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半兵衛さんが良い。
付き合うなら、結婚するなら半兵衛さんが理想だ。一緒に過ごすほどにそう
思う、断言できる。これを逃したら半兵衛さん以上の男性に今後出会える可
能性なんて無いだろう。狡い考えだけど、このチャンスをものにしないでど
うすると思う。
だけどそれと同時に、半兵衛さんはやめておいた方が良いと冷静に思う私も
いる。私がパパのようになる可能性がある、彼ほど完璧じゃなくても他の男
性を探した方が良いんじゃないか、と。妥協は嫌なのに、どうしてもそう考
えてしまうのだ。










「あ」


考え事をしていたせいで、マニキュアが爪からはみ出てしまった。
拭き取ろうと思ったところで他の爪が乾かないうちにやったら被害が拡大す
るかもしれないと考えて、とりあえそのまま乾かすことにする。


「赤?」


仕事の書類に目を通していた半兵衛さんが顔を上げて言った。半兵衛さんは
家にいてまで仕事をやっていることがある。何の仕事かは教えてくれないし
、話しかけても返して貰えないからそんな時はそっとしておくのだけれど、


「たまには目立つ色でも良いかなと思ったんですけど、ひょっとして似合っ
 てません?」

「いや、似合ってるよ」


似合ってる、と言われたことに安堵する。変って言われたら即刻リムーバー
で全消しするところだった。半兵衛さんが嫌じゃないなら良し、と。
マニキュアがそんなに珍しいのだろうか、半兵衛さんは書類を持ったまま尚
も私の手を見ていた。


「あの、今失敗したばかりなんであんまり見て欲しくないんですけど・・・」


失敗したのは薬指。派手にはみ出ているから目立って仕方が無い。そんな失
敗した爪を異性に凝視されるのは口紅がはみ出たのを見られるのと同じくら
い恥ずかしい。いつもはこんなミスやらかさないんです!と心の中で叫ぶ。


「貸してごらん」


え、と驚きを口にする間もなく半兵衛さんがリムーバーをひったくった。
書類は何時の間にか机の端に伏せられている。伏せる辺りが半兵衛さんらし
くて抜かりがないと思っていたら左手を取られた。

初めて半兵衛さんの手に触れた。

しかも何気なくじゃなく、爪を凝視されると言うこの形。半兵衛さんの手が
意外に大きくてしっかりしていることに気づかされる。細身だけどちゃんと
男の人なんだ。そう思ったら急に緊張してきて、手汗をかいてしまいそうだ
と乙女らしさのかけらも無いことを思った。
半兵衛さんがリムーバーではみ出た部分を丁寧に拭き取っていく。つん、と
鼻をつく匂いがする。爪に意識を集中させる半兵衛さんは気づいていないか
もしれないけれど、今の私と半兵衛さんの顔は、距離がとても近い。


「はい、終わり」

「あ、ありがとうございます・・・」


そう言って離された手は自分のものではない様な感覚がした。
指先が緊張からか、はたまたリムーバーのせいか、ひんやりと冷たくなって
いる。ほんの一分にも満たないほどの、それも手だけの接触だったのに心臓
が早くなっている。男性に免疫が無さ過ぎるのも困りものだけど、間違いな
く私は半兵衛さんに翻弄されていると思った。















早朝、半兵衛さんがお仕事で早くに家を出ることになったので玄関まで見送
ることにした。


「君も仕事に遅刻しないように行くんだよ」


それは子供相手に言う言葉だといつもなら腹を立てるものの、心配してくれ
ているんだと良いほうに受け取とってしまうのは、いつもと違って私が半兵
衛さんを見送る側だからかもしれない。ドアに手をかけたままの半兵衛さん
は上等のスーツをきっちりと着ていて、私服のときよりも大人の男性という
感じがした。


「それと、今日は帰りが遅くなるけど、だからと言って羽目を外さないよう
 にしっかり留守番してるんだよ」

「分かってますよ」


居候の身だから半兵衛さんの言いつけは守ってる。それに羽目をはずすと言
っても今は欲しいものも無いから無問題だ。仕事が終わったらそのまま帰っ
てくることになりそうだと言うと、今度こそ半兵衛さんは満足したのかドア
を開けた。


「それじゃ、行ってくる」

「言ってらっしゃい」


そのやり取りが何だか新婚さんみたいでくすぐったくなる。
結婚したら私はママと違って仕事をやめて家庭に入りたい。もし本当にそう
なったら半兵衛さんと毎日こんなやり取りをすることになるのだと、その光
景を想像したら少しだけ良いなあと思ってしまった。

















お昼前には会場入りした。
今日はショーまで一ヶ月ということで、皆が集まって衣装やメイクの合わせ
をすることになった。モデルの良いところは流行や新作の服を着れる事だ。
私の着る服を合わせてくれる担当の人とこれからのトレンドの話で盛り上が
っていると、ふいに肩を叩かれた。振り返るといつか見たオレンジ髪の男の
人が立っていた。


「うっわ、偶然!俺のこと覚えてる?」

「覚えてますよー。名前知りませんけど」


がくっとコントのように崩れる彼に思わず笑う。ノリの良い人だ。また会え
ると思いませんでしたから、と言うと相手もまあねと苦笑いした。売れっ子
同士ならどこか別のショーでまた会うことはあるかもしれないけど、女性と
男性ならその可能性はぐっと低くなる。びっくりなことなのだ。


「じゃあまた会えるかもしれないし、自己紹介しとくわ。
 俺様、猿飛佐助。佐助って呼んで」

「あ、です、本当に縁がありますね。よろしくお願いします」


佐助さんが差し出した手を握って今回のショー頑張りましょうねと社交指令
で頭をたれると堅苦しいと言われてしまった。貴方が軽いんですと言いたい
けれどまあ佐助さんなら気を許しても平気かな、と思った。


「あ、次会えたら言おうと思ってたことがあるんだよ」

「はい?」

「あの時の、ちゃんの彼氏だったんだね。それなのに声かけてごめんね」

「ああ、いえ。お気になさらず」


本当は彼氏じゃないんですけどね。そう訂正しようとしてやめた。
否定して面倒くさいことになるのも嫌だし、説明自体が面倒くさい。肯定も
否定もせずにそのまま流した事に佐助さんも気づかなかったので、そのまま
好きにさせておくことにした。


「お詫びといっちゃなんだけど、この後飲みに行かない?」

「・・・大事なショーの一ヶ月前ですよ。何言ってるんですか」

「固い事言わずに。彼氏がいるなら口説いたりもしないし」


あの手この手と。口が回る佐助さんに断る理由が無いので丸め込まれてしま
いそうだ。帰っても確かに食べるものは無いし、料理もできないから適当に
済ませるつもりでいたけれど。


「ていうか他の奴らもいるから安心して。かすがとか」

「え!?あのかすがさん!?」


大先輩だ。今回のショーでもラストを飾る大役を任されている今一番の売れ
っ子モデル。とにかく妖精の様に美しい人なのだ。私の憧れのモデルの一人
、かすがさん。ぜひとも、この機会に一度お目にかかりたい。


「佐助さん、私行きます!」

「そう来なくっちゃ。キャンセルは無しね」


上手いとこ乗せられた気がするけれど、まあいいや。
承諾してから半兵衛さんに羽目を外さないようにと言われていたのを思い出
だした。けど、夕飯を食べに行くくらいなら大丈夫だろう。半兵衛さんが帰
ってくる時間までに家に帰っていれば良いのだから。余裕、余裕。














そうして仕事終わりにちょっと早めの飲み会となった。
私達のほかにも参加している人は多くて、お店一つ貸し切ったみたいだった
。しかしそこはモデルだから皆頼むものが徹底してヘルシーだ。まあ仕方が
ない。私の席の隣は佐助さんで、その隣には憧れのかすがさんがいる。
佐助さんが手を回してくれたらしい。有難いことだ。だけどそんな幸運に恵
まれたのにも関わらず、私はさっきから二人に質問攻めにあっていた。


「ちゃん、アイツにはやっぱり外見で惚れたの?」

「ああ、はい。綺麗ですよー、半兵衛さん」


佐助さんが、やっぱりー。面食いって感じがしたんだよね。と言うのをかす
がさんが佐助さんの耳を引っ張って黙らせた。仲が良いなと思って二人の事
を聞いたら昔馴染みだとかすがさんが教えてくれた。だけど二人について聞
けたのはこれだけ。後は全部、私と半兵衛さんのことばかりだった。一緒に
住んでいると口を滑らせたのが原因だろうけど。


「恋人同士だろ?将来結婚したいとかはないのか?」


かすがさんが言った言葉にどきりとした。この二人は私と半兵衛さんが恋人
だと思っているから話を飛躍させるのだ。しかしこれはどうかしたらアドバ
イスを聞き出す、貰えるチャンスじゃないだろうか。ふとそう思いついた。
発想の転換ってやつだ。この二人にさりげなく私の考えを聞いてもらうこと
にしよう。


「そのことで、かすがさんに聞きたいんですけど」

「何だ?」

「男の人に捨てられるかもしれないって考えたら、結婚が怖くなったりとか
 ありませんか?」



頭によぎるのは何日か前に私が作ったクッキーで半兵衛さんとお茶をした時
のこと。半兵衛さんが理想だと考えて思い出した男女の不安定さ。私がよく
知っているものだ。パパとママのように、どんなに愛し合っていても別れる
ことがある。もし私が捨てられる立場になったら、結婚なんて最初からする
んじゃなかったと思いそうだ。
だけどそんな不安をまるで無視して、私の中の半兵衛さんへの気持ちは日に
日に大きくなっていく一方で。昨日手を握られた感触も鮮明に思い出せる。
目が合うだけで心臓が跳ねる。以前はこんなの無かったのに。この気持ちが
恋なんだとしたら、まだ確信は無いけど、分かんないけど、でも今ならまだ
引き返せるところに自分はいると思うのだ。


「捨てられるのが怖いから結婚するんだろう。」

「・・・え?」


間抜けた声が出てしまった。
自分の考えと間逆のことをかすがさんに言われて、咄嗟に頭で理解が出来な
い。何を言っているんだ、と逆に私を疑うような目で見るかすがさんに、恋
人じゃ捨てられちゃうからね。と言って佐助さんが同意した。



「離婚を最初っからするものだと何故考えるのだ。それでは結婚どころか恋
 も出来ないと思うぞ。お前は付き合うときに別れるときのことなんて考え
 るか?」


かすがさんの言うことに佐助さんがうんうんと頷く。確かに結婚ってそうい
うものだ。分かる。二人の言い分は分かる。だけど。私のパパとママは現に
離婚したのだ。パパはママが出て行った日に玄関の床に頭をついてみっとも
なく大泣きして、私はその大の男の丸まる背を見ていたのだ。

今でも覚えてる。


あれが私のトラウマだった。私はああはなりたくないのだ。








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