8













「お婆ちゃんには半兵衛さんにお世話になってるとだけ伝えておきました。
 分かったって言ってくれましたよ」

「理解のある保護者で良かったね」


私が携帯を閉じたのを確認して半兵衛さんが椅子から立ち上がった。そろそ
ろ時間らしい。


「昨日の今日でまたお仕事ですか」

「そうだよ。僕は君が思っている以上に忙しいんだ」


はあ、と肩が下がる。昨日の良い雰囲気を持ち越さない半兵衛さんの言い方
にムードの無い男だと文句の一つでも言ってやりたい。だけどお仕事とあれ
ば文句は言えない。ネクタイを正す半兵衛さんに頑張ってください。と引き
止めたい気持ちを殺して言った。


「話が分かるみたいで助かるよ。その代わり明日は休みだから、君の好きな
 ところに遊びに行こう」


まさしく私にとっての雨と鞭だ。くそう。どこに行きたいか考えておくと良
い、なんて宥めるように頭を混ぜられたら許してしまうじゃないか。楽しみ
にならないわけがない。半兵衛さんの小さな微笑に顔がだらしなくなってし
まう。好きだと自覚して半兵衛さんに隠す必要がなくなったせいだろうか、
その腰に抱きついて、好きだと叫んでしまいたかった。


「早く帰ってきてくださいね」


靴を履き終えた半兵衛さんの背中に思い切って抱きついた。嫌がられるかと
思ったけれど『おっと、』とつんのめりそうになって声をあげただけで、さ
して動揺した様子は無かった。顔を背に埋めると半兵衛さんの匂いがして、
それに満たされるような気持ちになる。変態かもしれない、今の私。
でもこれで半兵衛さんのいない分を補うのだ。『随分甘えてくるね』半兵衛
さんは呆れた風だ。でも拒まないってことは嫌ではないってことかな。満足
した私は半兵衛さんを離すと自分に出来る精一杯の笑顔をした。


「言ってらっしゃい」

「行ってくる」


半兵衛さんの手が、私に伸ばされた。頬に掛かる髪を耳に掛けてくれる。
その手つきが優しくて胸が高鳴る。わざとやったのかもしれない、呆ける私
に意地悪く微笑んで半兵衛さんは家を出た。後姿は男性の中でも華奢な方だ
と思うのに、私にはとても頼もしく見えた。胸に飛び込むことが出来たら良
かったのに。『好きだ』って言ったら、半兵衛さんは何て言っただろう。


























「此処にいるなら、家に連絡の一つは入れておくべきだ」


優しい口調の裏に有無を言わせぬものがあった。しろ、と言っているのだ。
一夜明けて早朝、落ち着いて話し合いの場を設けた半兵衛さんが、此処で一
緒に暮らすならその前に親に連絡をしておくようにと言った。
半兵衛さんに言われて、そういえばしてなかったと気づく。3週間近く経っ
ているけど、世間で騒がれている様子が無かったから捜索願が出されていな
かったのかもしれない。それなら幸運だけど、これからそうなるとも限らな
いのでさっさとお婆ちゃんに連絡を入れることにした。パパにはお婆ちゃん
が伝えてくれるだろう、何か言いたげなお婆ちゃんだったけど、定期的に連
絡を入れるように言ってこちらに住むことを了承してくれた。


そうしてどたばたと午前が終わって一息ついて時計を見ると12時半。
半兵衛さんがいないとやることが無くていけない。何か面白そうなテレビは
ないかと新聞の番組表に目をやったところで、来客を告げるインターホンの
音が部屋に響いた。宗教の勧誘。あるいは訪問販売。頭に浮かんだ可能性に
このマンションのセキュリティが厳重だったこと思い出して、それはないと
頭を振った。では誰だろうかと考えてみたところで、半兵衛さんが忘れ物を
取りに帰ってきたのかもしれないと思いつき急いで玄関に向かった。


「半兵衛さんですか?何か忘れ物でも・・・・」


のぞき穴から確認をせずにドアを開けた先、そこに立つ人は半兵衛さんでは
なかった。新聞勧誘にしては面持ちが真剣すぎるような、それに6人もいる
。それが何だか異様に思えて、何ですかと私が口を開いた時、一番近くに立
っている男の人が言った。


「警察だ」


数人の男性が、私の持つドアを外側から押し開いて家の中へと止める間もな
く入っていった。
目の前に立つ男の人が懐からカードサイズの物を取り出して私に見せる。黒
いそれは、手帳だった。施された金色のマークは何処かで見たことがあるよ
うな。それを思い出すよりもこの状況事態が、テレビのドラマでよく見る一
場面とよく似ているような気がした。
私の背後、家の奥から声がする。逃げられただの、それらしい証拠を探せだ
の。手帳を持つ男性の後ろにいる男の人が携帯電話を取り出した。事態がつ
かめない私は完全に第三者のような気持ちで、その声を聞く。電話の相手が
誰かなんて知るわけも無い。だけど、その男性は私を見て言った。


「人質は無事だ。怪我も無い」



一体何。

フリーズして固まる私が心の中で助けを求めて思い浮かべたのは、半兵衛さ
んだった。早く帰ってきて下さい、半兵衛さんの家に知らない男の人が勝手
に入っているんです、怖くて。私、どうしたら良いんですか。
私の心に思い浮かぶ半兵衛さんは、私の救いに返事を返してはくれない。


「君にも来てもらう。重要参考人だ」


手帳をしまった男の人が私の手首を掴む。
その感触がひどく気持ち悪くて手を引いて拒んだら、



「君はあの男に騙されていたんだ。だけどもう大丈夫だ。安心しなさい」



吐き気がする、

今日は天気予報で日中は暖かいと言っていたのに。体中が寒くなっていく感
覚がする、指先が冷えているのが分かる。何が起きているのかうっすらと分
かってしまって、視界が曇っていく。
また今日も泣くことになるのかと、胸が締め付けられるような感覚を覚えた
ところで私の視界が途切れた。




































『君のそれはストックホルム症候群といって。
 長い間犯罪者と接する人が陥ってしまうもので、特に男女間なんかでは君
 みたいに深く同情意識を持ってしまうんだ。彼、竹中半兵衛はあの容貌だ
 から君みたいな若い女の人を人質に狙ったんだろう。君の救出が遅れたの
 は彼が最も賢い方法で君を側に置き続けていたからなんだ。君がモデルと
 して華々しく表で活躍している人間で、手がかりが無い我々には堂々と君
 を調査できないのを分かっていて人質にとったんだ。君自身は気づいてい
 なかったかもしれないが一人でいる時間は少なかったはずだ。奴は自分の
 身を守るために、人質が取られてしまわないように、君の仕事が終わった
 ら必ず車で送り迎えをして、休日もあまり外に出さないようにしていた。
 だがご丁寧に君自身には人質だと気づかせないようにうまく立ち回ってい
 た。こういうやり方だったから最後まで君は今回の事件に巻き込まれてい
 ることを知らないままだった。

 それじゃあここからは竹中半兵衛がどういう人間かの説明に入る。彼はあ
 る新進の裏組織に所属している奴で、家柄も良い。実家は政界にも裏で関
 わっていて、政治家で献金問題で逮捕された奴らの多くは金の出所として
 奴の実家の名を上げる。世間には全く知らされていないがかなり有名だ。
 その竹中半兵衛が所属している組織のボスがまた危ない奴と有名で、まあ
 君にはこれ以上のことは言えないんだが。その組織の幹部でボスの右腕を
 やっているのが竹中半兵衛というわけだ。最近組織の動きがやたらと活発
 になってきたから隙があれば捕まえたいと思って調査していたんだ。組織
 が目に見えて勢力を拡大してきている、近いうちに何かとてつもないこと
 をしでかすのではないかと、こちらは強く懸念しているんだ。そのために
 も今回の、竹中半兵衛と接触した君の証言は重要なんだ。辛いこととは思
 う、君の気持ちは分かる。しかしどうか我々の捜査に協力してもらえない
 だろうか』








蛍光灯の明かりが安っぽくて、醜いと思った。

そんなものに照らされる部屋にあるもの全てが汚い。磨かれていない黒ずん
だ白い床に、この部屋そのものに、反吐が出そうだ。木製のテーブルをはさ
んで向かいに座る中年の男がわざとらしく咳をした。何か反応を示せと言い
たいのだろう。ちらりと見えた歯はヤニで黒ずんでいて汚かった。
ああ、汚い。
半兵衛さんとは大違い。こういうのにとても慣れているような表情をしてい
るその男。それがとても癪に障った。ほとんどの話を聞き流していたけれど
、これだけは言いたかった。お前が半兵衛さんを語るな。


うるさい、と。その醜い顔にそれだけ言った。



























何日間かの事情聴取を終えて戻ってきたのは、もう半兵衛さんの家ではなか
った。また嫌いなパパとの生活に逆戻りだ。
それを実感したのは玄関で出迎えてくれたお婆ちゃんが私を見て泣いたこと
だった。たまらず私まで泣けてきて、お婆ちゃんに縋りついて大声で泣いた
。怖かったね、頭を撫でるお婆ちゃんに私は必死で半兵衛さんは良い人なの
だと、これまでの生活を叫んだ。皆は半兵衛さんが悪だって言うけど半兵衛
さんが私を拾ってくれたこと、私がモデルだと言ったら美容のことを考えて
手料理を作ってくれたこと、服も払うって言ったのにお金を受け取ってくれ
なかったこと、でも体を求められることは一度だって無かったこと、私に捨
てないと、此処にいても良いと言ってくれたこと。例え私を騙していたんだ
としても、こんなことまでする素晴らしい人がいるわけない。半兵衛さんみ
たいな人絶対にいない。私の取り調べをしたあんな男やパパなんかよりもず
っと良い人だ。



「ねえ、ちゃん。
 どうしてそんな人がちゃんに何も言わなかったんだろうね。
 ひどい人やね、ちゃんを置いていきよった」




お婆ちゃんが辛かったね、と涙をこぼす。我慢しないで泣きなさい、もう大
丈夫だからね。そう言って背中を叩く。分かり合えないことにまた涙が出る
。だけどお婆ちゃんはそれを怖かったのね、と勘違いして私の背に回す腕の
力を強めた。違うんだってば、聞いてよ。そう言いたいのに私の喉から出る
のは嗚咽だけで。お婆ちゃんは、私の味方じゃないの。
ママとパパが離婚した時だってこんなには泣かなかった。どうしてどうして
と考えれば考えるほど隠し切れない事実が、現実が私の胸を引き裂いて抉る
ようだった。私は彼のことを何も知らない。何の仕事をしていたのかも、毎
日どこへ行っていたのかも、何の書類を読んでいたのか、どうしてあんなに
お金を持っていたのかも、あの日、私を拾ってくれた日にどうしてあんなと
ころにいたのかも。何一つ私は知らない。涙が止まらない。何時になったら
涸れるのだろうか。


半兵衛さんを信じたいのに周りの言うことを信じてしまいそうな自分が嫌で
、捨てられたのだと理解する私の頭も嫌で、何もかもが嫌だった。








next