08













夕餉の刻が迫っているのに、殿が動く気配がまるで無い。
そのことを不思議に思い殿の部屋の前まで来てみたのだが。
いざ戸を前にすると酷く緊張した。何分自分は女子の扱い方がわからない。
こちらの時代の女子は己がいた時代のとは異なり、偉く無防備なのだ。
平和ゆえ、警戒心が足りないのだろう。殿もだ。
一呼吸して暴れる心臓を落ち着け、戸を叩き名を呼んで見たが不思議な事に
中からは反応が全く返ってこなかった。それどころか気配すらも感じられな
い。おかしい。
その事に一抹の不安が頭をよぎり、もしやと思い急いで失礼すると一言置い
て戸を開けると案の定、部屋に殿の姿は無かった。
何がどうなっているのかと部屋を見渡してみると、机の上にあるそれが自分
の目に飛び込んできた。
殿の、日記だった。
しかしその開かれた日記が、日付が小さく項の端に書かれているだけで後は
何一つ書かれておらず真っ白であるのを目にした瞬間、己の内側から取り返
しの付かない事をしてしまった様な罪悪感が急に溢れ出て来た。
殿に、どうしても伝えたい事が残っている。
誤解をさせてしまったかもしれない。日記を掴み、某は家を飛び出した。
 
 
 
 
 
 




 
 
 

寒さで目が覚めた。
水を吸った土の湿っぽい匂いがして、顔の横にあった手を動かしてみると爪
の中に土が入ってしまった。汚い。
うつ伏せていた状態の体を起こすと体の節々が痛む事に気がつく。
その痛みにようやく、そういえば自分は崖から落ちたのだと境遇を思い出し
た。落ちている最中に二の腕を引っ掛けたのだろうか、衣服がちぎれて穴が
開いていた。血が滲んでいたけれど、この程度で済んでよかった。
鳥の鳴き声が遥か頭上から聞こえる。
しゃがみ込んだままで周りを見てみるが、鬱蒼と空を覆い尽くすまでに伸び
た樹木に視界を閉ざされ昼か夜かも分からなかった。
ただ、遠くに水の音が聞こえた。
背後を振り返ると土壁があり、それを追って上を見ると手入れされた低い雑
草が微かに見えた。
おそらく、あそこに山道が在って私はそこで足を踏み外して落ちたんだろう
と思った。
家までの距離は短いけれど、此処からでは上れそうにない高さだった。
だけど戻る道は他にもあるはずだ。相当な遠回りになってしまうかもしれな
いが、あの遠くに聞こえる水の音を辿って行けば一旦は山を下りられるはず
だから、それから家に戻ればいい。
暗くて身動きが取れないけれど、日を跨いでしまえば私の記憶はなくなって
しまう。日記も持たず、遭難している事すらも忘れて山の中を迷い続ける羽
目になる前に、行かなくては。
そう思い、立ち上がろうとした瞬間に足に激痛が走った。痛さに声も出ず、
たまらなくなって再度しゃがみ込めば左足が腫れているのに気がついた。
こんな時にそんな。
 
森の闇に、私の心も呑まれてしまうようだった。
 
 
 

「・・・寒い」
 
 
 
明朗としない意識が現実に呼び戻されたのは何時間か経った後の事で。
崖から落ちてくる際にどこか、水の溜まった場所を通ったのかもしれない。
服がじっとりと湿っていて、それが空気に冷やされて体温を奪っていた。
指先の震えに意識が覚醒する。
何日か前に降った雨が、日に当たらず乾くことなく残っているんだろう。
夜は更に冷え込むはず。このまま此処にいたら。
焦燥と絶望に涙がこみ上げてきた時、私の頭には幸村さんが浮かんだ。
どうして。助けに来て欲しいと自分が無意識に頼ったからだろうか。幸村さ
んが嫌で逃げてきたくせに、都合が良すぎるんじゃないだろうか。
私って、なんて醜いんだろう。
 
 
 
「殿ー!」
 
 
 

声がした。
顔を上げる。丁度今、考えていた幸村さんの声だったから、きっと私の願望
が見せた都合のいい幻聴なんだろうと思った。
駄目だ、希望を持つな。そんな風に自分に言い聞かせているともう一度、今
度ははっきりと声が聞こえた。
 
 
 
「どこに居られる!殿!!」
 
 
 
嘘だ。
私があれだけ悲しませたのだから、迎えに来てくれる訳が無い。
私なんかのために声をあげて探してくれる訳が無い。あんな悲痛なほどの大
声で呼ばれるほどに、私は彼に何かをした訳では無いはず。
たとえそうであったとしても、その記憶すら私には無いというのに。
切羽詰ったような、幸村さんの声が聞こえる。
助けられる程に価値のある私では無いけれど、幸村さんの声を無視するなん
て出来なかった。寒さに震える喉を叱咤して、大声を上げる。
 
 
 
「ここ!!!此処です幸村さん!!!」
 
 
 
気づいて、届け。そう願って腹の底から心の限りに声を出した。
もしこれで気づいてくれなかったら私はもう駄目になってしまう様な気がし
て、それは勿論自分の錯覚だと分かっているけれど、とにかくそんな気がし
て私は声の限りに叫んだ。
 
 
 
「ここです!!此処にいます!!幸村さん!私は此処です!!!」
 
「殿!??」
 
 
 
幸村さんと私の叫び声は次第に呼び合う声になって行った。
高く聳える崖の先端を見上げて幸村さんの名前を呼ぶと、彼の顔が覗いた。
 
 
 
「殿!!」
 
 
 
いた。お互いの姿を確認する。
ほっと安心して力が抜け、またその場にへたり込む。と、ざしゃあ、という
様な斜面を何かが勢いよく滑り落ちる音がした。木の葉の揺れる音がして、
次の瞬間には自分の隣に幸村さんがいた。
信じられない、崖を降りてきたんだ。そう理解した時には私は幸村さんの腕
の中にいた。抱きしめられている。
 
 
 
「御無事で・・・!!」
 
 
 
幸村さんの言葉と共に、痛いほどに全身を締め付けられた。
頭のてっぺんに幸村さんの声と共に吐かれた息が掛かる。痛さにどれだけ私
を心配していたかが分かって、すみませんと小さく謝った。
と、ごつりと背に何かの角が当たった。日記だ。直感で分かった。
私が書かないで、置いていった日記。どうして幸村さんが。
 
 
 
「幸村さ、・・・っ!」
 
 
 
体を動かした拍子に足に激痛が走った。
そうだ、私は足を捻っていたんだ。思い出して痛みに呻いていると私の様子
に気づいたらしい幸村さんがすぐに抱擁を解いて私を見た。
私が手で抑えている左足を見ると険しい顔つきになって口を開いた。
 
 
 
「失礼いたす」
 
 
 
有無を言わさずに私が掴んでいた左足を自分の手に取ると、幸村さんは右手
を患部に添えて様子を見るしぐさをした。
それから二秒ほどして、彼は眉間にしわを寄せた。
 
 
 
「歩くのは無理で御座るな」
 
「すみません・・・」
 
「いえ、それを言うのは某の方で御座る。殿は謝らないで下され」
 
「でも」
 
 
 
瞬間、風が吹いて木々の葉の擦れる音と共に寒さを思い出した。幸村さんの
抱擁があったから大丈夫だったんだ。
話の途中でくしゃみをしてしまった事に気まずくなって、誤魔化すように顔
を俯けた。
と、衣服の擦れる音がして目の前にシャツが差し出された。
顔を上げると上半身裸の幸村さんが自分の脱いだ服を私に向けていた。
 
 
 
「これを」
 
「で、でも、それじゃ幸村さんが寒いじゃないですか」
 
「某は武人で御座る。これ位の寒さに耐えられぬ様では戦等出来ませぬ。
 それよりも殿の方が風を召されるやも知れぬ故」
 
「・・・じゃあその、あ、ありがとうございます」
 
「うむ」
 
 
 
確かに自分の着ている服は水を吸ってしまっているせいで脱ぐか着替えるか
しなければ風邪を引いてしまうと思った。幸村さんもそう思ったのだろう。
だけど、その幸村さんの服を。
そう考えたら心臓がバクバクと五月蝿く鳴った。でも好意を蔑ろにするなん
てもっと出来ない。
気を使って何も言わずにさっと後ろを向いてくれた幸村さんに、心の中でお
礼を言って手早く着替えをした。
大自然の中で着替えをするなんて変な感覚だ。着替え終わりどうぞ、と声を
掛けると幸村さんが振り返った。
その顔は暗がりの中でも分かるほどに赤く染まっていたけれど、気づかない
フリをした。でなければこちらまで顔が赤くなりそうだった。
そんな事を考えていると二人の間に妙な沈黙が下りてしまって、話しかける
タイミングを見失ってしまった。
だけど先に沈黙を破ったのは幸村さんだった。
 
 
 
「今日は、もう日も落ちて動けませぬ。明朝に山を降りることに致しま
 しょう」
 
 
 
彼にしては頑張っていたのだろうけど、少し上擦った声は見事に動揺を露呈
していてバレバレだった。
女に服を貸す事がそれほど恥ずかしかったのか。だったら無理して渡さずと
も良かったのに。
そんな幸村さんの持つ純情と優しさが招いた煩悶をおかしく思いながら笑い
をかみ殺す。
 
 
 
「私の足もこれですし、仕方ありませんね。ごめんなさい」
 
「足の怪我は!それとは全く関係ないで御座る!」
 
 
 
幸村さんが憤慨したかのように全力で否定した後、くしゅん、とくしゃみを
した。
間抜けなタイミングに「あ」と私が思わず思わず口に出して言うと、それを
見て幸村さんはすぐさま「これは違うのだ!寒いのではなく・・・・」と弁
解を始めた。
しかしこちらとしてはやはり申し訳なく思う気持ちで一杯になってきてしま
い、幸村さんに頭を垂れて謝った。
それに止めて下され!とさらに勢いを増して言う幸村さんは、しかし私にシ
ャツをくれたせいで上半身裸だ。
目のやり場に困ったけれど、ちらりと見るとこの寒い中に丸出しのおへそが
見えて、とても寒そうだと思った。
服を着ている私だってまだ寒気がするのだから、いくら武将で寒さに慣れて
いたとしてもこのままでは風邪を引いてしまうだろう。
幸村さんは、きっと。私に気を使って寒いなどという事は絶対言わないだろ
うから私がするしかない。私が、今、幸村さんの為に出来ることは。
 
 
 
「あの、幸村さん」
 
「殿?・・・・・!っ何を!!!!」
 
 
 
意を決して幸村さんに抱きついた。
シャツを貸す事は出来ないけれど、触れ合っていたら多少は暖かいはず。
真正面から抱きついたせいでバランスを崩した幸村さんは尻餅をついたけれ
ど、構わず腕を背に回した。
動揺してあ、とかう、といった声にならない声が頭上から聞こえる。幸村さ
んの心臓が五月蝿く鳴る音が耳に入る。
幸村さんは上半身裸なのだ。直に触れる肌の感触に私まで恥ずかしくなって
いく。
 
 
 
「ご、ごめんなさい!でも、まだ寒いのでこうさせてください」
 
 
 
これも幸村さんの為だから離したら駄目だ。と自分に呪いの様に言い聞かせ
る。こちらの計らいを悟ったのか、幸村さんはかなりうろたえている様では
あったけれど、私を拒む事はしなかった。
 
 
 
「あ、う・・・・」
 
「こうしてれば、少しは暖かいですね」
 
「は、あ・・・・そ、そそそそそうでござるななな・・・」
 
「ぷっ。噛みすぎですよ」
 
 
 
我慢ならずに小さく笑ってしまった。
これ程動揺されると面白くなってしまう。幸村さんはそんな私を見ながら小
さく「破廉恥で御座る・・」と唇を噛みながら真っ赤になって言った。
それすらも面白いやら可愛いやらでにまにまと笑う。
と、不意に幸村さんが尻餅をついた拍子に手放してしまったであろう日記が
目に入った。幸村さん、と呼んでそれを指差す。
 
 
 
「日記を、書かせてくださいませんか」
 
 
 
幸村さんは私の顔を一瞬真面目な顔で見た後、黙って落ちていた日記を拾っ
て私に差し出した。
それを受け取って私は幸村さんの腕の中で体勢を変えた。胡坐の上に乗り、
背を幸村さんに預ける。
 
 
 
「今日を、今の幸村さんを覚えておきたいんです」
 
 
 
独り言のような、宣言のつもりで言うと幸村さんは少しの沈黙の後力強く、
「うむ」と頷いた。私の意志を完全に尊重してくれているようで、無性に嬉
しくなった。背中が、温かい。
 
 
 
「今日、助けに来てくれてありがとうございます。
 救われました。幸村さんに」
 
 
 
救われた。
本当に救われたのだ。
私が足を怪我した状態で誰の助けも無く眠りに付いていたら、もうきっと私
は二度と森を出ることは出来なかったかもしれない。
それだけじゃない。
幸村さんは、私の病気を心配して困った顔をしてくれていたのだ。それを私
は勝手に、以前の私と違うから悲しんでいるのだと解釈した。
そうして自分勝手に家を飛び出した私をそれでも追って、こんな崖の下まで
助けに来てくれたのだ。
感謝の言葉では言い表せない、そんな思いで日記を書いていると胸がどきど
きと高く鳴っていた。
これは、何のせいなんだろうか。
分からないけれど、背中に感じる体温に包まれて日記を閉じた時、今までの
中で一番幸せな瞬間だと思った。
 
 
 
 


 
幸せは、世界の終わりにあるのだそう