木々が揺れている。
夕方になると少し強い風が吹き始める。それがこの地での夜の訪れの合図
だった。
「帰るぞ」
三成がそう言って立ち上がった。
「先帰って良いよ。私もうちょっとここに居るから」
まだ少しぼーっとしていたかったので私がそう言うと三成は、一人で女を帰
らせる奴があるかと言って私の腕を無理やり引き上げて立たせた。痛いよと
抗議の声をあげると黙れと一蹴される。なかなか暴力的な人間らしい、大人
しく帰るしか選択肢がなくなったので従うことにした。
お世話になってる家まで送ってもらって別れる際、ふと三成に別れの言葉を
告げるのが嫌になった。だって此処で別れたら次は一週間は彼に会えなくな
るのだ。そのことに急に寂しさがこみ上げてくる。たとえ彼と険悪な仲にな
ろうが今の私には彼が必要だった。先程あんな事を言った手前行かないで、
なんて都合良く引き止めるわけには行かないが。来週絶対に会えるか分から
ないのなら会わなきゃいけない理由が欲しい。
「三成に、見て欲しいの。来週感想を聞かせて」
本を預ければ返さなくてはいけないから必然会わなくてはいけなくなる。
それでいい。一週間後にこれで絶対に会える。三成は黙って受け取った。
「恋のはじまりね」
ホームステイ先のお婆ちゃんがゆったりとしたフランス語でそう言った。
玄関での三成とのやり取りをちゃっかり見ていたらしい。そんなんじゃない
よ、と言ってもお婆ちゃんは上品に微笑んで『分からないわよ』と私をから
かうのだった。素敵なホストファミリーに出会えたのが私の知らぬ土地での
唯一の救いだ。お婆ちゃんとソファに座って紅茶を飲みながら今日あったこ
とをフランス語で話す。優しい老夫婦は私が描く絵を、素敵ねえと言って夫
婦二人で肩を寄せ合って眺めるのだ。その二人が私は大好きだった。
なんて優しい時間を二人は重ねてきたのだろうと私まで幸せな気持ちになる。
いつか二人を私の物語に出来たら、そんな風に思う。
「相容れない二人は惹かれ合うのだよ」
家に帰ってきたお爺ちゃんまでもが話を聞くとそう言った。
もう此処まで来ると恥ずかしさで一人取り乱す私が滑稽極まりないので好き
に言わせることにした。お婆ちゃんなんてお爺ちゃんとの出会いを語り出す
始末だ。フランス人は愛やら恋やらが大好きだと聞いて知ってはいたが三成
本人もまさかこんなことを言われているとは思わないだろう。時計を見ると
もう良い時間だったので二人には悪いが自分の部屋に戻ることにした。
「おやすみ。お爺ちゃん、お婆ちゃん」
「おやすみ、」
ベッドに入って考える。
三成は私の描いた絵本をもう読んでくれただろうか。
ドイツに留学していたという三成には絵本なんて似ても似つかない。
失礼だが可愛らしい表紙の本を三成が手にしている姿を想像するだけで笑い
がこみ上げてくる。彼にはカルテの方が様になる。ましてフランスだなんて
ロマンスの国自体が彼と対極にあるように思うのだ。芸術にだって疎いとい
うよりもそれ自体に価値を見出さ無い人間かもしれない。それでも三成は私
の本を黙って受け取ってくれた。それはきちんと私の本と向かい合ってくれ
るということだ。それが何よりも嬉しかった。また一週間後に会える。
その間の一週間、私は何もしないで唯三成を待って過ごすのだろうか。
三成には、私と違って明日も明後日もすることがあるのに、私は。
『私には、やるべきことがある』
三成はそう言った。今のところ私にそんなものは無い。彼にはあるのに。
私と彼の違いは目的があるかないかの違いだけでは無い気がする。目的がな
かったとしても何か出来る事があるんじゃないだろうか、私は彼に追い付こ
うとするための努力も行動も起こさないまま一週間三成が来るのを唯待つの
だろうか。そんなことをしたら今度こそ三成は完全なる軽蔑の眼差しで私を
見るような気がする。彼はきっと、絵本なんて読まない人間だ。それでも受
け取ったのは、少なからず私にとって切欠になるならという意味があったん
じゃないだろうか。もちろん三成は何も言わないし、そんなこと思っていた
かなんて分からない。だけど彼の思いがある気がするのだ。
息を吐く。
自分自身に意識を集中させると鼓動の音が大きく聞こえた。生きているのだ
と実感する。そうだ、私はまだ生きている。目を閉じて三成を思い描くと彼
の鋭い瞳がすぐに思い浮かんだ。彼に追いつきたい。だけどあの瞳に負けた
くはない。何か、彼のように私にもするべきことがある気がするのだ。しな
ければ。何か、行動を起こさなければ。完全に錆び付いてしまう前に。生き
ているうちに。
旅の恥は掻き捨てとはよく言う。
翌朝私は思い切ってお爺ちゃんが毎日読む新聞にある投稿者の絵が載せられ
ているコーナーに自分の絵本を送ってみることにした。絵じゃなくて本だけ
ど、まあいいやと思った。これなら匿名でも大丈夫だし、短いながらにちゃ
んと芸術評論家のコメントがついてくる。三成のおかげで開き直れたのかも
しれない。私の心は今までに無いほど落ち着いていて、それでいて瑞々しか
った。
「、明日はマルセイユに行こうね」
アルルの方がいい?それともトゥールーズまで行ってみる?と突然話し出す
お婆ちゃんに何を急に言い出すのかとぽかんと見つめていると黙ってコーヒ
ーを飲んでいたお爺ちゃんが私に言った。
『彼にも何かプレゼントを買ってあげなさい。きっと喜ぶから』
何、何なの。二人して急に何を言い出すのかと思ったがとりあえず。
「三成は彼氏じゃないってば」
『繊細な色使いは見事の一言です。ただし好き嫌いの分かれる話でしょう。
またこれが子供向けの内容であるならば理解するには難しいと思います。
しかし将来性は大いにあります』
想像を絶する速さで返事をいただいた。
マルセイユから帰ってきた翌日、ポストに入っていた新聞社からの返事の手
紙には大体こんな内容が書かれていた。いかんせんフランス語が完璧ではな
いので辞書片手に翻訳したものであっているか分からないが。そんな手紙の
最後は貴方の輝かしい才能に期待します、の言葉で締めくくられていた。
嬉しかった。
単純に手紙の返事が来たことが嬉しかった。
拙いフランス語で書かれた私の本をきちんと読んでくれたということだ。
その上での中身の指摘と批判が何よりも私の求めるものだったのだ。あの教
授のように、拒絶されることはなかった。今になって思うとどうして私はあ
んなたった一人の人間の評価を真に受けたのかと冷静に思うことが出来る。
だけどきっとそうなのだ。後になってそう思えるのだ。
「三成」
心臓がどきどきとする。こんな感覚はいつ以来だろう。握り締めた手紙に、
今この場に三成がいたらと考える。彼の名前を口にするだけでわくわくと何
かが私の中で膨らむ。肺に流れ込む酸素を拒絶するかのように激しく鼓動が
波打つ。体が火照る。魔法みたいだ。
「私は夢を、覚えてる」
潮風は私の肺を侵す。
だけど私はそれを、もう恐れない。
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