7













合鍵を貰っていた。
それを受け取った時、半兵衛さんが少なからず私を信頼してくれているんだ
と嬉しくなった。この家に帰ることを許されたようで、調子に乗って鍵につ
けるキーホルダーを半兵衛さんのイニシャルの形のにした。既製品のそれに
はハートが付属していて、実は私はそれが狙いだったのだけど、半兵衛さん
も何も言わなかったから、黙ってそのまま使っていた。無意識に半兵衛さん
に甘えていたのかもしれない。何だかんだで半兵衛さんは優しいから。














遅くなってしまったとマンションのエレベータに乗っている最中に我に返っ
た。電車の中でもどこか飲み会のときの気持ちを引きずったままでいた。
機会音がしてエレベーターのドアが指定した階で開く。ゆっくり歩くとコツ
、コツ、とパンプスの音が響いた。
鍵を錠に入れて回す。ドアの取っ手を持って重心を後に倒して引いたところ
で、ガンと大きな音がして衝撃が手を伝って腕に響いた。
まさか。


嫌な予感がして反動で手を離したせいで閉じてしまったドアにもう一度手を
掛けて引いてみると、開いたドアの隙間から鈍く光る鎖が垂れていた。
信じられない。
チェーンが掛けられていた。半兵衛さんが帰ってきているのだと理解する。
だけどこんなことって。言いつけを守らずに半兵衛さんよりも遅く帰ってき
てしまったから?自分が悪いと分かってはいる。だけどでも、ちょっと待っ
て欲しい。だって、これではまるで、


「半兵衛さん?」


中からは何の反応も無い。
世界に置いていかれるかの様に、急に体が外気の冷たさを感じて冷えていく
。お酒が抜けて酔いがさめた気がして、ようやくこれが半兵衛さんから私に
与えられた罰なんだと理解する。仕方が無い、今日はホテルに泊まろう。以
前の私ならすぐにそう思って諦めてこの場を後にしただろう。だけど今の私
にそれは出来そうに無かった。瞼の奥が圧迫されるような感覚がする。


「開けてください・・・、半兵衛さん」


震えてみっともない声が出た。
呟くような小さな声が半兵衛さんに届いているわけが無い。分かっているの
に、口にせずにいられなかった。きっと飲み会でかすがさんと佐助が言った
言葉を真に受けすぎたのだ。違いない。目から、涙がこぼれた。


















夜景が綺麗で、ずっと見ていたら涙も枯れていた。
十五階ともなると眺めが良い。渡り廊下の手すりに腕を置いてその上に頭を
もたれると足の疲労が少し和らぐ気がした。伝線が夜風で揺れている。生暖
かいそれは、私の頬を撫でてとても気持ちが良い。
ここから真っ直ぐ先に電車の線路が通っているのが見える。それが続く先に
は明かりが群がる地域。ビルが密集しているから、多分オフィス街だ。それ
か繁華街。



『好きな人とは、結ばれなくちゃ駄目よ』



ママが銀座に連れて行ってくれた日曜日の、晴れた午後、宝石店のショーウ
ィンドウを一緒に眺めていたときに言われた、離婚前の最後の言葉。
大好きなママが言ったその言葉をきらきらした宝石の言葉のように思って大
切に胸に刻んだその女の子は、その一週間後にママとお別れをする事になる
なんて知りもしなかった。また自分が大好きなママに捨てられたのだとも、
決して思わなかった。代わりに父親が悪いのだと憎むことで、母親と自身を
美化した。そうして自分の中の母との思い出を守った。


















「反省したかい?」


突然掛けられた声に多少驚きはあったものの、私の頭を振り向かせるには及
ばなかった。考え事なんて苦手なことをしたせいで体がだるい。あるいは夜
風に当たり過ぎたからかもしれない。彼の怒りが私に向いていると分かって
いても、もう何もかも面倒くさかった。そのまま夜景を見続けていると、手
すりが小さく軋んだ。半兵衛さんだった。
隣に来ていたらしい、私と同じように手すりの上に腕を組んで、目は真っ直
ぐ前を見ていた。その完璧なまでに美しい横顔に、怒りは見られなかった。
綺麗だね、言う彼の方が、私には美しく思えた。


彼やこの夜景と違って、私はひどく汚い。
半兵衛さんはこんなにも私に優しくしてくれるのに、私は彼の本質を見ずに
外面にばかり惹かれていた。容貌と経済力。
分かっていた。もしこれが恋だとしてもママとパパなんか関係ないし半兵衛
さんは半兵衛さんで、どうするのかは全て自分次第だ。捨てられたらとか、
そんなのは自分に自信が無いから逃げの言い訳にしているだけ。
鍵を貰って嬉しくて喜んだのに、どうして私はその時の自分の気持ちを信じ
ることが出来なかったんだろう。半兵衛さんは、もうとっくに信頼してくれ
ていたのに、私はその気持ちを疑ってばかりで今日だってその信頼に応えよ
うとはしなかった。挙句追い出される間際になってようやく半兵衛さんへの
思いに気づくなんて。今ならまだ引き返せるなんて、どの口が言うのか。







気づくと半兵衛さんに頭を撫でられていた。涙、そう言われて気づく。
また泣いていた。涙が頬を伝ってこぼれている。あれだけ泣いたのに、さっ
きよりもひどいかもしれない。私の涙は涸れないのだろうか。


「捨てないで欲しいんです」


本当に無意識に、口から出ていた。夜景に向かって言ったかのような小さな
声だったけれど、半兵衛さんの頭を撫でる手が止まったから伝わってしまっ
たのだと知った。ママとパパを思い出して不意に出た言葉だったのかもしれ
ない。




「捨てないよ」




小さな声は確かに耳の鼓膜を振るわせて、私の胸をえぐった。
私がずっと求めていた言葉を、半兵衛さんが確かに言った。
もうその言葉で十分すぎる程だった。私の胸から何かがあふれだして、涙が
ぼろぼろと落ちた。半兵衛さんと最初に食事をしたときもこんな気持ちにな
ったと思い出す。半兵衛さんがくれる言葉は決して優しいものばかりでは無
いけれど、私には温かくて、それに泣きたくなるのだ。
半兵衛さんの目は澄んでいて真っすぐだ。パパやママなんかとは全く違うこ
とにもっと早くに気づけたなら良かった。今からでも遅くないなら、今度こ
そ半兵衛さんを信じたい。私を許して欲しい。



「ごめんなさい」



鼻声混じりの聞き苦しい謝罪に、もういいよ。僕もやりすぎた、と返す半兵
衛さんは、きっと私が言いつけを守れなかったことを謝っているんだと思っ
ているに違いない。会話に食い違いが生じている気がするけど、それでも良
いと思って言い直さずに置いた。それだって間違ってはいないから。気分も
落ち着いて、それを確認して半兵衛さんと私は前に向き直った。


きっと、半兵衛さんと過ごすこの生活だって永遠には続かないだろう。
いつかは終わる。私はまだ半兵衛さんの多くを知らないし、知る頃にはお別
れになるかもしれない。それでも今は私を捨てないと約束してくれた。側に
おいてくれると。それが今の私と半兵衛さんの縮められる距離の限界だとし
ても、私は満足だった。








遠くに聳えるビルの明かりが消えてしまうと、建物自体が無かったかの様に
消えてしまうのが悲しかった。







next