「下劣極まりない」 しかし好奇心とは恐ろしい。己を見下す冷たい瞳はまるで畜生に向けられるもののようだっ たが、元親はそれでも尚、一人でこの場に来なくて良かったと思った。ばれた時の恐怖もあ るが、それ以上に自分の持つ男を抑えられたかどうか。恥ずかしい話だが、男とはそれくら いに簡単なことでも反応する生き物なのである。放課後、5階の視聴覚にまでわざわざ付き 合いの悪い友人を誘ってまでやって来た理由は、一重にドアの先に繰り広げられているであ ろう女の園を垣間見るためであった。勿論付き合いの悪い友人を引っ張ってくるというのは つまり、目的などは一切伝えずして無理やり連れてきたという意味である。引き戸に丁度よ くついていたガラスの小窓から内部の様子を覗き見るや否や、彼は全てを理解し、眉を派手 に顰めそう吐き捨てたのだった。 「・・・あっ、はああっん!」 下種に付き合う時間は無いと踵を返した友人を、それでもせっかく来たのだからと元親が宥 めて引きとめていた矢先。それまで壁に耳を当てれば微かに聞き取れる程だった艶めかしい 声が、一際甲高いものになった。絶頂か。放課後とはいえ、人がいたらどうするつもりだっ たのか。廊下にまで丸聞こえなその艶かしい声に、当事者ではない元親が心配をしてしまっ たのだが、体は正直に反応したし、喉はゴクリとなった。そんな元親の横で俗物が、と吐き 捨てる彼、毛利元就はしかしそれでも掴まれた腕を引き剥がし踵を返そうとはしなかった。 出来るはずなのにそうしなかったという事は、つまり結局は、同じ穴の狢という事である。 取り澄ました顔に、元親がニタリと同族を意味するように嫌らしい笑みを向けた時だった。 「・・・誰かいるの?」 びくりとしたのは元親だけではなかった。壁を挟んでこちらへと問いかけてくる声は明らか に人がいることを分かっている口調で、それはいわば確認のためのような質問だった。全身 から汗が噴き出る感覚がして、元親の頭はその一瞬真っさらにリセットされた。しかしそれ は未だ友人に腕を掴まれたままの元就も同様で、気がつけば二人は、走ってその場を後にし ていた。それからややあって、次に元親が気付いた時。彼は自分の部屋で利き手にティッシ ュを持って佇んでいた。それを詳しく説明する必要はないだろう。元親は気まずさに唇を噛 み後ろ頭をかいてみたが、しかしだからといって罪が軽減する訳もなく。結局その夜は頭が さえる一方で、早朝になるまで寝付けなかったのであった。 -- 「出た!!長曽我部元親!!」 「・・・鶴の字ー・・・。勘弁してくれ、寝不足なんだよ・・・」 隣の家が飼っている狂犬スピッツの鳴き声によく似た声を持つ少女が元親の行く手を遮っ た。腰に手を当て怒り心頭の少女は、これでもこの学園で将来有望の美少女と仇名される容 姿をしていたが、寝不足の頭痛に悩む今の元親にはそんなことは心底どうでも良かった。 ただ唯一、この間までは乳臭いようなガキだった幼馴染が、高校に入ってから途端に色気づ いたのか桃の香水をつけるようになったのには複雑だった。女になったということなのか。 それを考えると、今の元親には嫌でも昨日のレズの行為が思い出された。暫しそんな目で鶴 姫を眺めていたが、その悟ったような目を見て、馬鹿にされているのだと思い込んだ鶴姫は 逆上し、掴みかからんばかりの勢いで元親に近づいた。 「寝不足だなんて嘘まで付いて、馬鹿にしてるんですか!?許せませんっ!!」 「誰も馬鹿にしてるとは言ってねえだろうが・・・」 この小娘はどこに耳をつけてやがる。内心毒づいた元親は、その隻眼で目の前の小娘を一睨 みしたが、さすがに何年もの付き合いだけに慣れてしまっているのか効果が無い。鶴姫は怯 むどころかいつもより強気に打って出た。元親を睨み返してきたのである。 「この間貴方が割って行った私の家の窓ガラス!あれでお客様が指に怪我をしてしまったん  ですよ!どうしてくれるんですか!?」 「あー・・・悪いな」 「本当に反省してるんですか!?傷が残ったらどうしてくれるんです!!?」 「オイオイ、そこまでムキになるってこたあ、・・・恋人か?」 「え?分かります?」 子分のしでかした事だろう。あとで注意だけはしておこうと決めて、鶴姫の五月蝿い話は適 当にはぐらかしてしまおうと冗談を言った元親だったが、己の耳を疑う返事が返ってきた。 浮ついた話どころか恋もまだ先だろうと決め付けていた幼馴染、というよりは腐れ縁の小娘 に、いつの間にやら男の影だと?目の前の幼馴染の顔が瞬時に輝いたのを見て、元親はそれ が真実であると悟った。だがやはり俄には、信じがたい。何故ってこの色気のカケラも無い 小娘を相手にしようと目を付けた男の考えが、理解できないからだ。 「オイ。すまねえがもう一度言ってくれ」 「・・・えへへ。だからー!恋人が出来たんです!」 「出来た?何が出来たんだ?」 「もう!!こ・い・び・と・です!きゃ☆」 恋人という響き、慣れない単語を口にすることに恥ずかしさを覚えて頬を染める鶴姫。両手 を頬っぺたにあて、はあ、と悩ましい溜息をつく姿はどちらかというとまだ恋に恋する乙女 といった感じだが、なるほど確かに。言われてみれば初めての彼氏を持った女というのは浮 かれきってこういった反応をするのが普通かもしれない。元親はそう思い、事態を受け止め ようとしたが、・・・無理が来た。頭痛が現実を受け入れてくれなかったのである。 「・・・保健室行くか」 あの鶴姫にもとうとう春が。同じく腐れ縁の元就には言ったのだろうか。三人で会う事や話 すことが無いので詳しくは知らないが、元就がこの件を知ったらある程度驚きはするだろう と元親は思った。何故って、どちらかというと元親と鶴姫よりも元就と鶴姫のほうがご近所 さんらしいお付き合いをしていて兄妹に近いからだ。元就のあのポーカーフェイスが崩れる ところは見てみたい気もした。 話はまだ終わってませんよ!!と忘れればいい事を律儀に思い出してプリプリと怒り出す鶴 姫に背を向けて、元親は三限目の化学実験のために化学室へと続く廊下をとぼとぼと歩き出 した。昨日今日と、なんだかいろいろな事がおかしくなっている気がするのだった。アニキ 大丈夫っすか!?という野郎共の声にも、今一「オウ!」と返せる気がしない。 「あ!えっとノート、落としましたよ!」 階段を登りきらずして、背後から声が掛けられた。鈴を転がしたような、しかし控えめな声 だった。周囲を確認し他に人がいないと見た元親は自分以外に考えられないと背後を振り返 った。階段の下方、踊り場にいた女子は、元親が移動教室にと持ってきていた化学のノート をこちらに差し出していた。 「悪ぃな」 「いえ」 階段を下りる元親と、登る女子。ノートを受け取った元親が礼を言うと、女子は品の良い笑 顔を浮かべてどういたしましてと述べた。その頬は少し高潮していて、彼女が男慣れしてい ないことを象徴していた。純情なのはいいことだ。そう思い元親が彼女を見た瞬間、何か。 覚えのある香りが鼻を擽った。息が止まる。 「さん!」 先程の鶴姫の声だった。という声に振り返ったのは元親の目の前にいる女子で。 鶴ちゃん!と弾けるような声で彼女の元へと階段を下りて向かって行く。ノートを手に階段 の途中で立ち尽くす元親はそこではた、と何か。何かが頭の中で合致したのが分かった。し かしそれはあまりに安易な結び付けではないかと否定してみる。だが。 「今週末、家に誰もいないの。鶴ちゃんさえ良かったら家に泊まって行かない?」 「わあ!!いいんですか!?ぜひぜひっ!!」 鼻を掠める、桃の匂い。それは先程の小生意気な小娘、鶴姫からだけではなく、今の女子か らもした。間違いなく。仲の良い友達同士ならばお揃いと言う事もありうるだろう。だがし かし、それなら今のあの、ノートを渡してくれた女の指にあった絆創膏は、一体どう説明す れば言いというのか。極めつけは、どことなく聞いた事のあるような記憶と被る声。 「・・・まさかな。考え過ぎだろ・・・」 そんなはずは。 しかしどうにも、それ以外にこんな偶然があるものかと。元親はやはり行先を化学室から保 健室に変更することを決めたのだった。