三成は隣街にある大きい病院から来たのだと教えてくれた。 この小さな町には病院が無い、あるのは小さな診療所だけ。だから定期的に 医者が訪れることになっていてそれに三成は同行して来たのだという。それ ならまだ此処には滞在するのかと聞いたところ一週間に一度、二日間だけ此 処にいると答えた。今日はその一日目なのだと。三成にはともかく私にとっ てはせっかく出合った日本人だ。知らない異国の地で片言のフランス語だけ で送る生活はやはり孤独で仕方が無い。人は孤独には勝てないのだ。彼が私 をよく思っていなくたってこの際良い。 「明日もこのカフェにいるから。  時間が空いたらでいいから、来て」 そう言うと三成は私の顔を見ただけで嫌そうな顔はしなかった。頷かなかっ たのは行ける保障が無いからだろう。三成はお医者さんの卵とはいえ、きっ と忙しいはずだ。だけど彼はまた行けないとも、行かないとも言わなかった。 それは三成の最大限の優しさだと私は思う。そうして日も暮れかかった頃に 私達は店を出た。 Les Miserables フランスにいるのだから最低限知っておくべきだろうかとカフェに来る前に この街唯一の本屋で手に取った日本語名『ああ、無情』は勿論フランス語で かれているために読めるわけも無く、ただぺらぺらとページをめくるのみに なっていた。完全に失敗したと思うが帰国するまでにこの本が読める程に語 学力を付けようという気もまた起きず。 あまりの退屈さにテーブルにあごを付けそうになった頃、ちりんちりんと可 愛らしい鈴の音が客の来店を知らせた。期待して入り口の方を見ると、私の 顔は単純なほどすぐに緩んだ。昨日と同じ時間帯に店に姿を現した三成に嬉 しさから思わず手を振ってここだよと叫んで居場所を教える。来てくれた嬉 しさを抑えきれないためにそうなってしまったわけだが、他の客からの視線 は私ではなく入ってきた三成に集まってしまったために彼の綺麗な顔は私の 姿を認めると一気にしかめっ面へと変わってしまった。 「わー凄い顔。そんなに怒らないで」 「誰のせいだ」 「私のせいだね」 でも本当に嬉しかったから。つぶやいたその言葉は聴かれると思っていなか ったが三成がふん、と無愛想ながらに返してくれたことに私は嬉しくなる。 ほとんどの席がオープンテラスなこの店は雨の日には閉ざされてしまうので 明日三成と会う時には雨が降らないようにと昨日年甲斐も無く祈ったのだ。 三成が来てくれたのがその成果だったら嬉しいのだけれど。 「貴様は何を専攻しているのだ」 私の前に座ると三成が言った。昨日より砕けた感じなのはやはり三成と呼び 捨てにしたのが功を奏したのだろうか。三成の貴様と言う二人称については あえて言及しないでおく。思えば昨日はほとんど一方的に私が三成について 質問をしてしまって自分のことについてはほとんど話さなかった。だからこ うして三成から話しを振ってくれたこと、私に興味を示してくれたことが嬉 しくて顔がにやける。 「児童文学。まあ平たく言っちゃうと子供向けの本を書くの」 「道理で貴様も幼稚なわけだ」 「ひどいなあ・・・。まあ行動が幼いとはよく言われるけど」 三成はなかなか遠慮が無い、口を開けば攻撃的な言葉が出る。 誰だ、会話が弾まなさそうだとか言ったのは。私だ。 「それで貴様はこの地で何をしているのだ」 昨日も言われた言葉にびくりと体が強張った。 またその質問かと三成を見ると彼の目は自分も言ったのだからお前も言えと 語っていた。しょうがなくどう答えるかを考える。絵は、描いている。描き 続けているのだ。今日だって三成に会う前にスケッチブックを持って外に出 て描いていたのだ。だから情熱はある。此処にはちゃんと色々な事を学んで 見聞を広めるという目的があって来ている。だけど、なら。どうして私は堂 々とそう答えることが出来ないのだろう。何故やましい気持ちになる。 「ただ遊んでいるだけか」 冷ややかな声。 あまりにもひどい物言いだ。遊んでいるなんて、仮にも親が高いお金を出し てくれているのだ。遊びだなどと許されるわけが無い。だけど三成の言葉は 少なからず私の胸を突いた。その証拠に私は彼と目を合わせることが出来な い。すなわちそれは、彼の言葉を肯定するということだ。 何もかも嫌になって海外で学ぶだ等と言っておいて、その実逃げ出しただけ なのだ。この状態になるのを望んだのは他でもない私で、だから言葉の通じ ない異国の地にまでわざわざ逃げてきたのに。今ではすっかり一人が嫌で孤 独におびえてしまっている。どこまでも中途半端で臆病なのが私という人間 なのだ。逃げるように空しく日々を過ごしている。詰まるところ、何もかも 三成の言う通り、 「っ・・おい」 三成の焦りを含んだ声がする。 気づくと私の世界はゆらゆらと水の中にあってそれがぼたりと次々に重い音 を立ててテーブルクロスに吸い込まれた。涙だ。弱虫の、落とすもの。 店にいる客の視線が私と三成に思い切り突き刺さる。言葉が私達以外の人に は通じないのが救いなのかさらに場を悪くしているのかは分からなかったが どちらにしろ店にいるアジア系が私達だけだから嫌でも注目の的になる。三 成にとっては誤解されるには最悪な状況だ。舌打ちをすると三成はおもむろ に紙幣をテーブルに置いて席を立ち、私の腕を掴んだ。 「出るぞ」 私のために此処に来てくれたのにこれ以上三成を不愉快にさせたら次は来て くれないかもしれない。それは嫌だと最低限涙をぬぐって顔を取り繕ろうと 急いで彼の後を追った。店を出ても行く場所なんてあるはずが無いのである 程度歩いた先にあったベンチの前で三成が止まる。石畳にヒールで足が痛く なった私は遠慮なくそのベンチに腰を下ろすことにした。袖で涙をもう一度 拭って三成を見ると彼は黙って私を見下ろしていた。 「もうあの店には行けないね」 「誰のせいだ」 「うん、私のせいだね」 さっきもこんなやり取りした気がする、と思いながら私の分払わせちゃった ね、いくら?と言うと別にいい、と三成に言われてしまい出しかけた財布は 再び鞄の中に押しやられてしまう。そしてそのまま私達の間には沈黙が下り た。 「人魚姫が嫌い」 私が唐突にそう言うと三成は何の話だと怪訝な顔をした。思えば私は出会っ てから三成に難しい顔しかさせていない気がする。彼にも笑うことがあるの だろうか。今から私が話すことだって彼の理解の範疇を超える気がするのに。 馬鹿な女の戯言と思うだろう。事実私は単なるお馬鹿さんで、三成はこの世 向きの男だ。どこまでも現実主義者、その方が間違いなく生き易いのだろう けど。 「あんな終わり方が許せない」 これならば聞かないほうが良かったと読み終えたあとに思った。 シンデレラや美女と野獣を知った後には、その話は残酷すぎた。シンデレラ や白雪姫だって原本ではあまり良い話でないのは知っている。だけど子供の うちに悲しみを、真実を知る必要も無いと成長してそう思うのだ。だから私 は人魚姫が嫌いだし、悲しい話を書かないと決めていた。 「三成の子供の頃の夢って、お医者さんになることだった?」 三成は私の馬鹿なおしゃべりを黙って聞いてくれている。愛想は欠片も無い し辛辣なことばかり言うし相槌だって打たないくせに、それでも話を最後ま で聞いてくれている。そんなに悪い人間でもないのだと思う。三成が口を開 いた。 「覚えている訳がない」 「うん、そうだよね」 大した夢じゃないのだから、ころころ変わるし一貫性なんてありはしない。 三成の答え方は正しい。だから彼はここまで上り詰めることが出来たのだと 思う。夢は所詮見るもの、忘れた者勝ちだ。だけど、私は。 私の言葉の意味を図りかねるのか、三成は気に食わないと言いたげな顔をし てどういう意味だと聞いた。だから素直に答えた。 「私は、三成みたいに成れないから」 良い意味でも悪い意味でも。 私を見る三成の瞳に軽蔑がまじった。 彼のような人間には、私の生き方はさぞ虫唾が走るに違いない。支えてくれ る周りの人間の優しさに甘えて育った、辛苦や孤独を知らない人間。私はそ れを知る三成の強さに惹かれたんだと思う。彼の瞳が強く美しいのは確かな のだ。どうやったって私は彼のようには成れない。でもそれでいい、成りた くもないから。輝かない瞳は私を睨む。その目に見えるのは彼が言ったやら なければならないという目的だけ。そんな生き方を私はしたくない。 孤独な人間は、この世で最も強いと誰かが言った。それは真実なのかもしれ ない。だけどそれならば人魚姫の最後をどう説明するのだ。 next