人気のない薄暗い廊下。大きな窓が壁一面に続いているのに採光が悪いのは、今日の天気が
暗雲垂れ込めているせいだった。天気予報では、4時半ごろから雨が降るとなっていた。
丁度下校する頃だ。朝はそうでもなかったのに、お昼休みに入ってから段々と予報をなぞる
かのようにして重くなっていく空を見て一日を過ごすのは、気が滅入るというもの。月曜の
朝に似つかわしくない、重い溜息を吐くと、隣で窓に寄りかかっていた長曽我部くんが言っ
た。
「鶴の字はどうした」
「今日はお休み。私が原因だね」
「独眼竜は」
「クラスが違うから。今日はまだ会ってないよ」
そうか。と返事をした長曽我部くんの声は存外軽いものだった、というと語弊があるけれど
も。刑事ドラマによくある、被害者遺族のその後を聞いている刑事さんのようだった。他人
のいざこざに、ここまで付き合ってくれているのを考えると、彼は相当義理人情に固い人な
んだろうと思う。そうだ。損な性格をしている。
「私と長曽我部くんが本当に付き合っちゃったら、政宗くん驚いただろうなあ」
「驚くっつーか、俺が理不尽な暴力を受けてただけの事だな」
「あはは、やりそうだね」
見た目から正義感が強そうというイメージがあるけれど、あれでいて政宗くんは割と目的の
ためには汚い事も厭わないというタイプだから、やり方はともかくあり得ない話ではなかっ
た。長曽我部君を裏で恫喝する政宗くんの姿を、少し見てみたい気もした。なんて、私の思
考もここまで歪んでしまったかと自嘲する。
「今日、会うかな」
「あ?」
「政宗くんと、学校で」
「そんなに気になるんだったら、直接俺のクラスに会いに来りゃいいじゃねえか」
「嫌だよ。話すことないんだもん」
「・・・つうかよ、その前に、まだ伊達がやったって決まったわけじゃねえだろ」
「ほぼ決まってるようなものだよ。まあ、今となっては誰の差し金かなんてどうでもいいん
だけどね」
「どういうことだ?」
聞き返さなきゃいいのに。長曽我部くんも大概世話焼きと言うか、無意識に物事の深層に首
を突っ込む性格をしている。そうするように扇動したのは他でもない、私だけども。
そういう優しさを、いつか誰かに利用されてしまう気がしてならない。今回だって、私が泣
きついて恋人にしてなんて言った無茶を、泣いてる女を放っておけない精神なのかなんなの
かは知らないけれど、叶えてしまったわけだし。週末に、その時交換したメアドに嘘だよと
綴って送信していなければ、彼は今だに本気にしていたのかもしれない。そう考えると恐ろ
しくなる。男って、馬鹿。
「なんか、みんな馬鹿だし、全部どーでもいいね!」
「・・・は?」
「うん。だからずっと考えてたんだけど、みんなバラバラなら、角が立つこともないし完璧
じゃんって思って」
「・・・いや、待て。おかしいだろ」
「痛み分け?解散?分かんないや、とにかくみんな恋愛とかそういった感情をリセットする
の。みんなお友達、人類皆兄弟。平和だね、素晴らしい明日が来ると思わない?」
「んな上手くいくわけがねえ」
「ああ、やっぱり?」
安直にして愚直だ。矛盾と歪ばかりの提案だと分かっていた。でも、正直それ以外に今後ど
うするべきかを思いつかない。そもそも、政宗くんはどうして私なんかを好いてくれている
んだろう。鶴ちゃんも、どうして私がいながら風魔くんを。ああ、嫌だ。週末にあれだけ考
えて結論が出なかったことをまた考えなきゃいけないのか。結局堂々巡りで終わるだけなん
だから、考えるだけ糖分の無駄なのに。ああ、だからか良い案が出ないんだ。私、疲れてる
んだ。きっとそうだ。なんで鶴ちゃん、今日休みだったんだろう。ねえ、ふってきたのはそ
っちだっていうのに。変なの。変な子だね。そんな風にして、他のことを考える隙を与えな
いように、頭を自分の言葉でいっぱいにする。でないと、零れてしまう。
「・・・オイ、泣くな」
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「あ、雨・・・・」
5限目が始まったと同時、降り出した空を見る彼女がまだ、この狭い教室において知らない
世界があった。それを知るにはかなりの注意力を持って逐一観察しておく必要があったのだ
が、それが出来たとしたら、人間では無いか、出来てよっぽどの者であっただろう。何故か
って、それは当事者、取り分け本人が、その存在を彼女に知らせまいとひた隠しにしてきた
からである。風魔小太郎は、偶然にそれに気づいた者の一人である。故に、彼女は秘密を共
有する者として、彼に口止めを頼んでいたのだった。ここまで徹底しておきながらも、それ
は知ろうと思えば出来た。それでもまだ、未知の世界を知る手立てがないわけでは無いので
ある。例えば。
「・・・・・・?」
は気づいた。
何気なくそれまで窓にやっていた目線を、そろそろ教師に指摘されかねないと戻したところ
で、偶然目に入った今日の空席。それは間違いなく彼女のもので、今はその名残を見るだけ
でも胸が痛んだのだが、そうではなく。机の物入れに、何も入れられていない事。人により
けりのそれだが、何故かとても、空っぽな物入れを付けた机が彼女に似つかわしく様に思え
て奇妙だった。彼女は確か、教科書を都度持って帰るタイプではなかった。家庭で勉強をす
る以外には。しかしまあ、そういうこともあるだろう。ふられた人間には関係ない。そんな
ところまで気にしていたら怖いと思い、は己の思考をそこで断ち切った。
だが、つられるようにして今度は無意識に自分の机の引き出しに伸ばしていた手に、覚えの
ない紙の切れ端が触れたのである。引っ張り出し、折り畳まれたそれを順々に開いていくと
中央に、小さな字で書かれた筆跡を見つけた。名など書かれていなくとも、すぐに分かる。
『 さん、好きです☆ 』
金曜日に、きっと、私が彼女に言う前に、入れたんだ。
もっと早くに気がついていれば。悟ったはそこで心底後悔した。
脳裏をよぎる、恋敵の友の声。
『アンタ、白鳥みたいだな』
『え?』
『滑らかに泳いでんのかと思ったら、溺れるようにもがいてる』
あいつもしっかりしてそうで抜けてるからな。二人で溺れねえようにしな。そう言って去っ
ていった鬼の番長の大きな後姿を、彼女は最初理解して見送る事が出来なかった。自分が白
鳥というのだけでも有り得ないのに、鶴が溺れるなんてなおさら有り得ない。そう、思った
のである。
「ねえ、もう私、どこまで馬鹿なんだろう」
あの冷たい雪の上で、人を魅了しようと華麗に舞う鶴。彼女の苦労を、知らなかった。
それが彼女の情景の一つとして、あまりに違和感がなかったから、雪が冷たい事を、見てい
る側に気づかせなかったのだ。何故、虐められていることを、黙ったままでいたのだろう。
二言目には好き好きと自分もそればかりを口にして、彼女をきちんと見ていなかった。
それはきっと、酷く彼女を傷つけていたであろう。
もうあと10分で、5限目が終わる。
考えも纏まらぬ内に、早退の準備を始めるだった。
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