07













「お目覚めですか」
 
 
 
開いた瞼との間からわずかに見えた男の人の顔。
こちらを見る顔は驚くほどに端正だったから、彼が誰なのかを問う事も忘れ
て私は見入ってしまった。
そんな私を見て不思議そうに瞬きを一回する男の人。その姿にようやく私は
我に返った。
急いで体を起こして周囲を確認すると、自分がリビングにいることに気がつ
いた。掛け毛布が床に落ちている。
雀の鳴き声が聞こえるから朝で間違いない、と言う事は昨夜は此処で寝てし
まったのか。そんな風にして起き抜けのボーっとした頭を整理していると、
横で私を見ていた男の人が水の入ったグラスを差し出してきた。
誰だろう。
寝起きで頭が働かないから思い出せないんだ。そう自分を納得させてコップ
を受け取った。氷が入っている。一口飲むと冷えた水は一気に頭を覚醒させ
た。
 
 
 
「あなたは、」
 
 
 
だれですか、
と聞こうとした。
だけどそう言う前に彼がとても悲しそうな顔をしたから、言ってはいけない
のだと反射的に頭が判断した。そのせいで声も引っ込んでしまった。
どうして。分からない。
分からないが私が口を開いてはいけないのなら、彼に口にしてもらうしかな
い。
そう思い彼を見ると、首筋の奥に茶色い髪が一房揺れているのを見つけた。
短髪ではなかったのかと物珍しくそれを見ていると、彼はそんな私を見てう
っすらと目を細めて笑った。
困ったような、申し訳なさそうなそんな笑みを浮かべた後、彼は一冊の本を
私に手渡した。よく見るとそれは日記だった。
 
 
 
「どうか、これをお読みくだされ」
 
 
 
有無を言わさぬ瞳だったけれど、懇願するような声だった。
だから私は、それを手に取るしかなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 



 
 
 
朝、起きてすぐに日記を読めばの自己確立は容易に成される。
逆に日記を読まずに事故の前日で止まっていた記憶から一日を始めてしまう
と、後から日記を読んでも自分とは受け入れ辛くなる。12歳に両親の死を受
け止める様言う事は、紙面では無理があると思う。
そういうことだった。
日記を閉じて読み終えたつもりでいた私に、真田さんが急に頭を下げて謝っ
てきた。何のことかと覚えが無いため仰天する私に、昨日は日記を書いてい
ないことを白状したのだった。
私にしてみれば今言われてようやく昨日のページが無い事を気づいた身であ
ったし、書いていないとは言ってもそれは昨日の私の意志でやった事だと思
い顔を上げるよう言ったが、真田さんはそうではないと否定した。
苦渋の滲んだ声に何のことかと問えば、そうして彼はようやく昨日の事のあ
らましを語ったのだった。
成る程、彼は私が日記を欠かしたことが無いのを知っていたから、自分がや
った事が許されない事だと思ったのだろう。それで朝、あんな困ったような
顔で私に日記を渡して来たのだ。
別に、今日の記憶しか無い私には昨日の事で怒る事なんて出来ないのだから
日記の空白なんて無視しておけばいのに、律儀な人だと思った。
そんな第三者のような気持ちで彼の話を聞こえた頃には結局、壁に掛かって
いる時計はお昼を指していた。
 
 
 
「何だか、眠くなってきちゃいました・・・」
 
 
 
何の気無しに言った言葉だった。
伸びをして、それまでの重苦しい話を中断すべく言った言葉だった。
だけど、その言葉にびくりと、幸村さんが驚いたような顔をしたのを私は見
逃さなかった。
何故今の言葉に反応したのか分からなくて問いただしたくなったけれど、聞
いてはいけないことのような気がしたから口を噤んだ。
特別に彼の気に触れる様な言葉だったのか、あるいは私の勘違いだろうか。
そう思ってこっそり真田さんを盗み見ると、目線を伏せて平静を装っている
ようっだったけれど、じっくり見ると唇を固く結んでいて何かを思い出して
いる様だった。
触れないほうが、いいのだろうか。
感情が表に出やすい人だ。気を使うんだったらもっと私が完全に気づかない
様に完璧にやってくれればいいのに。なんて、思う私は何も知らないくせに
傲慢だろうか。
だって、彼が何を思っているのか分かってしまったのだ。
 
 
 
「昨日の私は、どんな感じでしたか?あるいは以前の私でも」
 
 
 
不意に沸いた質問のようにして彼に聞けば、何処を見るでもなかった瞳の焦
点が私に合わさった。
どこか気落ちしているような、呆然としている彼の顔に笑みを向ける。
多彼は以前の私と今の私が違う事にショックを受けてこうなっているんだろ
うと思った。であれば、私が出来ることは少しでも以前の私に私を近づける
ことだ。
 
 
 
「・・・殿は、某の事を幸村と呼んでおりました」
 
 
 
そういうことか。
彼がそう言った言葉に先程どうしてあんな言葉で動揺していたのかが分か
った。多分、今彼が言った言葉が大きなヒントだ。
昨日の私か、あるいはそれまでの私が以前に同じ事を言ったのだろう。
絶対にそうだ。
 
 
 
「あ、日記に書いていましたね。忘れてました、ごめんなさい」
 
「いえ」
 
「じゃあ、幸村さんでいいでしょうか?」
 
 
 
にっこり笑ってそう言うと、彼はほっとしたかのように頬の筋肉を緩めて頷
いた。よし、これで以前の私に一歩近づいた。
朝から何処か不安げな幸村さんの表情が少し和らいだ事にほっと胸をなでお
ろす。
まるで私が彼の機嫌を伺っているみたいだけれど、一緒に住んでいる以上こ
れからも一緒なのだから信頼関係は気づいておくべきだ。
昨日が特別に色々あったから今日が大変なだけなのだ。そう言い聞かせて、
今日、そういった大切な事をしっかり書いておけば明日はこうはならないだ
ろうと思い日記を開いた。
白紙の状態のそれは、左が昨日のページで右が今日のページの見開きだ。
 
 
 
「さて、昨日のページを覚えている限りで書きたいと思うんですけど、
 ちょっとさな・・・、幸村さんに教えてもらってもいいですか?」
 
 
 
体調管理は欠かしてはいけないので、とつけると幸村さんは快く「はい」と
返事を返してくれた。犬みたいな人だ。
 
 
 
「某にも非が在る故、お手伝いさせて下され」
 
「はい、ありがとうございます。それじゃさっそく。昨日の私は朝、具体的
 に何をしていましたか?」
 
「うーむ・・。そうは言っても特には。一日のほとんどをてれびとやらを見
 て過ごしていましたぞ」
 
「テレビですか?」
 
「左様」
 
 
 
本当だろうか、と思う。
昨日の私は日記を読まなかったというのに、大人しくテレビだけを見て一日
を過ごしていたはずが無いと思うのだけれど。もし本当に何も無かったのな
ら相当つまらない一日だったはず。
だけど幸村さんが言うんだからそうなのかもしれない。そう自分に言い聞か
せて記入を続けた。
食べたものや話した事、最低限の事を一通り書き終えて日記を閉じて時計を
見ると1時くらいになっていた。そろそろ、と思い幸村さんにお昼ごはんに
しませんかと提案すると。
 
 
 
「あ、そういえば。昨日、殿がこれを下さったので御座る」
 
 
 
そう言って幸村さんが首から取り出したのは折り紙で作られた星のメダルだ
った。
どうしてそんな物を。自分がやった事とはいえ記憶が無いので客観的にそれ
を眺めていると、幸村さんがそれに目を落としたままで口を開いた。
とても真面目な顔をしていた。
 
 
 
「殿」
 
「はい」
 
「星は、この時代では、どのような意味を持っているので御座ろう?」
 
「・・・星、ですか?」
 
 
 
答えに詰まった。だってそのメダルを幸村さんに渡したのは間違いなく私だ
ったけれど、私では無いからだ。
間違ってもいいのであれば答える事は出来るけれど、それは渡した張本人と
してどうなんだろうかとも思う。
だから遠まわしに、流れ星は願いごとをする対象になってますねと伝えた。
もう一つ頭に浮かんだ死んだ人は星になるという言い伝えは幸村さんも知っ
てるかもしれないと思ったけれど、言わないでおいた。
 
 
 
「願い・・・?」
 
「はい。まあ。流れ星ですけどね」
 
 
 
無難な事を言ったはずなのに、どうしてだろう。
幸村さんはまた朝の時のように、困ったように眉を少し寄せた顔をした。
どうしてそんな顔をするのか分からなくて、私はまた何かやってしまったの
かと思う。
あるいは、もしかしたら昨日、幸村さんに何かとんでもない事を言ってしま
ったとか。
 
 
 
「幸村さん、そんな悲しそうな顔をしないでください」
 
 
 
慰めの言葉では無いけれど、そう言った私の言葉に幸村さんは顔を上げた。
そうしてお互いの目を合わせると、幸村さんの瞳に小さな悲しみを見つけて
しまった。同情か哀れみかあるいは、そんなものを映していた。
目を合わせていられなくなって目線を彼の顔から下に降ろすと、手に握られ
た金のメダルが目に入った。
多分、今の私がどう言ったところで、何かをしてみたところで。何を言って
も幸村さんを傷つけてしまうんだろうなと。そう、思った。
ああ、昨日の続きを完璧に演じるというのは難しいものなんだな、なんて頭
でぼんやり思いながらどこか、冷めていく気持ちで彼を見る。
 
 
 
「早く、元の世界に帰れるといいですね」
 
 
 
以前の私は、何て凄いんだと感心する。
昨日の、12歳の私は彼の心に何を残したんだろうか。またそれ以前の私も
甲斐甲斐しく彼の世話を焼いてあげたらしいじゃないか。
だけど、どれだけ頑張っても今日の私は所詮昨日の私でも以前の私でも無い
から、そんな目で見られても困るだけなのだ。
辞めて欲しい。
 
 
 
ばっかみたい。
 

私に何かを求めるようなその瞳に、心の内で吐き捨てた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

私がすることは全て、彼を苦しめているようだ。
 

同じ場所にいるだけで気分が悪い。沈んでいる姿を見せられたって、私には
記憶が無いのだから自責の念を感じる義務は無いはずだ。
昼ごはんを口にしている時もどこか呆けたような彼に嫌気が射して、私はと
うとう一人、家を出てきてしまった。
嫌な事は書かなければいい、あとは勝手に忘れてくれる。それと同じだ。
嫌な事からは逃げて気づかぬ振りをしていればいいのだ。そうしてまた朝日
が昇ってくるのを待っていればいい。簡単なこと。
だから私は、今日の日記をどう書けばいいのか分からなくて、筆舌に尽くせ
ない思いにペンを持つ手が止まった通りに、今日の欄を白紙のままで置いて
きた。何も書かなかった。書けなかった。
いいよ、もう。どうにでもなれよ。
そんな気持ちだった。
書いたところでぎくしゃくした会話文、馬鹿みたいに重複したやり取りを再
度、日記に書くだけだ。そんなのは不毛だ。
書かないのと変わらない。それに第一腹が立つのだ、彼という人間を私の日
記に紛れ込ます事に。
私の日常があの男が来た事で変わってしまった。一体以前の私は何を思って
彼を此処で住まわせる等と決断をしたのだろう。私に、彼は何を求めている
んだ。何であんな目で見てくるんだ。
住まわせてやって此処まで親切にしているのに、何でそんなに悲しそうな顔
をされなきゃいけない。何で私が気を使わなきゃいけない。
何で私が、悪いみたいになっている。
知らず、涙が零れていた。
私が泣く意味が理解が出来なくて乱暴に山道を進む速度を速めた。涙を袖で
拭っても視界は滲んだままで、思い出せない私が悪いんだと。心が責めた。
悪いのは、何もかも忘れてしまう私だ。
 
ぼとりと大粒の涙が零れた瞬間、私は涙と共に山道から足を踏み外して崖の
下へと落ちていった。それはまるで天罰だと、思った。
 
 
 
 


 
あ、また雨。