三成へ。 この手紙は、貴方のもとへちゃんと届いたでしょうか。 東京は雨です。 都会の雨なので酸性雨かも知れません。そちらの風は全てを錆び付かせます が、こちらの雨は全てを溶かすようです。自然って、どこに行っても生き物 にそんなに優しくないみたいです。ベランダのパンジーが枯れてしまいまし た。 マルセイユで買ったリラの花が咲いてしまう前に、日本へ帰ることを決めた。 マルセイユから帰る車の中。 私はどこまでも続く平原を見た。それは地球の裏側まで続いているかのよう に思わせる程果てしなくて、次第に私は世界に包まれるかのように眠りにつ いた。このまま私が起きなかったとしても、世界はなんら変わることは無い のだと思った。それが世界なのだと。私が突然世界から消えたとしてもせい ぜい車を運転するお爺ちゃんとその横に座るお婆ちゃん、それと日本にいる 家族が悲しむくらいなものだ。 それでも世界は私に、とても優しくしてくれた。 世界は広い。こんな私にも逃げ場所がきちんとあった。 だけど同時に世界はとても狭くもあったから、肝心のことから逃げ切ること は出来なかった。どこへ行っても、私という人間が生きている限り全ては続 いていた。そのことに嫌気がさした。 そんな時に私は三成に出会った。 海で死んだ船乗りは、海に眠るのだ。 それは災難であったとしても彼らには本望かもしれない。たとえ陸に待つ大 切な人がいたとしても。良く慣れ親しんだ母なる海に永遠に抱かれて眠るこ とが出来るのだ。それは、とても魅力的なことのように思えた。 だけど私の帰るべき場所は此処ではなかった。 私の肺は潮風を拒んだから、私は此処にいてはいけないのだと知った。 三成の瞳は、私が此処にいることを許さなかった。 聞こえていなくったって、届いていなくたって良い。 三成。 私は自分のしたい事が、分かったよ。 こんなことを書いて困らせるつもりは無いのですが、貴方が私にしてくれた ことを考えるとお返しには丁度良いのではないかと思うのです。 だって三成は愛想のかけらも無いままに私に辛辣で容赦の無い言葉を浴びせ ましたから。忘れもしません、遊びに来たのかと言った事は。おかげで私は 家に帰ると貴方の言葉に散々悩まされる羽目になりました。 私が三成の言葉にそんなに苦しめられたことを三成は知りもせずに翌日も会 いに来てくれるのです。優しさからか嫌がらせのためかは良く分かりません が、そのせいで私の頭は四六時中三成に支配されることになりました。 ホストファミリーにまで三成との仲をからかわれる始末です。当然三成は知 らなかったでしょうが。だから三成だって思い知るべきで、一度くらい私に 悩まされるべきなのです。だから書きます。 私は三成が好きです。 「散々人を振り回しておいて自分はとっとと帰国とは良いご身分だな。  しかもこんな馬鹿げた手紙のせいで私は理由をつけて一時帰国をする羽目  になった」 空港でトランクケースを受け取った三成は私の姿を見つけると再開の挨拶も 無しにそう言った。三成の声は周囲の喧騒に負けていない。忌々しいと吐き 捨てる三成は相当頭にきているらしかったが彼の手にあるのは可愛い絵本だ からいまいち迫力に欠ける。いやいや、なんと可愛らしい。こっちは笑いを 抑えるのに必死だ。 「誰のせい?」 「貴様のせいに決まっている!!」 最後に。 私は大学を辞めました。 しかし夢をあきらめるつもりは全くありません。遅かれ早かれ自分の作品を 売り込むことになるのだからと考えての決断です。 それで実はこれが手紙の本題だったりするのですが、先日売り込みに行って 掛け合ってくれた会社の人が、何と私が持っている全ての作品を見たいと言 ってきたのです。これには困りました。 私はまだそれほどたくさんの作品を描いていないからです。おまけに私が描 いたその一番の力作は手元にないという状態です。三成に貸した本のことで す。三成の感想を聞かないままに私は帰国してしまいましたが、捨ててさえ いなければ三成がまだ持っていると思います。それは私の一番の自信作の絵 本なのです。ですので大至急、直接届けに来てください。 あとどうでもいい事ですが、三成にマルセイユでのお土産を渡し損ねてしま いました。会った時に渡そうと思います。 「いやー、悪いね。三成。マルセイユのお土産持ってくるの忘れちゃった  からまた次の機会に取りに来て」 「抜かせ、わざとだろうが。  私も半年後に正式に帰国したら貴様に山ほど言いたいことがある。  それまでせいぜい待っていろ」 三成、私は生きているよ。 錆び付いてなんていない。溶けるにもまだ早いよ。 私の声が、三成には届いただろうか。
                       



Letter from the deepest sea. 完読ありがとうございます。 補足として。リラ=フランス語。英語名でライラック。紫色の花。 花言葉は友情・青春の思い出・純潔・初恋・大切な友達などです。