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「夜道を女性が一人で歩くものじゃないよ。反省が足りてなかったかな」



ふふ、という笑い声に振り返るのが怖くなった。
何で、どうして、一体何時からそこに立っていたのか。電車を降りてマンシ
ョンに向かっている最中に人の気配は無かったはず。だとしたら、ちらりと
横目で見ると道路の脇に車が止められていた。見覚えがあった、黒塗りの高
級車。待ち伏せをしていたんだと気づく。だけど何があって今更こんなとこ
ろまで来たのか。私を張っている人がいるかもしれないのに、こんな危険を
冒してまで私に接触しても彼に利益なんてない。そう考えて、思いつく。
口封じのため。


「なん、で」


からからの喉から何とか搾り出して言った言葉は主語の無い、疑問詞だけだ
った。後ろを振り返る勇気は無い、どんな表情なのか知るのが怖い。もし、
私が予想していたのよりずっと残酷なものだったら。今度こそ私は立ち直れ
なくなる気がする。だから、声だけでいい。後から感じる彼の気配が、以前
のと全く違うことに気づいていた。



「驚かせたかな。でも、わざわざ後始末をしに来たんじゃないよ」



安心してくれ。
彼は何故、微笑んでいるのだろう。私がこれからどうなるかを知っていると
でもいうのだろうか。私の反応を楽しんでいるのだとしたら、何て悪趣味な
んだろう。私と過ごしていた頃の彼とは、もう全くの別人のよう。半兵衛さ
んが何を考えているのか分からない。
私の目の前にあるのはマンションの壁、逃げ場はなかった。


「なら、何の用ですか」


私と過ごした頃の半兵衛さんではない。それは、つまり。
あの半兵衛さんは偽者だったということで、やっぱり私を騙していたという
ことで。胸の奥が、張り裂けそうになる。だけど、顔にも声にだってそのこ
とを出してはやらない。そんなことしたら、負けのような気がした。絶対に
、絶対に言ってやるものか。手の甲に爪を立てて涙を押し殺す。
少しの沈黙があった。背中に視線を感じる。私の様子を見ているか、冷静に
分析でもしているのだろう。背中に冷や汗が流れる。



「さあ、それは君しだいだよ」



ゆっくりと、こちらを伺うように紡がれた言葉。
どうしてこうも、私は彼に翻弄されるばかりなのだろう。視界がにじむ。
私がお願いすれば一緒に連れて行ってくれるとでも言うのだろうか。願えば
此処を立ち去ってくれるとでも。もうやめて欲しい。どうして忘れようとし
ていた頃になって目の前に現れるのか。早くこのマニキュアを落としてしま
いたいのに。何も話す事なんか無いのに。これまでだって時間はあったのに
、一度だって私に秘密を打ち明けてくれることは無かった。それはつまり騙
しとおすつもりでいたってことでしょう。それを、こんな形で真実を知った
今、素直に半兵衛さんを信じて連れて行ってと頼むことが出来るとでも。
涙が、こぼれそうだった。許してしまいそうな自分が嫌で嫌で、唇を噛む。
泣きそうな顔なんて、見せるものか。口を開けたら思いが全て泣き声になっ
てしまいそうで、頼むから、早く立ち去って欲しかった。


「計算違いだった。彼らに見つかるのが早かったんだ」


唐突に、半兵衛さんが言った。
その声はさっきと少し違っていた。淡々として、だけどどこか沈んだトーン
。一緒に住んでいた頃、お仕事から帰ってきて疲れたときに半兵衛さんはそ
の声になる。疲れで、言い方が雑になるのもあるけれど、本音に近くなるの
だ。あの短い生活で知ったことだった。だけど期待をさせるのはやめて欲し
い。その言葉が、本当のことだという証拠は無い。また私を騙す演技かもし
れない、何を考えているのか分からない人だから。気持ちが揺らがないよう
にと、拳を強く握る。


「僕が捕まったら困る人がたくさんいるんだ。そういう内は彼らに捕まるこ
 とはないよ」


その言葉に絶対の確信を含んで半兵衛さんが笑う。
黒い笑いだった。世界の裏側を、真実を見ているようだと思った。お金で世
の中がどうにでもなってしまうのは知っている。だけどそれを実際に出来る
人が口に出すと、より真実味が増した。私はそういう世界とは無関係だと思
っていたし、これからもそうだと思っていた。竹中半兵衛。得体の知れない
男だと、心底思う。出会ったあの日に、何となくそうじゃないかとは思って
いたけれど。そんな事を今更私に言って、何のつもりだろう。


「僕と共に来るんだ」































振り上げた手が彼の端正な顔を叩くことはなかった。
手首をしっかりと掴まれて、お互いの距離が縮まっただけだった。その状態
で半兵衛さんと目を合わせる。ポーカーフェイス。白い肌が仮面のようで、
自分ひとり激情に揺れているのが馬鹿みたいだと思った。押さえとどめてい
た思いが、荒い息になって口からこぼれる。握られた右手、半兵衛さんがマ
ニキュアに気づいた。爪をじっと見る表情は人形のよう。瞳がかすかに揺れ
る以外には、何の変化も無いのが悔しくて。叩きたい、私がどんな思いでこ
れを消せずにいたかを、目の前の男は知らない。分からせてやりたい。振り
ほどこうとして動かした手をさらに強い力で押さえ込まれてしまう。視界が
曇ったのが、私の敗因だった。


「騙していたんですか」

「始めはね」


歯軋りをする。
ほら、真実だ。始めはそうだったとして、後からだって言う訳が無い。人質
に逃げられる可能性があるもの。誰が自分に都合の悪くなることをみすみす
話すものか。私はまんまと彼の可愛い子猫ちゃんになっていたというわけだ
。私を拾ってくれたこと、料理を作ってくれたこと、車で迎えに来てくれた
こと、洋服を買ってくれたこと、ナンパから助けてくれたときに言った言葉
、頭を撫でてくれたこと、マニキュアのはみ出たのを拭いてくれたこと、捨
てないって、此処にいて良いと言ったこと。その全てが、全部が私を欺くた
めの芝居だった。私を囮にして逃げるためのものだった。
うつむいた顔を上げても、曇った視界に映る彼のぼやけた顔から表情は読め
ない。どうして、言ったつもりで声になっていなかった。半兵衛さんに届か
ない。どうして今更私に一緒に来いなんていうの。捨てたのは、そっちのく
せに。やっぱり声になっていなかった。
赤い爪に、ひんやりとした感触がする。半兵衛さんの唇が触れていた。
それがすごく扇情的で、本当に何をやらせても絵になる人だと思った。剥が
れてみすぼらしい爪すら芸術品に見えてくる。人差し指、中指と順番にキス
をする。伏せられた睫が重たげに揺れる。モデルで美しいものが大好きな私
がこんなみすぼらしいもの、普通なら放置しておくわけが無い。誰かのため
にそうしていたのだ。


「捨てないって、いうのも、嘘ですか」


堪え切れなかった涙が落ちた。
美しいものが、好きだった。宝石も洋服もお菓子も化粧も、ママが好きだっ
たから。この場にいたら聞いてみたかった。ママは一回でもパパのためを思
ってそれをしたことがあったか。
赤のマニキュアは、半兵衛さんが似合うといってはみ出たのを拭いて完成さ
せてくれたからそのままにしていた。そんなことまでしてくれた半兵衛さん
の優しさを信じたかった。



「嘘じゃないよ」



微笑む半兵衛さんが優しくて。
まだこの人を好きだと思った。私を囮にしたことも、もう涙で流して許せて
しまえそうだった。半兵衛さんが何者だって構わない。どんな汚いことを影
でしていたって良い。もう連日泣き続けていると言うのに。涸れろよ、私の
涙。嗚咽に混じって声がなかなかでない。嘘じゃないなら、私しだいなら、
望むことは決まっている。


「連れて行ってください」










































「どこまで行くんですか」

「まだ大分あるよ。組織の拠点に向かっているからね」


そうですか。相槌を返す。自分から聞いといて何だけど、それどころじゃな
かった。目が腫れて痛いのなんのって。行き先を教えてくれないのは出会っ
た時と一緒だった。そのうち知ることになるんだから教えてくれても良いの
にと思う。高速道路を抜けて、真夜中の国道を走る。ビルが少なくなってい
くことに、この街を出るんだと気づいた。家にはもう連絡しないことにした
。死んだってことにしておく。でなければきっとまた、あのベランダからの
眺めを見ることになりそうだったから。

『眠いの』

瞼が垂れ下がってきたのをそのまま重力に逆らわずにいると、半兵衛さんが
聞いてきた。優しい声に安心して、冗談半分、

『寝ている間に捨てないで下さいね』

半兵衛さんは笑っていた。それは綺麗に。



「僕は君を拾ったんだ。ずっと一緒だよ」




幸せだと思った。
起きた時にこれが夢じゃないようにと祈って瞼を閉じる。


私と半兵衛さんを乗せた車は、そのまま静かに闇に溶けていった。










fin