06













夢ではないかと未だに思う。
この世界に来て早4日が経つ。朝、目が覚めるたびに見慣れた天井の木目が
目に入る事を願ったが、それも虚しく終わる。
未だに己がいた時代へ戻れる兆しはあらず、また手掛かりを探ろうにもそれ
どころではなかった。
正直、奇異に思う。
この世界にある物全てが、己を家に置く事を許した妙齢の女子が。
自分が何故この時代に飛ばされたのかは全く分からなかいが、ともかく親切
な人間に拾ってもらえた事は本当に有り難いことだった。
この時代を生きていく為の知識を何も持たない某にその都度親身になって答
えてくれる殿。
いつか、自分が帰ってしまう日が来るまでにその恩に報いる事が出来たらと
思うのだが、何分自分はこの世界において金も身分も持たない身。
病に臥せっているという殿のために某が出来ることは。
この二日間、そればかりを考えていた。
 
 
 
 
 
 
 

朝霞に霞んで、山の端は隠れてしまっている。
もう一刻すれば白みも消えるのであろうが、そうなればまたこの時代での一
日が始まるのだと思い、そのことに少々気が重くなった。
向こうの世にいた時からの慣習が抜けていないせいか。いっそ日がとっくに
上った頃に起きる事が出来たらと思うのだが、戦に備えて早朝に鍛錬を行っ
ていた頃の慣習は中々抜けず、どうしても早くに目が覚めてしまうのだっ
た。
体が鈍るのを武人として良しとはしないが、居候の身ゆえ五月蝿くして家主
に迷惑をかける訳にも行かず、こうして居間にて外の景色を漫然と眺めて朝
の時間を潰す他になかった。
間もなくして聞こえた足音に家主の目覚めを知る。
世話しなく家中を行ったり来たりしているようだったが、程なくしてこちら
へと向かって来る音となった。
殿はしっかりしているようで見ていて危なっかしい。
病故にそう思わせるのかもしれない。
今まで一人で暮らしていたと言う割には家事雑事も慣れぬ手つきでこなして
いるのを見て、やったことの無い某が思わず代わろうかと言ってしまいそう
な程だった。
それでも病に負けず懸命に物事に取り組む姿を見ていると、某がこの世界で
抱える問題等悩みの内にも入らないと思った。勇気と元気が湧くのだ。
今日はどんな一日になるのだろうか。不思議とわくわくとした気持ちになる
のを、開かれた戸の先に立つ人間に向けた。
 
 
 
「あなた、誰?」
 
 
 
忘れていた自分が悪かったのか。
友に裏切られたような、そんな衝撃を受けて某は再び立ち尽くした。
 
 
 
 
 





 
 
 
 


「あなた、泥棒でしょ」
 
「違う。その様な者では断じて御座らん」
 
「じゃあどうして此処にいるの」
 
 
 
戸の前に立ち、一歩も動かぬ殿に何と伝えれば良いのか。
警戒心をむき出しにして己を見定めてくる目に、小雨の日に玄関の軒先であ
った再会が思い出された。
たった二日前のことであるのに、忘れてしまっているなんて酷く理不尽では
無いか。
胸の奥から喉元へと遣る瀬無い気持ちが込みあがってくるのを覚えたが、そ
れを悪意の無い殿へ伝えるのは八つ当たりだと押し殺した。
またなのかと、目の前の光景に眩暈すら覚える。
 
 
 
「殿。昨日は何をしたか、覚えておられるか」
 
「そんなの貴方には関係ないでしょ。どうして私の名前を知ってるの」
 
 
 
間違いない。殿は某を忘れている。
確信したが、それからどうすればいいのか分からず黙っていると部屋には刺
すような沈黙と睨むような雰囲気が降りた。
そうだ、日記はどうなった。
昨夜付けていたのを自分は目の前で見て知っている。朝起きて日記を読んだ
のであれば今、このような事態にはならないはずだ。であれば何らかの事が
殿に起きて、そのせいで日記を読まなかったと言う事か。
思い出したと同時にすぐに思考がそこまで到達し、気がつけば自分の体は真
相を確かめようと殿の部屋へ向かっていた。
 
 
 
「ちょっと!!何処行くの!!??」
 
 
 
怒りの滲んだ声を背に受けながら足を進める。
あまり人の領域に踏み込む様な無粋な事はしたく無いが、事が事だと自分を
正当化して廊下を進んで行き、殿の部屋の戸に手を掛けた。
 
 
 
「失礼する」
 
「そこは私の部屋よ!!勝手に入らないで!!ちょっと!この泥棒っ!!」
 
 
 
自分を追ってくる足音と共に酷い罵詈雑言が聞こえたが、それよりも早く日
記の初め、一番最初に書かれたであろう項を探して紙を捲った。
今の殿にはいつ頃迄の記憶があるのか。
こうなった原因を掴むための手がかりは無いかと表紙を捲って行くと、よう
やくそれらしき事が書かれた項目を見つけた。
日記を書くように自分を諭す、病気の原因と事の顛末を記した項目だ。
 
 
 
「何してるの。此処は私の部屋よ、早く出て行ってちょうだい」
 
「・・・殿のご両親は、」
 
 
 
追いついた殿が部屋の入り口に立って己を睨んでいた。
低い声にさすがに不味かったかと思い、手にしていた日記を閉じて済まぬと
謝罪の言葉を紡いだ。
それから出来るだけ誠意のある顔で振り返り、殿を見た。
 
 
 
「殿のご両親は、今日は帰ってこないのだと仰られていた。
 故にその間、某が殿の面倒を見るようにと頼まれておる」
 
「・・・・・・・え?はい?そう、なんですか・・・?」
 
「うむ。伝え遅れたこと、真に申し訳ない。
 某は殿を託されて参上仕った真田幸村と申す者に御座る」
 
 
 
今の殿であればこれくらいの唐突な嘘でも貫き通せるだろう。
現に眼前の己を映す瞳からは警戒の色が薄れ、突然の事に戸惑いを浮かべる
だけとなっていた。
疑念を持っていないその姿に、おそらくこれで間違いが無いと確信が行く。
日記に書かれていた病の直接の原因であったという事故。その事故があった
日以降の記憶は今の殿には無い。
であるとすれば、日記に書かれていて日付から読んで今の殿は。
 
 
 
「お父さんとお母さん帰ってこないの?今日は私の誕生日なのに・・・?」
 
 
 
12歳。
誕生日とやらが何なのかは己には分からなかったが、今日がその特別な日で
あるならば、朝起きて記憶の無い彼女は永遠に12歳の誕生日とやらを繰り
返しているという事になる。
父と母の帰りを毎日、毎朝、心待ちにして目覚める。そう考えてようやく、
自分は何故朝一番に殿が日記を読むのかを理解した。
つまり痛い現実を、早いうちに知るためだったのだ。
しかし。とそこで目の前の殿に目をやる。
己の視線に気づき首を傾げる姿は体はともかく12歳の完全に無垢な瞳をし
ており、自分はその瞳から光を奪うような現実を今更出来ないと思った。
日記を見るよう言って読ませても、後から知らない方が良かったと本人が言
い出さないとも限らないのだ。
 

無理をすれば某が嫌われてしまうかもしれない。それは嫌だった。





 
 
 
 


 
 
 
 

「あ、これ草津ですよ。この間お爺ちゃんとお婆ちゃんが連れて行ってくれ
 たんですけど、あ。写真があるので見せますね!たしか・・・」
 
 
 
そうか、中身も記憶と同じで子供なのか。
そう気づいたのは朝食を食べ終えてからの事で、いつもならば洗濯や皿洗い
を始めるというのに、未だ食卓に着いたままテレビを見て楽しんでいるのを
見て思った。唐突に口を開いたかと思えば脈絡のない話をする。
朝食は何を食べていいのか分からず二人で試行錯誤したが、それがどうやら
連帯感を生んだらしく殿は己に対してすっかり警戒を解いていた。
昨日、殿からは機械とやらの使い方も一通り説明を受けた。
自分でやるしかないと決めて席を立ち、成れぬ皿洗いを不安に思いながらも
厨へと向かった。
本人に記憶が無いとは言え、自分は目の前の女子に厄介になっている身。こ
れくらいの貢献はしなければと、昨日教えられた事を思い出しながらスポン
ジとやらに洗剤を沁み込ませた。
柑橘類の強い香りが鼻を付く。
 
 
 
「ねえ、真田さん」
 
「何で御座るか?」
 
「それが終わったら一緒に遊びましょうよ」
 
 
 
わざわざ居間の方から大きな声で呼んだかと思えばそんな用事か。
童子の様だと思わず肩を落としたが、しかし中身は童子であったと思い出し
てこれが終わったら、とだけ返した。
まるで大きな子供の面倒を見ているようだったが、あまり嫌だと思う自分が
いないのが不思議だった。
はーいと間延びした大きな返事を最後に会話は途切れたが、早く皿洗いを終
えてしまおうと意気込む己がいた。感化されているのだろうか。
戦場にて二槍を振り回す武士が、殿という女子に。
真、不思議なことだ。
 
 
 
パリンッ!
 

「あ」
 
「・・・真田さん?」
 
 
 
 
 
 




 
 
 
 
 
「真田さん!手を出してください!!」
 
「え、はい?」
 
 
 
ふふふ、と両の手を後に隠して殿が笑う。
食器を洗い終えたばかりでまだ湿り気のある自分の手を布巾で拭いていた矢
先のこと。我慢がならなかったのか、殿の方が厨へとやって来た。
布巾を傍らの台に置き言われたとおりに掌を広げて見せると、指の間から紐
の垂れた何らかの物を渡された。
 
 
 
「はい!」
 
 
 
言葉と共に離れていった手の上を見やると、己の掌には金色の色紙が置かれ
てあった。しかしそれは複雑な形をしており、手にとって四方から見てよう
やく折り紙である事が分かる程度の物だった。
一体何を象っているのか。
鋭角が五つもあり、その一つの尖りには穴が開けられ桃色の紐が通されてい
る。殿の思惑に察しが行かず、思わず怪訝な顔で返した。
 
 
 
「あれ?星のメダルを知りませんか?この間兄に教わって作ったんですけど
 真田さんには特別に金色をあげちゃいますね?」
 
「あ、っと。有り難く、頂戴するでござる・・・?」
 
 
 
何故某に渡されたのか、いまいち目的が読めなかったが好意であるならば素
直に受け取っておくべきだろう。そう判断して礼を述べる。
しゃがんで下さいなーとふざけ半分な口調で次に指示された言葉にも素直に
従い腰を屈めれば、手にしていたメダルを取られて首に何かを掛けられた。
それが先程の星であると気づくよりも、某の意識は鼻を掠めた匂いに全て持
っていかれた。殿の、香りだった。
 
 
 
「元気、だしてくださいね」
 
「え・・・?」
 
 
 
屈めた姿勢のままでいると、首元に殿の息が掛かった。
先程の元気の良さを抑えた幾分か控えめな声で紡がれた言葉に反射的に顔を
上げると殿と目が合った。
だって真田さん、と言葉が区切られる。
 
 

「悲しそうな顔、してます」
 
 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「なんか眠くなってきちゃったな・・・」
 
 
 
テレビを見続けていた殿が欠伸をしながら言った。
いつの間にやら空は暮れなずんでいて、カラスの山に帰る鳴き声が木霊して
いた。
もうそんなに経っていたのか、一日のほとんどを結局こうして過ごしてしま
ったと呆気なく思いながらテレビ画面に目を戻した。
もう今にでも閉じてしまいそうな瞼を擦るでもなく頭を揺らし続ける隣の女
子を見かねて寝るように諭すと、殿は一つ頷いて返事をした。
 
 
 
「殿」
 
 
 
まだ夕焼の赤く燃える時間だったが、それを見続けることがどうしても出来
なかった。腕に抱いた殿自身は既に夢現であったのか。
抵抗をするでもどうしたと問うでもなく己の腕に大人しく収まっていた。
悲しいのは病に苦しむ殿ではないらしい。
自分と殿の間に垂れた星の首飾りを目にして思う。
明日、殿はこの事すらも忘れてしまうのであろうと。
 
 
 
そう思うと酷く、胸が抉られる様だった。
だから今は、せめてこうさせて欲しい。

 
 
 


 
星の見えない日