02













カーテンを開けて光を取り込んだ部屋は、朝の日差しを受けて輝いているよ
うに見えた。
時計を見ると朝の6時。そろそろ朝ご飯の支度をしなければ。
読み終えた日記を閉じて机に置き、手っ取り早く着替えを済ませて部屋を出
るとリビングには既に人がいた。
 
 
 
「・・・真田さん?」
 
「おお、殿!早い目覚めでござりまするな」
 
「えっと、真田さんこそ。お早うございます」
 
 
 
この人が日記に書いてあった真田さんらしい。
振り返った拍子に靡いた長い後ろ髪と、溌剌とした返事の仕方に日記に書か
れていたイメージよりも幼い印象を受けた。
良い人そう、というのは確かにその通りみたいだ。本人かの確認のために声
をかけたのだけれど、そうとは露も思わない真田さんに違和感を持たれない
よう小さく微笑んで、すぐに朝ご飯を作りますと言って台所に逃げた。
忝い、と向こうから聞こえる声にも簡単に答えるだけして口を閉ざし、手早
く朝食の準備を進める。
日記に書かれていた内容では、今日の朝食は昨日の残りのパンを食べるよう
にとあった。
それを基にして戸棚を開けると袋に入った食パンがあったので、これに違い
ないと手に取りトースターに二枚突っ込んだ。
男の人なら二枚くらいは食べるだろう。それから白い食パンにつけるジャム
は冷蔵庫にあるキャップの開いたブルーベリーから使うこととあった。
焼けたパンをお皿に乗せて、ジャムをもう片方の手に持ちリビングへと戻れ
ば、消えたテレビ画面をじっと覗き込む幸村さんがいた。
 
 
 
「・・・面妖でござる」
 
「それは真田さんです。・・・一体何をなさってるんですか?」
 
「おお、殿。これは何でござるか?」
 
 
 
しゃがみ込んで熱心にテレビ画面を見つめる後姿に、テレビですねと当然の
ようにして答えれば、酷く驚いた表情をしてこちらを振り返った。
瞳は驚きに見開かれている。
 
 
 
「何と!殿はこれが何かを存じておられるのか!
 ではどのようにして使う物なので御座るか?」
 
「・・・・見るものですね」
 
 
 
食卓にパンの乗った皿とジャムを置いてからリモコンを手に取り、電源ボタ
ンを押した。シュンと音を立てて液晶に映し出されたのは、丁度知りたいと
思っていた今日一日の天気を伝える女子アナウンサーだった。
立ったままでそれをしばし眺めていたけれど、全国図で映し出された天気予
報になった所で、丁度自分の住む地域が真田さんの頭に被って見えなくなっ
てしまった。
見えないので横にずれて頂けますか、とテレビの前に陣取る背中に言えば、
それまで微動だにせず液晶を向いていた真田さんの頭がロボットのように滑
り悪くこちらに回った。
眉間にしわを寄せて、不可解だと言わんばかりの表情をしていたので、質問
攻めに合いそうだと予感した私は事を大きくしないようにと、朝食が冷めて
しまいますと有無を言わせない笑みで遮って席に着かせた。
 
 
 
「・・・殿」
 
「バスに乗れば、町まで降りられますよ」
 
 
 
昨日の私は真田さんと一体何を話したのだろうか。いい人だという漠然とし
た印象だけでは真田さんの素性等全く分からない。
遭難したと書いてあったけれど、まさか真田さんはその後遺症で頭を打った
んじゃないだろうか。
これでは私と同じ、いいや、それ以上に彼の方が酷い記憶喪失になっている
みたいじゃないかと、少なからず苛立たしい気持ちが沸いてきた。
とにかくあまり話をしないようにと心掛けて会話をぶつぎる。
自分の事で手一杯なのに、人の事にまで首を突っ込んで構っている余裕はこ
ちらには無い。とっとと食べてしまおうとジャムを塗って口に入れようとパ
ンを持ち上げたところで、今だ何にも手をつけていない真田さんが目に入っ
た。
 
 
 
「パンはお気に召しませんか?」
 
「いや。そうでは無いのだ。ただ此処は南蛮のように得体の知れぬ物で溢れ
 かえっておる故、その・・・少々勝手が分からぬのだ」
 
「食べ方もですか?」
 
「うむ・・・」
 
 
 
うな垂れて心底困った様子の真田さんに薄々、これは記憶喪失では無いと勘
がいった。食べ方も分からないなんて普通じゃない。
テレビも知らないのに、真田さんが帰る甲斐という地に一人で行くことなど
果たして出来るのだろうか。
心配になったけれど、それを気遣ったところで私に何が出来ると言うのか。
私だって今を生きるのに精一杯だし、お節介を焼いたところで最後まで面倒
を見れないのであれば深く関わるのは最初から止したほうが良い。
私がしたことは全て、その分相手を傷付け失望させることになるだけだ。
考えないようにして、私は真田さんのパンに自分のと同じ様にジャムを塗っ
てあげてこのまま齧るように言って手渡した。
 
 
 
「真田さん、家族に連絡はとりましたか?あれでしたら迎えに来て貰った方
 がいいと思います」
 
「しかし生憎、今の某にはその手立ても無いのだ」
 
「あ、すみません・・・」
 
「いや、殿が気に召される事では御座らん」
 
 
 
私が心配で言うと、真田さんは明るく言って手で制した。
それからパンを一口齧った真田さんは、ブルーベリージャムの甘さに感激し
たのか急にうおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!と叫んだ。
正直朝っぱらから近所迷惑な人だと思ったけれど、旨い!と笑顔で言われて
しまえばそれを咎めることなんで出来なくなってしまった。
貧乏ゆえにその辺で買った食パンにジャムを塗っただけの朝食を、ここまで
楽しんで食べる人も中々いないと興味本位で食べ終わるのをじっと見て待っ
つことにした。
真田さんの笑顔は何というか、見ているこちらが元気になれると思った。
そうして二人で囲んだ小さな食卓も、あっという間に終わった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「しかし、未知の場所というのは心許ないが、反面心も躍る!」
 
 
 
食パンの食べ方も分からない様な人間が、果たして無事に甲斐という今は昔
な土地まで行けるのか。
家を出てすぐにある急斜面の坂を中頃まで行ったところで、横に並んでいた
真田さんが足を止めた。見送りはここまでで大丈夫ということらしい。
これ以上迷惑は掛けられないと言って、朝食を終えて食休みも程々に、真田
さんは出発を申し出た。荷物を持たない真田さんに、彼は遭難していたのだ
ったと思い出して急遽買いだめしていた保存食の少しを持たせようとしたけ
れど、真田さんは頑なにそれを拒んだ。
貧しい暮らしぶりが伺えて気を使われたのかと思ったけれど、そうではなく
てお金は持っているから心配ないのだと、これから冒険に出る勇者のような
顔をして幸村さんは言ったのだった。
 
 
 
「昼とはいえ、熊が出ますから気をつけてくださいね」
 
「何の。心配には及びませぬ」
 
「あと、何かあったら直に側にいる人に聞いてください」
 
「それくらいは。某も童子ではござらん故」
 
 
 
あまり口煩く言うとうざったく思われてしまうだろうと思い、程々にしてお
こうと注意を止めた。
四方を山に囲まれたこの地は、少し下らなければ街の高いビルも見えない位
の秘境だ。無事に下山できると良いのだけれど。
悪い人も田舎だからそんなにはいないけれど、真田さん自身が心配の種だっ
たから、言っておかなければならない事がたくさんあると思いつい口煩くな
ってしまった。
私は他人に介入出来ないし、してはいけない。
日記の一番初めのページに注意事項として多く記載されている中で、上の方
に書かれている項目を思い出した。
もし私がこの後遺症を負っていなければ、そんな事に囚われる等生涯絶対に
有り得なかっただろう。目の前にいる真田さんのように、未踏のジャングル
を掻き分けてでも自分で開拓していく勇気を同じように持っていたかもしれ
ない。
 
 
 
「それでは」
 
「はい。お元気で」
 
 
 
だけど今の私には無理だ。
足を止めて、私は真田さんの翻った後姿を見送る。
最後に私を見た真田さんの目には、この世界のことを何も分かっていないと
いうのに怯えなんて欠片も無かった。
不可解なのは真田さんの方だ。もし彼がこの日本でやって行こう等と本気で
思っているのならば相当な度胸の持ち主だ。
真田さんだって此処が彼のいた所ではないことくらい薄々気づいているだろ
うに、本当に彼に恐怖は無いのだろうか。
いいや、怖いはずだ。
私が朝、目覚めた時に何も知らない世界に一人で放り出されているのと同じ
ように、真田さんも今、此処がどこかも分からない状態に少なからず不安を
感じているはずだ。
自分を確立する日記がある私と違って何も無い幸村さんを、なのに私は邪険
に扱ってしまった。
そう思ったら、私は遠くなる後姿に大きな声で叫んでいた。
 
 
 

「真田さん!!困った事があったら遠慮せずに帰ってきてくださいね!!」
 
 
 

私に出来ることがあるとしたら、それは何だろう。
甲斐まで彼が辿り着けるなどと、本気で信じているわけではない。でも行く
のだと言う彼を引き止めることは出来ない。
自分とそっくりな立場だと思ったのに、真田さんの方が不自由なのに楽しそ
うなのはどうしてなんだろうか。
あるいは、私にも真田さんほどのバイタリティが少しでもあれば自分の人生
を自分で切り開いていけたのだろうか。
そんな事を考えたところで私は明日、この思いすらも忘れてしまうけれど、
それでもたった一日の彼との出会いを、私は確かに特別に思っていた。
行かないで、さようなら。
 
 
 
 


 
まだ少し、寂しい。