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好きって、言ってくれたのになあ。なんて唐突にそんな事を考えたら体が動かなくなってしま った。今から剣道部の手伝いに行かなきゃ行けないのに、このままじゃ遅刻してしまう。 だけど体育館へと向う私の足は教室を出て50メートル行った廊下で止まってしまって、動く 気配が全く無かった。 家康からは授業中に私の方を気にしているような視線を何度か感じはしたけれど、結局一度も 話しかけて来る事はなかったし。私がつんとしてそっぽを向いていたから話しかけ辛いのもあ ったんだろうけど、それにしても私は彼女としてその程度だったのかと惨めになる。 一人にして欲しいと書いて置いてきたメモ。一方的に拒絶したのは私だけど、それでもやっぱ り、追いかけて来て欲しかった。 「・・・さん?」 「あ、鶴ちゃん。・・・どうかした?」 「いえ、落ち込んでいるようだったので・・・。大丈夫ですか?」 「うん、平気。朝よりは良くなったよ、ありがとう」 嘘だけど、そう言って笑えば鶴ちゃんは少しほっとしたように笑った。今から帰るところだっ たらしい。廊下の窓から差し込む夕日を受けて只でさえ寂しそうに見えるのに、鶴ちゃんの心 まで私の憂鬱な気分を移してしまうわけにはいかない。 「ちょっと緊張しちゃって行くのが嫌になってたんだよね」と言って苦笑いを零してその場の しんみりとした雰囲気を誤魔化すように笑った。 「そうだったんですか、じゃあ入り口まで一緒に行きましょうか?」 「んーん、大丈夫。鶴ちゃんと話したら勇気湧いてきたから行ってくる」 「そうですか?なら、無理はしないでくださいね」 「うん、ありがとう。じゃあまた明日ね、鶴ちゃん!」 「はい、また明日です!」 手を振って別れる。私にはこんなにいい友達がいる、そう思うと心がほんの少し前向きになれ た。だから私も鶴ちゃんに背を向けて歩きだす。 バサラ学園には授業で使われる体育館に隣接してもう一つ、部活動専用の体育館がある。剣道 場が一階に、柔道場が二階を割り当てられていて、私が行くのを躊躇している理由はそれだっ た。その体育館に通うようになることで、柔道部の人と顔をあわせるかもしれない。家康とば ったり出くわす可能性があった。でもそれは、仕方が無いことで。 体育館の入り口のドアを引く。冷たくて静かな雰囲気が漂う中で靴を脱ぎ下駄箱にしまい入れ る。引き戸を開けて中へ入ると、瞬間、道場の汗の混じった熱気が襲い掛かってきた。胴着に 身を包んで対峙しあう生徒達の竹刀のぶつかる音が反響しあっていて、汗と凄い熱気に混じっ て何ともいえない雰囲気が漂っている。男臭いというか、だけどそれは青春という感じにもと れる。少し唖然としたものの、気を取り直して知った姿に向って歩みを進めた。 「竹中先生」 「ああ、君。来ないのかと思ったよ」 私の声に振り返った竹中先生は、にっこりと微笑んだ。それを見て私は瞬時に凍りつく。 笑顔で遅刻を責められている、竹中先生の制裁の怖さを噂に聞いていたのを思い出して、臆病 な私はすぐさま頭を下げて謝った。竹中先生はそんな私の慌てた様子を見て「嘘だよ、気にし ていない」と可笑しそうに笑って顔を上げるように言ったけれど、半端なく怖かった。でも一 応大目に見てもらえたってことでいいのだろうか。反省文の代わりに、竹中先生には働いて返 した方がよさそうだ。 「先生、私は何をすれば・・・?」 「ああ、君には主に、彼のサポートをして貰いたいんだ」 「彼・・・?」 竹中先生の視線の先を辿る。何人かいる生徒達の誰を言っているのか。本当ならあのごちゃご ちゃした中から生徒を特定する事なんて出来ないのに、私はどうしてか直感で、竹中先生が誰 をさしているのか分かってしまった。 「あの、た、竹中先生・・」 彼は、嫌だ。 そう言いたかったけれど、隣にいた生徒の一人が笛を吹いたために私の言葉が口から出る事は 無かった。笛の音は休憩の合図だったらしい、打ち合っていた生徒達が一礼して部屋の隅に置 かれた自分達の鞄へと戻っていく。どうするでもなく唯その光景を見ていると、竹中先生が言 った。 「ほら、ぼさっとしていないで彼にタオルでも渡して来てあげたまえ」 「え、は、はい・・・」 どうして私なんだろう、嫌だ。竹中先生もわざと言ってるんじゃないだろうかと疑いたくなっ てくる。だって、よりによって。 「あ、えっと。石田君・・・?」 口がカラカラに渇いていく。何とか声を絞り出してその後姿に声を掛けると、振り向いた鋭い 瞳は少しの驚きに開かれた。だけどすぐに、私から顔を反らして歩き出してしまう。 いけない、竹中先生が見てるのにここで諦めたらまた何か言われてしまう。 「あ、ねえ!これ、水・・・!」 「貴様の施しなど受けるか」 勢い良く一度振り返ったかと思うと、石田君はぴしゃりと低い声で言い放った。 私達の間に漂う雰囲気は、その一言で一気にぴりぴりとしたものに変わっていって、勘のいい 周囲の生徒が私達のやり取りに気づいて不思議そうな目で見てきた。 何で私、石田君にここまで嫌われているんだろう。石田君の言葉が、私をみぞおちを殴られた ような気分にさせる。睨んでくる瞳が怖くて、立ち竦む。 「ご、ごめん・・」 行き場のなくなった手を下げる。受け取ってもらえなかった、水の入ったペットボトルがやけ に重く感じられる。石田君はまだ私を見ていた。 私の言葉を待っているのかもしれないけれど、もう何も言う事が無くなってしまって、私は唯 無言で石田君を見返した。石田君の目は冷たく私を見下ろす。 「ごめんね」 家康と付き合う私が嫌いなんだ。多分そうだ。でも私、今は家康と上手く行ってないから、こ んな風に冷たくされる理由は無いような。何だか、石田君を見ていると泣きそうになった。 何でだろうか、これって石田君にとってはいい迷惑なはずだ。だけどどうしても視界が揺らい でしまうのを抑えられない。 「・・・ッ!」 その瞬間、石田君の歯が小さくぶつかる音が聞こえた。動揺は、私の涙が原因らしい。 周囲の生徒達の視線があるので私は急いで制服の袖で涙を拭うけれど、拭って拭っても涙は止 まらなくて、むしろ悪化していく一方で、とうとう「石田が女泣かしてる」なんて周囲から聞 こえてくる始末。悪いのは勝手に泣き始める私なんだけど、それを伝えたくても喉から出るの は嗚咽だけだった。何てうざったい女だろう、私。 「・・・ご、ごめん・・・!」 石田君も呆れてるに違いない。私も何でこんなところまで来て泣いているんだろう。 これじゃあ此処にいる皆に迷惑を掛けるだけだ。こんなことなら初めからマネージャーなんて 向かない事は引き受けるんじゃ無かった。明日、竹中先生に改めて断りに行こうか。なんて考 えていると頭上から声がした。 「君」 「・・・せ、せんせい?」 騒ぎに気づいてやって来た竹中先生が何時の間にか私の隣に立っていた。泣いているどうしよ うもない私の頭にぽんと手を乗せて慰めるようにしてくれる。無理を言ってごめんという意味 に取れたけれど、悪いのはそんな簡単な仕事もこなせない私であって先生は私と石田君の仲を 知らなかったんだから謝る必要は無い。遅刻をして来たのに、それを働いて返すことも出来な い私。もう全てに申し訳なくなってきて顔を伏せると、先生が石田君に向って言った。 「三成君、今日はもう帰りたまえ。君を家まで送って行くように」 詩でも紡ぐような流麗な言葉。石田君の貴重な部活の時間を割いてしまうことになるので絶対 に嫌がると思っていたのに、意外にも石田君はすぐに竹中先生に返事をした。 「・・・はい」 嫌がっているように聞こえなかったのは、どうしてだろう。 竹中先生だからだろうか。 -- 「泣くな」 石田君の着替えを待って玄関で待ち合わせをした。着替えを終えてやって来た石田君は、まだ べそをかいている私に靴を履き終えると開口一番、そう冷たく言い放った。 「ごめん、もう泣き止むから」 さっきよりは落ち着いてきた。もう大丈夫と自分に言い聞かせるように一度大きく息を吸うと 嗚咽交じりになってしゃくりあげるようになってしまったけれど、気持ちはすっきりとした。 行くぞ、という石田君の声に返事を返して校舎を出る。 「ごめんね。部活の途中だったのに・・・」 「そう思うならば、泣くな」 尤もだ。ぐさりと突き刺さる言葉に私は顔を俯ける。石田君の言葉はいつも直球過ぎて、私に は少しきつい。でも、私が泣いたのは、きっと石田君の忠告が本当になったからで。 「あの時、石田君の言った言葉が本当になったから・・・」 家康が、人を裏切るとかありえない。それは勿論正しかったけれど、でも私にとっては裏切り だった。家康には悪気も自覚も無いだけに、責められないのがまた性質が悪いけれど。 石田君は正論を言っていたんだなあと思う。肯定したくなかった。でも、認めるしか無い。 「泣くな」 気づけば、また泣いていた。私は何度、石田君の前で泣くつもりなんだろうか。 「女の慰め方など、私は知らない」 「うん、そんな感じ」 ふっと笑う。家康とは正反対の性格だし。なんて思っていると次の瞬間、私の左手にあった鞄 が無くなった。見ると、石田君が持っていてくれた。向こうを向いたままでこちらを振り返り もしないけれど、彼なりの今できる不器用な優しさだった。 学生鞄に加えて部活で使う鞄も持っているのに、私の分まで。細い石田君に悪い事をしてしま っている気分になる。こんな風に気を使わせてしまうなんて、そんなに私は哀れに見えたのだ ろうか。 「泣き止め」 「ごめん」 「泣くな」 「ごめんなさい・・・」 ごめん。泣くな、ごめん。その繰り返し。 石田君って家康と似ている気がした。どうしてだろう、嫌な事を言うし外見だってどこも共通 点なんかないはずなのに。だけど石田君に冷たくされると家康に冷たくされているみたいに感 じるし、やってることは同じに思える。裏表で繋がっているような。 泣くなと言う割りに、石田君の声は私を責めてはいない。鞄を持ってくれている優しさに甘え て、私は空いた両の手で涙を拭った。曇りのとれた視界に映る石田君の背中は少しだけ、優し く見えた。 「ありがとう、石田君。石田君って優しいね」 返事は無いけれど、拒絶もなかった。