なにか、とんでもないものを聞いてしまったような気がする。 長曽我部元親は階段を一段飛ばしで駆け降りていた。ほんの数秒前まで彼は、三階へと続く 階段の十段目に足を伸ばしたところだった。しかしそこで、神聖な学び舎にあってはいけな い声を耳にした気がするのだった。気がするというのは、それが本当かどうかを確かめずし てその場を去ったために、憶測の域を出ないからである。しかし長曽我部元親は女を抱いた ことがないわけではない。童貞などとっくに捨て去っているために、喘ぎ声ならば何回も聞 いて知っていたし、それはよく耳にするものであったから(主に彼が放課後の悪ふざけの一 環でよく。何故って彼は健全な男子高校生だから)、己の目で確認するまでもなく、実はそれ が喘ぎ声であると断言できたのだった。しかし生憎、人の行為を見る趣味は無い。だからそ の場を立ち去ったのは懸命にして至極健全な判断だった。そして今、階段を駆け下りるその 長曽我部元親だったが、己の気が動転していると自覚するのは初めての事だった。影では鬼 と呼ばれ、学園の権威を牛耳る生徒の中の一人であるというのに、そんな番長が初めて聞く わけでもない女の喘ぎ声にこれ程心を乱しているのにはもう一つ、理由があった。珍しく焦 った様子の元親を目にして、廊下ですれ違う子分達は一様に目を丸くして見る。あのアニキ が。しかしそれを視界にもいれず、元親は足早に通り過ぎた。火を噴いているかのような心 臓を落ち着けるために尚も走り続けたが、鼓動が収まり呼吸の乱れが落ち着いた頃には随分 と校舎の果ての方にまで来てしまっていた。教室を出たのがそろそろ昼休みの終わる頃だっ たのを唐突に思い出し、その用事であったトイレを済ませることすらも叶わなかった事に、 心底気分が悪くなった。舌打ちを一つ。学校で、それも階段の踊り場ですることかと内心で 悪態をつき、仕方なく教室へと踵を返す。人気の無い場所は総じてカップルのいちゃつき場 になり易いが、学校で行為に及ぶのまではさすがに勘弁して欲しい。今度見かけたら、場を 弁えぬ男の方を問答無用で殴るか。自分の性経験を棚に上げて、元親はそんな事を考えた。 どこぞの誰かではないから、そんな事を考えつつも元親は行動には起さない。優しいのであ る。しかし注意をするにしてもだ。脳裏に蘇るは先程の声。どちらが欲情したのかも分から ぬゆえに、殴る相手がいないのだった。 「Ah?血相変えてどうした。酔っぱらって階段から落ちでもしたか?」 「なんでもねえ。レズがいただけだ」 「・・・so bad. タイミングが悪かったな」 鼻で笑い、伊達政宗は顔を背けた。授業が始まってから教室に入ってきた元親を、叱責でき る教師はこの学園にはいなかった。校長の織田信長か、副校長の豊臣秀吉があるいは出来た かもしれないが、一戦を交えるであろう事は明白故に、油と水を引き合わせようとする教師 がいないのも、生徒を未だのさぼらせる原因の一つとなってしまっていた。それはともかく として、堂々歩き周り自分の席へと座した元親に声を掛けた伊達政宗は、見たのか?と少々 不粋な質問を投げかけたのだった。 「いや、声だけだ」 「気をつけるこったな。人気のねえ場所はカップルのメッカになってるぜ」 くつくつと喉で笑い、腕を頭の後ろで組む伊達政宗は楽しそうだった。イスに体重をかけ前 後に揺らすさまを見ていると、今にも壊れるか倒れるかしそうだと元親は不安になった。 が、そんなことは言ってやらない。そのあたりの行儀を教えるのは片倉小十郎とかいう、右 目のすることである。だから元親は、始まった数学の授業に退屈にあくびを零すと、机に顎 を乗せ寝る態勢に入ったのだった。 「にしてもアンタ、随分詳しいな」 「そりゃあお前、片方はオレの惚れてる女だからな」 「ああ!?」 長曽我部元親の眠気は吹っ飛んだ。惚れてる女がレズで、他の奴と真昼間からやってるだっ て?それは一体どんな昼ドラだ。寝そべって顎をつけていた机から急いで身を起こし、隣の 眼帯を見やる元親。そんな彼に対し、口元を孤の形に描き美しくも不敵に笑った竜は、そん なこともあるだろ、と悠々のたまった。諦める気は、ないらしい。男女の愛憎劇を見そうだ と、元親は背筋が冷えるのを感じた。 そんな、5限目が始まって10分が過ぎた頃のこと。