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「どう、したの・・・・?」 きっと声が震えてしまうだろうと思った。だから情けなくならないようにと意識して力を込め たら、逆に喉が引きつって変なところで息が切れてしまった。結局みっともないその声は動揺 していることを露呈して石田君に伝えていたけれど、だけどそんな事は、石田君にはどうでも よさそうだった。無言と鋭い瞳が、痛い程に私を批判する。 「何故家康といた」 「あ、・・・え・・・っと」 どう話そう。幾日か前に家康と仲直りをしたことからか、それとも今さっき一緒に帰っていた 理由を言うのが先だろうか。こちらを睨む石田君の鋭い瞳に怖気づいてしまって、そんな事も よく考えられない。目の前の石田くんは怒りをかろうじて抑えたかのような低くて、だけど穏 やかとも取れる声で私に問う。それは私の答え方次第でどうとでも変る嵐の前の静けさによく 似ていた。石田君の足が一歩また一歩とこちらへ近寄る。その分、私の足は後ずさる。 「聞いている。答えろ」 じゃり、と石田君の革靴が玄関の敷石を踏んだ音が大きく耳に響いた。よりによって最悪のタ イミングで出くわしてしまった。私の頭は未だその事にとり憑かれているせいで、そこから先 へ考えを進めようとしてくれない。石田君の目から視線を外せないまま、一進一退の状況が続 く。 「あ・・・えっと・・・」 とりあえずは石田君の勘違いだ、ということだろうか。だけどそう言おうとしてすぐに押し留 めた。勘違いではない。勘違いというのは私と家康の仲が喧嘩をしているままで今もそうだっ たら言える言葉だ。この場合、私は家康と仲直りをしているから石田君の勘違いではない。 怒るのは正当なことだ。じゃあ、だったら私はどう言えばいいんだろう。答えるにしても此処 では考えがまとまらない。 「あ、と、とりあえず中に入ろう?」 そう言うのが精一杯で、石田君の返事と反応を見る前に鞄から鍵を取り出してドアへと駆け寄 った。毅然とした石田君の横を通り過ぎ鍵穴に鍵を差し込み開錠する。ドアを引いたら、どう ぞと言って石田君を振り返る。それを受けて迷いなく進み出た石田君が家の中へ入ったのを確 認して私も玄関タイルを踏んだ。だけど、石田くんは中に入った所で靴を脱ぐ事はなく、狭い 玄関で私を振り返った。電気もついていない薄暗い、湿ったような空気の中で私を至近距離で 睨む。 「・・・貴様も結局、私を裏切っていたのか」 「え・・・・?」 呟く声は小さくて、私の耳に最後まで届く事はなかった。結局・・・なに。しかしとても聞き 返せる雰囲気ではなく、私はうろたえるしか出来ない。背後の冷たい鉄のドアが背中に当たる のを感じた時。 バンッ!! 私の顔のすぐ横を、石田君の手が叩いた。ドアの衝撃音と私の鼓動が共鳴するかのように跳ね 上がり、頭が真っ白になる。驚きを反応にする事も出来ず呼吸も出来ない。 「貴様も私を裏切っていたのかッ!!!!」 「ち、ちがっ」 「では何故家康と会っている!?何故私を、秀吉様を、貴様を裏切った家康と未だに会ってい  る!!?答えろッ!!!!」 射殺すかのようにして睨んでくる瞳にあるのは私への激しい怒り。それは憎しみに変る寸前の 怒号と共に答えない私を責めた。答えたいのだが声にならない。考え事を上手く言葉に出来な い。現状あるのは、私がしていた事が全て石田君を傷つける事になってしまったという事実と 結果だけで、何をどう説明して納得してもらえばいいのか思い浮かばない私に出来ることは、 ただ思った事を口にするだけ。 「ごめ、・・・・なさ・・、そんなつもりじゃ・・・」 「では何だ。貴様は私を哀れに思い同情して世話を焼いていただけだと言いたいのか!?」 同情?違う。それは全く違うはずだ。伊達君がやめて少なくなった剣道部、それでもと頑張る 石田君を支えたいと思って私は。竹中先生がそう言ったのもあるけれど、町で襲われて怪我を していた石田君を見たときに、私自身がもっと支えになってあげようと自分で決めた。 だけど、これを同情というなら、そうなのだろうか。同情とは何だろう。同情?私のこれこそ が同情というお節介なのだろうか。自信がなくなってくる。 「私の、この思いは・・・・!!」 私の気持ちを代弁するかのようにして、石田君が先に口を開いた。眉間に皺を寄せ、苦しそう に私を見る。それは先程の怒りではなく、また別の何かの感情を湛えている。この思い、とは 一体何のことだろう。今までお節介を焼いてくれた私への、一応の感謝の気持ちの行き場を言 っているのだろうか。良く、分からない。先程強くドアを打った彼の手が、迷う私の頬にあて られた。そっと添えるような手つきは恐々としていて、とても石田君らしくない。 寂しそう。 そう思った。凍てついていた雰囲気が、空気が変わるのを感じる。鶴ちゃんがいつか教えてく れた言葉が頭に蘇る。石田君のこの表情が私にそれを確信させた。だけどそれに呑まれてはい けない。その理由を私は知っているし、石田君だって自覚はなくとも。鼻先が触れそうな距離 になって、私は石田君の肩に手をやって突っぱねた。 「石田くんは、私の事を、好きじゃないよ」 そこで、初めて石田君の瞳が驚きに見開かれた。 先程までしどろもどろだった私が言葉を違えずしっかりとした様子で言うのが驚きなのかもし れない。私自身驚いている。だけどこれだけは絶対に、そうだと言える自信があるし確信があ る。それが私をこうさせているだけだ。石田君の様子が変らないうちにと、鞄から未だに抜い ていなかったそれを取り出す。 「ごめんね、これ、やっぱり受け取れない・・・」 ペンダント。もっと早く、返しておくべきだった。私と石田君の間にぶら下がるそれは貰った 当初から鈍く光っているままだ。鞄でもまれたせいか、チェーンが少し絡まっていたけれど少 しやればすぐにほどけるだろう。おそらく。私がもっと早くにこれを受け取ることの意味に気 がついて、返していれば良かった話なんだけれど。そうすればこんな事には。 「返すね・・・・」 彼の瞳が、揺らいだ。弱ったような翳りが見える。 それを目にして、私の心臓に亀裂が入るような痛みが走った。伊達君や彼らがしたように、形 は違えど私もまた、結局石田君を拒絶したのだ。そのことにこれ以上石田君の顔を見る事が出 来なくなって顔を伏せた。足元に広がる無機質な灰色のタイルで視界を覆いつくされる。 「そんなことで済むと思っているのか・・・!」 揺れた瞳はどうなっているだろう。その声は悲痛で、下を向く私のつむじから足の先まで、私 の全てを動揺させた。私には非がある。責められるのは分かっていた。怒りならば甘んじて受 け入れることにしよう。そう思い目を伏せたとき、ぼそりぼそりと、何かが耳を掠めた。 「家康家康家康・・・!!」 「・・・!」 石田君の声だった。異常なまでに繰り返されるそれに恐怖を覚える。顔を上げると、同じよう に俯いている石田君の頭が丁度目の前にあった。前髪に覆われて表情が分からない。だけどす ぐに、俯けられていた顔が上がって私と5センチも無い距離で目をあわせられた。 「家康、家康家康・・・!!!いつも、いつだってヤツが、家康がッ!!!私の全てを邪魔す  るッ!!!!」 「ひっ・・・!」 恐怖に息を呑んだ瞬間、唇に痛みが走った。かじり取られるかのようにして口付けをされたせ いだった。ぬめっとした、だけど柔らかい感触と、生暖い温度は石田君の血色の悪い唇からは 想像が出来ないほどに不釣合いで。いきなりの行動に反応が出来ない。唇の真ん中に尖った異 物を感じて、血の味が口内に広がる。噛まれた。 恐怖と不快感で身動きが取れなかった私も、これに弾かれたかのようにして気づき、すぐに手 で抵抗を始めた。石田君の肩を押しやり身を捩る。だけど所詮女。すぐにその手を捕まれ呆気 なく再度口内への侵入を許してしまった。頭がパニックになりどうすればいいのか分からな い。太ももの間を割って入る石田君の膝にこのまま行けばどうなるか、すぐに予想が行く。 「やめてっ・・・・!!」 それを最後に舌を取られた。嫌だ。石田君じゃない。再び、今度は渾身の力で手を振り回して 拘束を解こうと試みる。だけどやっぱり外れない。その間にも口付けは止まなくて、段々と涙 が出てきた。どうしようもない恐怖と絶望。もう駄目かもしれない、視界が滲んでぼやけてき た時、スカートではない何かが足の内側を這うのを感じた。指、だった。驚きに身を硬くする 私。段々と上へ登ってくる、それ。いやだ、・・・いやだ、いやだいやだいやだいやだ!!! 「っ・・・!!!!」 私の片手を解いたのが原因だ。腕一本だったら女の力でも何とかできる。舌の痛みに手を当て て呻いている隙に、私はドアを開けて外へと駆け出した。何も考えずにひたすら逃げて逃げて 逃げて後ろを振り返らず横も見ずにただただひたすら足を前へ動かした。力尽きて足が笑い膝 が崩れ落ちるまでになってようやく、私は自分が公園に来ていることに気がついて息を吐く事 が出来た。 「・・・・・・う、あ・・・!」 声が出ない。ここに来るまで、走っている最中に見たものの記憶が無い。だけど体は、触れら れた感触を鮮明に覚えていた。気持ち悪い。気持ち悪い。内から怒涛の勢いで溢れてくる何か に押されて、私はポケットに入れていた携帯電話を取り出してかけた。 二回目のコールで相手の出る音が聞こえて、一方的に口を開いた。 「い、いえやすっ・・・!!家康・・・!!」 「・・・?どうした!?」 家康の声を聞いたら涙が溢れてきた。安心しただけではない、別の何かがない混ぜになって張 り詰めていたものを解いていく。電話口でむせび泣く私を心配して何か言ってくれる家康だっ たけれど、私の頭に聞こえるのは今になって去り際の石田君の声だった。 『・・・行くなッ』 明日は大会なのに。 結局酷いことをして傷つけてしまった。最後に家を飛び出してくる間際に見えた石田君の縋る ような顔が忘れられない。だけど、石田くんは私を一度だって名前で呼んでくれたことは無か った。今さっきだって。それはつまり、私を通して家康を見ているからであって、家康の事し か見ていないのだ。私の事なんて好きではない。 「迎えに行く、今どこにいるんだ!?」 私の頼みの綱は、一度は私を裏切った家康だった。