水蒸気
になって乾いてしまったのか。とにかく涙は枯れた。今は目がひりひりとし
て痛い。泣きすぎたんだ。頭がボーっとする。気持ちがすっきりしたとはい
えないけれど、少なくとも空っぽに近い状態にはなった。お風呂は体の汚れ
だけじゃない、色んなことを洗い流してくれる。でもこれからどうしたいか
とか、そういう肝心なことまでは解決してくれない。何も、考えが浮かばな
かった。


素っ裸に、爪だけ赤いのが不自然だと思った。





















井草の香りがした。

私がいない間に買い換えたらしい。リビングに隣接する和室の畳が新しくな
っていた。二つの部屋を隔てるものは無い。当初あった仕切りのふすまは私
が小さい頃に遊びで蹴って大きな穴を開けてしまってからは取り外されてい
た。リビングのフローリングには無数の小さな傷がついていて、なのに畳は
新しいのがとても不自然に思えた。昔、此処でママに七五三の着物を着せて
もらった。それがとても綺麗だと家族みんなに褒められて、ママにはモデル
になれるわよ、なんて言われてモデルを目指そうと本気で思ったのだ。もう
モデルの仕事なんてどうだっていいけど。
佐助さんは知っていて私に近づいた。
私に長々と説明してくれた男が、調査と称してつけさせたのだと事実を言っ
た。ナンパも、半兵衛さんとのことでアドバイスをくれたのも、全部が嘘。
畳に、爪を立てていた。
そのまま下に指を動かすと派手に傷がついた。新しい畳に、傷はとても不自
然に目立った。これを傷つけることで誰かが傷つけばいいのに。佐助さんや
半兵衛さん、皆が私にしたように。力を込めて引っかいたせいで爪の先端、
赤いマニキュアが少し剥げていた。指との間には井草が入っている。半兵衛
さんがはみ出たマニキュアを綺麗に拭ってくれたのに、赤い色を、似合うと
褒めてくれたのに。せめて、この畳についた傷が一生の消えない傷となって
半兵衛さんに刻まれればいいのに。


好きだと、伝えられなかった代わりに。


























風呂上りにベランダに出るのは久しぶりだった。
見える景色はお世辞にも綺麗とはいえない。工場が近いせいで空気も汚いし
汚らしいマンションが立ち並んでいるせいで景観も悪い。それでも私はこの
景色を見て育った。此処から見る夕日が一番綺麗に見える時間帯を知ってい
るし、星が一番良く見えるのは風呂上りだということも知っていた。そのこ
とが、私の帰る場所は此処だと言っているようだった。そしてその通りに、
私は此処へ戻ってきてしまった。

濡れた髪を乾かすのが面倒くさくて、そのままにした。

















何かもう、わけが分からない。
率直な今の気持ちはそれだった。最後に半兵衛さんに言ってらっしゃいと言
って別れて、警察が来て色々あって、それから気づいたら一週間が経ってい
た。忙しすぎて日付の感覚も忘れていたらしい。正確にはそれどころじゃな
かった、だけど。多分今回のことでショーは降ろされるだろう。それどころ
か暫く干されるかもしれない。こんな状態でやったって出来るわけ無いから
、もういいんだけど。


ようやく最近気持ちが落ち着いて、物事を冷静に考えられるようになった。
ただ、今後どうしたいかとか具体的な目処は立っていない。モデルの代わり
に何をしたいかも。今はもう、何もしたくないと思う。手すりを握る自分の
手に目をやれば、そこにはマニキュアが中途半端に剥げた汚らしい爪があっ
た。落としてしまいたいのに、なぜかそれをしないままでいた。夜の闇に溶
け込まないでいる赤色が気になって、それに段々といらいらしてくる。
私の心を抉るようだと爪をこすった。落としてしまえば良いのだ。こんなも
の。簡単なことなのに。
中途半端に彼の言葉を、優しさを信じて待っている自分がいるせいなのが嫌
だった。彼は私を置いていったというのに。
思い出したら胸が熱くなって、目に熱が集まってきた。また泣きそうになる
のをいい加減にしろと乱暴に拭う。もう本当にいい加減にしたい。これ以上
苦しむのはごめんだ。いつまでこんな調子でいなきゃいけない。せめてマニ
キュアだけでも落とさせてほしい。













きらきらと小さな星が瞬いている。
良い子はとっくにお休みの時間だ。小さい子は何も知らない無垢で、夜とい
えば星の輝きを想像するんだろう。外を出歩いたら怖いなんて事事態を知ら
ないはず。私もそうだった。お金で取引する人たちが蠢く時間帯だとか、何
時頃知ったんだろう。彼も今頃、眠りから覚めて活動を開始しているのだろ
うか。近すぎて、見えていなかった。
白いのに、初めて会ったときからどこか違和感を抱かせる彼の雰囲気は、そ
のせいだったのだと今になって気づいた。だけど今更。


手の届かない星の代わりに、無性にママに会いたくなった。




















髪を乾かして、化粧と着替えもばっちりして家を出た。半兵衛さんのマンシ
ョンに行って、気が済んだら帰ってきてマニキュアを落とそうと決めた。こ
れで最後だ。二人のように、私はパパのようなトラウマを背負って生きてい
きたくない。
二人であの日見た夜景。捨てないと言ってくれた半兵衛さんの言葉が嘘だと
か本当だとか、そんなことはもうどうだっていい。私がこの先、将来を進め
るように、パパのように過去にとらわれないようにあるために、気が済むな
ら行こうと決めた。鍵は持っていない。警察の人たちに奪われた。セキュリ
ティが厳しいし、鍵も無いのでは門の中には入れない。外からマンションの
外観を見るだけだ。だけどそれでも良い。私の気が済むのが大事だ。あの鍵
についたキーホルダーは、もう何処かに失くしてしまって見つからない。
大いに結構だった。

決別は、完璧にやらないと。
それが出来なかったのがあの二人なのだから。









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