-9-
「行ってらっしゃーい!」 小さくなっていくお母さんとお父さんの後姿に手を振って。完全に見えなくなったところでド アを閉めたら、今日から一週間、一人暮らしの始まりだ。 「よーし、今日は一日目だしお洋服買いに行っちゃおうかな」 空は少し曇っているけれど、出掛けるには紫外線も無くて丁度いい。それにせっかくの三連休 を一人で過ごせるんだ。遅く家に帰って来ても咎める人はいないし、好きなだけ店を見て回れ る。お買い物なんて鶴ちゃんと行った時以来だ。あの時は自分の洋服じゃなくてペンダントを 買っちゃったから、今回は絶対に自分の物を買おう。と、そこで思い出した。 そういえば、家康にシルバーペンダントを未だに渡していないままだ。紙袋からは出したけれ ど、どうすればいいのか分からなくて机の上に放置している。今更渡す気が起きないし、かと いって捨てる気も起きなくて、ただもて余していた。 「そういえば、鶴ちゃんは風魔君に渡したのかな・・・」 何だかんだで、風魔君は鶴ちゃんのことを気に掛けている。身につけるかは別としても、鶴ち ゃんが買ったといえば受け取るだろう。二人がくっつくのも時間の問題かもしれない。 はあ、と溜息。やっぱり家にいたら悪い事ばかり考えてしまう。気持ちが沈んでしまって浮き 上がれなくなる前に、外へ出た方がよさそうだ。ぱーっとお金を使って、リフレッシュしよ う。忘れるのが一番だ。 -- ドッジボールでもしているんだろうか。それにしては重たい音だけれども。 両手に荷物で帰り道を行けば、夕日の街角、何処からとも無く鈍い音が聞こえてきた。電車を 降りて、線路に沿って高架下を歩いていく。いつもと違うちょっと遠回りな道を選んだのは正 解だった。歩くたびに靴のヒールがコンクリートを打つ音がして、リズムを刻んでいるようで 耳に心地良く響いた。たくさん良い物が買えたと、今日の収穫を頭に思い描いて笑う。 と、先程のドッジボールをする音が近くに聞こえてきた。この辺でやっているのだろうかと、 ふと好奇心で横にあった路地裏を覗き込んでみる。 どうせなら子供たちに剣道を教えてあげようかと考えていた私は、まさかそんな光景が広がっ ているとは露も思わず、固まった。目を疑う。 あの銀髪を見間違えるはずがない。石田君だ。それを取り囲むようにして複数の男子達の姿が あるけれど、遊んでいるというには攻撃的過ぎるというか。空気がピリピリとしていた。 どうやら、殴り合いの喧嘩中だったらしい。私が聞いていたのはボールが人体に当たる音なん かではなくて、拳が腹に打ち込まれる音だったのだ。足元に紙袋が落ちていく。 逃げよう。 そう思っても足が震えて動かなかった。唯一の救いは、彼らが私に気づいていないことくらい だ。固まって動けない私をその場に残して、石田君は次々と向かってくる男を倒す。その細腕 のどこにそんな力があるのか。襲いかかってくる男をひらりとかわして間合いに入り、腹に拳 を突き入れる。あっと言う間に男は気絶、薄汚れた地面へ倒れていく。同様の攻防が二度三度 続いて私が気付いたころには石田君以外、立っている人はいなかった。男たちが全員気絶して いるのを確認して顔を上げた石田君は、そこでようやく私に気がついてぎょっとしたように目 を見開いた。 「・・・何故貴様がここにいる?」 「お、怒ってる・・・?」 「答えろ」 今日は部活はないはず。石田君が同じ町内に住んでいるとも聞かないのに、どうしてこんな変 なタイミングで出くわしてしまうんだろうか。眉を顰め、目を吊り上げて低い声で問うてくる 石田君が何を考えているのか分からなくて、私は恐怖に身を縮こませる。 口封じに、私まで気絶させられたりして。 「買い物の帰り道だったんだけど・・・。い、石田君・・・これ、何かあったの・・・?」 倒れている男たちに反して、石田君の衣服には皺一つ見られない。剣道部主将は喧嘩も強いら しい。ますます怖くなってしまい、私の声は上ずった。 「剣道部を辞めた奴らだ。私にこの間の借りでも返しに来たんだろう」 皮肉交じりに言って、石田君は「反吐が出る」と積み重なるように倒れた彼らに吐き捨てた。 しかしこの間の借りとは一体何だろうか、首を傾げる。 「って、まさか・・・この間の伊達君との・・・!?」 「それ以外に何がある」 「だって・・・!」 伊達君が、そんなことをする人だったなんて。驚きに言葉が出なくなる。石田君と伊達君に何 があるのかなんて知らない。だけど、休日に奇襲をかけるまで石田君の事を憎んでいたなんて 知らなかった。一体そこまでする伊達君の目的は何なんだろうか。 部活で大将が取れなかったからって、普通ここまではしないだろう。そんな風に考えていると 突然、横にいた石田君の体ががよろめいた。小さく呻く声が耳に入って、私は咄嗟にその細い 腕を引き寄せた。 「石田君、どうしたの?・・・大丈夫?」 「・・・大した事は無い」 「え、でも・・・」 苦しそうだよと言おうとした私を、石田君は凄い剣幕で睨んできた。蛇に睨まれたかのように 私の体はびくりと大きく跳ねて竦んでしまうけれど、すぐにそれどころではなくなった。 石田君の右手が不自然に宛がわれているわき腹が、赤く滲んでいた。 「石田君!そ、それ血・・・!!」 「喚くなッ!!傷に響く!!」 「ご、ごめん!」 血を見たことと石田君の怒鳴り声に押されて、私の鼓動は強く脈打ちだす。 刺されたんだ。シャツに真っ赤に滲む色を見ていると、見ているこちらがじっとしていられな くなる。ふらり、よたつく石田君の額を伝う汗が目に入る。 「石田君、すぐに、わ、私の家で手当てしよう・・!」 「・・・貴様の施しは受けないと、何度言えば分かる」 「でも!!」 「貴様には関係ないと言っているッ!!世話焼きも大概にしろ!!」 怒鳴り散らすけれど、今の石田君は立っているのだってやっとなはずだ。なのに何でそんなに 虚勢を張るんだろう。私は石田君の味方だって言ったのに。 駄目だ、このまま石田君を帰らせるわけにはいかない。ふらふらしているし、先ほどよりも顔 に疲れが見えてきている。こんな状態で歩けるわけがないし、やせ我慢だって限界に決まって いる。第一、剣道部の人たちにこんな目にあって。石田君の胸のうちを思うと放っておけな い。 「大事な、大会前だよ。意地を張らないで・・・!」 そういうと、石田君はほんの少し苦そうにした。 辛いのを我慢してポーカーフェイスを気取っている石田君だ。こちらが多少強く出なければず っと片意地を張って生きていくに決まっている。 そう思って、私は無理矢理石田君の腕を自分の肩に回して支えるようにした。買い物の紙袋も あるので肩がきついけれど、それくらい我慢だ。石田君はまだ何か言いたそうにしていたけれ ど、唇を噛んで痛みに耐えるのに精一杯で、とても私に反論できる力は残っていないらしい。 「ねえ石田君、親に迎えに来てもらえる?」 「・・・一人暮らしだ」 一人暮らしとは、また何て都合の悪い。このまま石田君が一人で家に帰っていたら、この傷は どうするつもりだったんだろうか。一人で病院へ行って薬を貰って、誰にも言わずに治療する つもりでいたんだろうか。それって凄く、寂しい事だ。 私の体に掛かる石田君の体重がさっきよりも重くなっていた。それに平行して石田君の息も荒 くなっていき、足取りはおぼつかない。紙袋にはところどころ血が付いていて、とても買い物 帰りには見えない。二人で家につく頃には私が石田君を負ぶっているような状態で、玄関で靴 を脱がせるはめになった。 リビングまで何とか引きずっていき、ソファに寝かせて一息つく。石田君の顔色を伺えば、目 に付くのは白く血の気の失せた頬。ぞっとして頬に手を当てれば冷たくなっている。 「大丈夫?」 「・・・・・・」 これはまずい。返事が無いことに焦りを覚えて大慌てで救急箱を探しに行く。が、箱を開けれ ば傷薬や頭痛薬が一切見つからなかった。何でこんな時に無いのだろうかと更に焦ってくる。 が、唐突に思い当たった。お父さんとお母さんだ。旅行に持って行ったに違いない。 しかし薬が無いと分かったならば、今私が石田君にしてあげられる事が無くなってしまう。ど うしよう、とりあえずタオルで傷口を拭いて止血するぐらいはしておこうか。そう思って清潔 なタオルを何枚も手にしてリビングに戻った。 「石田君?あの、ちょっと上の服脱いでもらえる?」 そう言うと、石田君は返事の変わりにシャツを捲り上げた。いきなり露になった細い腰が目に 付いてどきりとする。白さに、目が釘付けになる。って駄目だ、私は何を考えているんだろ う。それどころじゃないのに。すぐに頭を振って煩悩を消し、赤い傷口にタオルを当てた。 あまり刺激しない様に血を拭っていくけれど、思いのほか広範囲に血が付いて汚れているよう だった。 「あの、・・ごめん。やっぱり脱いでもらっていいかな・・・?」 何か、今更だけど。いくら怪我の手当てとはいえ、これはちょっと卑猥というかやばく無いだ ろうか。いや、私が言い出して無理矢理石田君を連れてきたんだから自業自得だけれども。 石田君は苦そうな顔をして眉を顰めたけれど、すぐに大人しくシャツを脱いでくれた。 ソファに座る石田君は、床に膝を付いて止血に奔走する私を見下ろしている。時折タオルが触 れるのが痛いのか、石田君が小さくうめき声を上げる以外に家の中に音は無くて。 ごくりと、唾を呑む音が響いた。どちらの音だろう。 まさか、石田君の胸まで拭くことになるとは思わなかった。というか今思ったんだけど、これ はタオルを本人に渡して拭く様に言うだけでも良かったんじゃないだろうか。なんて、今更な 事を思う。だめだ、恥ずかしい。 「ちょっと待ってて、傷薬と包帯買ってくる!」 あらかた拭き終えたら石田君にタオルで傷口を押さえておくように言って、財布だけ掴むとサ ンダルを引っ掛けて外へと駆け出した。あの空気は耐えられない。走る私の心臓はうるさく鳴 り響く。 そうだ、なにか石田君が新しく着る物が必要だ。さっきまで来ていた服は血が付いてしまって もう着れそうにないし。街灯が灯る。月が見える。そういえばもういい時間帯だった。時計が 手元に無いから良く分からないけれど、この分だと石田君の夕飯も買ってあげた方がいいかも しれない。というか今日はもう、とてもじゃないけどあの傷で家には帰れないだろうし。 確か日曜日も診療をしてくれる良心的な病院が近くにあった気がする。明日は朝一番にそこへ 石田君を連れて行こう。大会に支障が無い程度の怪我ならいいんだけれど。 ああ、何だか大変な三連休になりそうな予感がした。