-11-
我が家の朝はトーストに好きなものを塗ったり乗せたりするものだ。飲み物はコーヒーとか紅 茶とか適当に。簡素だなあとは思うけれど、どの家もこんなものだと思う。うん。 黙って食べ終えた石田君に、昨日干して乾いたシャツを渡して着替えて貰い、10時前には家 を出た。早く行かないと病院は混んでしまう、石田君は待つのが苦手そうだ。 「石田さーん、中へお入りくださーい」 「あ、はーい!」 ナースさんに返事をして急いで立ち上がる。でも良く考えたら見てもらうのは石田君なわけ で、診察している間に私が側に居てもいいものなのか。邪魔になるだけのような気がする。 なので石田君にここで待ってるねと言って、診察室へ向う石田君の背に手を振って見送る事に した。でも残されるとそれはそれでやる事がなくなってしまう。何か無いだろうか。つい癖で 携帯に手が出てしまう。開いてみて、とりあえずいじって見るけれど。 そういえば此処は病院だからマナーモードにしておかなきゃマズイかも、なんて閉じようとし た時。最後に確認で開いたメールボックスに、受信一件の表示があった。眉を顰める。送られ てきたのは今日の午前9時過ぎ。家を出るちょっと前だ。親指で決定ボタンをを押せば、おは ようというタイトルに「今日は無理か?」という一行の本文。言うまでもなく、差出人は家康 で。ああ、どうしようかともやもや、清々しい朝の気分が台無しになっていく。 「おい」 はっとして顔を上げる。石田君だった。もう診察が終わったのか、ちょっと早過ぎ無いだろう かと思ったけれど、実際はそんなものかもしれない。携帯を閉じるのではなく電源を切って鞄 に入れる。目の前に立つ石田君を見上げて言う。 「お帰り。どうだった?」 「全治二週間、大会は出てもいいが無理はするなだと」 「あー、やっぱりかあ。・・・でも石田君、絶対無理するどころか全力出すよね」 「当然だ。手抜きなど許されない」 「だよねー・・・」 それが一番心配なところなのに。まあ言っても聞かないだろうから、後は周りのサポートしか ないだろう。せめて大会までの練習で無理をしないように適度なところで休むように言って。 包帯もまめに取り替えなきゃいけないから、もっと買っておいた方がいいかもしれない。 「石田さーん、お会計です」 「はーい!あ、石田君。払っとくから外で待ってて」 鞄から財布を出して立ち上がる。石田君は何も言わずに背を向けて病院の出口へと歩いていっ た。それを確認して、私は会計カウンターへと向う。ぱぱっとお会計を済ませて、病院に隣接 する薬局で薬を受け取ったら、それを石田君に渡して今日の用事は終了。自動ドアの開く音と 共に、二人で並んで薬局を出る。 「もう12時半だよー。病院って時間かかるね」 「無駄な待ち時間が無ければ10分で帰れたものを」 「本当にね。でも午後だったらもっと混んでたんだよ。怖いよねー」 日曜日も診療を行っている病院とあって、朝早くから激混みすることで有名だ。一時間以上か かったとはいえ、今日は早く終わった方だし。まあ石田くんは待合室で名前を呼ばれるのを待 っている間も苛立たしそうに殺気を放っていたけれど。小さな子供がいなくて良かった、絶対 に石田君のあの顔を見てたら泣いてたと思う。 時計をもう一度見て、時間を確認。 「どこかでお昼でも食べてく?」 「私に振るな」 「冷たいなー。甘い物が食べたいとかないの?」 「幼稚な甘味は貴様にこそ相応しい。第一私はまだ腹が減っていない」 「うーん、まあ朝ご飯食べたの9時半くらいだったしねー・・・。どこかで時間潰す?」 「潰すくらいならば家に帰れ。文字通り無駄以外の何ものでもない」 「もうばっさり・・・夢が無い」 家に帰ってもする事が無いからこうして外で遊んでいこうかと考えているのに。第一、今日は この後もう、石田くんは帰ってしまうんだろうし。少し寂しいような、石田君が心配だから一 緒にいてあげようかなと思っているのに。じゃああれだ。ここは近くにある神社に大会の必勝 祈願にでも行こうか。なんて考えていると、突然石田君がおい、と言って何やら躊躇いがちに 口を開いた。 「なに?」 「欲しい物を言え」 「欲しい物?私の?」 「貴様以外に誰がいる」 「そ、そうだけど・・・。えっと、私の欲しいもの・・・?」 欲しいもの。そんな急に言われても思い付くわけが無い。第一歩いている最中に頭を回して考 えるのだって困難だ。うーんうーんと悩んでみるけれど一向に浮かんでこない。大体何で石田 君も急にそんな事を言うのか。聞いても教えてくれなさそうだから言わないけれど。 「それって小さいものでもいいの?」 「好きにしろ。欲しいものだ」 欲しいもの。じゃああれだ。駅前に新しく出来たケーキ屋のナポレオンパイとか。鶴ちゃんと 今度行こうねーと言ったっきりまだ約束が果たせていなかったから、それとかどうだろう。 あるいは何か、他に楽しそうなものは無いだろうか。周囲を見渡してみる。駅に近づいてきて 店が増えてきたので見るだけでも楽しいガラスケース、ショーウィンドウに映る洋服やお菓子 の数々。ああいうのでもいいかな。でもせっかく石田君といるんだし、やっぱり一緒に楽しめ る物がいいかな。なんて目移りしていた視線を進行方向に戻した時、見知った姿が目に飛び込 んできた。本当に、偶然だったんだけど。 「あれ、家康、だよ、ね・・・・?」 確認で言ったかのような私の呟きは、震えていた。石田君も家康に気がついた。 だけどどちらかというと私の方が気になったらしい。足を止めて視線を私の顔へと向けてく る。以前見たときよりも遥かに距離があるけれど、間違えるはずが無い。あれは家康だ。隣に はやっぱり女の子の姿があった。前回と違って家康と女の子は腕を組んでもいないし笑いあっ てもいないのが幸いだろうか、・・・なんて、嘘。胸が痛くて死にそうだ。 「オイッ!!」 走っていた。 一秒して石田君の呼び止める声が背後からしたけれど、振り向くこともスピードを緩めること も考えなかった。今止まったら地獄に落ちるような、殺人鬼にでも掴まって殺されてしまうか のような思いでとにかく走った。ヒールが足の裏を痛め付ける。 家康。そうか、どうして気づかなかったんだろう。家が近いんだから、会う可能性なんて十分 すぎるほどにあったんだ。今まで会わなかっただけ奇跡に近い。 -- 「入るぞ」 部屋の鍵を開けっ放しにしておいた。迂闊だった。というよりは、それに構っている余裕すら 無かったの方が正しいけれど。口元まで垂れてきた涙を袖で拭う。 部屋に入ってきた石田くんは私のすぐ背後まで来て、そこで立ったままでいるようだった。私 は机に顔を伏せているから、いまいち石田君の様子は分からないけれど。息が荒れているか ら、あれから走って追ってきてくれたのだろう。 「・・・帰っていいよ。ごめんね、急に置いていっちゃって」 声が震える。もう私は泣くだけだから、石田君がここにいてもうざったく感じるだけだ。病院 にも行って、やることはやったし、もう十分だろう。元々荷物は無いんだから、あとは靴を履 くだけ。そう思っているのに、石田君の気配は中々消えなくて。 「どうしたの?忘れ物は無いでしょ?」 これ以上は嗚咽が混じってくるから喋れない。私が石田君に背を向けている間に早く部屋を出 て行って貰いたい。なのに石田くんは、目敏く私が手にしていたそれに気がついてしまった。 ちゃり、と。私の手の内で小さくぶつかる音を聞いて足を止めた。暫く、沈黙が続いた。 「馬鹿みたいでしょ、家康にって、買ったの。でも、もう、要らなくなっちゃった・・・」 シルバーペンダント。私が部屋に逃げ帰ってきて机で泣き始めてすぐ、その存在に気づかされ た。そういえばあれからずっと机の上に放置していたのだ。こんなところでその存在を思い出 させられることになるとは。思い出の品は長く持っているべきじゃないと思った。 石田くんはまだ帰らない。立ったままで、良く分からない。出て行けばいいのに。こんなふら れた女の泣き言を聞くのなんて煩わしいだけだろうに。でもよく分からないのは私もだ。 べらべらと、口が勝手に動く。 「家康は、ああだし、私も、何か言いたい事言えないまんまで、馬鹿みたい・・・!!」 今日、もう一度見て分かった。私が嫌だったのは腕を組む家康が笑っているところで。私に腕 を組むのが普通といったことや、そういう誰に対しても優しいところが嫌で怒っているんじゃ なかった。ただ、とにかく家康が私以外の女の子と微笑んだりしているのが嫌だったんだ。 「好きだから・・・上手く言えなくて、渡したいけど、今更になっちゃって・・・!」 好きだから嫌われたくなくて、強く指摘できなくて放っておいてしまった。そしたら、ずるず るとそのまま行って今日になってしまって。せめて学校で席が隣同士のままだったら、まだこ んな気まずい思いはしなくて済んだかもしれないのに。例え喧嘩の最中だったとしても、授業 で何かしら話さなくてはいけなくなっただろうから。そしたら多分、すぐに嫌なことも忘れて また元通りになれた気がする。分からないけれど、少なくとも家康が他の女の子といるところ を何度も見せられる羽目にはならなかったはずだ。恋愛はタイミングだって言うけど、本当に そうだ。 「もういや・・・・・!!どうしよう・・・!」 昨日と今日と。今の私にはメールが来てしまっている。 実は密かに期待していたりもした。もしかしたらワシが悪かったなんて家康が言いに来てくれ るのかもしれない、なんて。だけど本当のところは分からなくて、私自身まだ気持ちの整理が 付いていなかったから会うのは断った。 だけど今日の様子からすると、私の予想とは正反対のようじゃないか。胸の奥にあった別れを 切り出されたらというもう一方の勘が当たっていたのだ、結局。だけど、私はまだ、家康が好 きなのに。別れたくないのに。 「別れろッ!!!!」 破裂しそうな程の声に、思わず伏せていた顔を上げてしまった。部屋を破壊しそうなほどの急 な怒声は背後からの石田君からで。殺気すら込められているような剣幕に、思わず涙も引っ込 んでいく。彼の方を振り向こうとして、振り向けなかった。きつく、とてもきつく背後から抱 きしめられていた。 「ヤツは・・・、家康は裏切り者だッ!!もう信じるな!!」 何故、石田君に抱きしめられているのだろう。ああ、でもそういえば石田くんは家康を嫌って いたような気がする。そう言っていたのを、思い出した。 「私は裏切らない。・・・決して、裏切りはしない」 私の首筋に顔を埋めて、石田君が言った。私に言っているというよりはまるで自分に誓うかの ような言葉に聞こえるけれど、家康と過去に何か、あったのだろうか。 ぼんやりと涙に沈む視界。体に回された腕はとてもきつくて、抱擁というよりは緊縛に近い気 がした。と、突然手から何かがすり抜ける感触がして、それと同時に耳元で声がした。 「これは私が貰う。家康ではなく、私が・・・」 私の手から無くなっていたのは、家康の為に買ったペンダントだった。 いいのだろうか、それは家康の為に、私が選んで買った物なのに。そう迷っている間にもホッ クを外した石田くんはチェーンを首に回した。細長い指が流れるような動きでそれを扱う様子 は、まるで一枚の絵のように綺麗だった。家康の為に買ったシルバーペンダントは、石田君に よく似合っていた。彼のために買ったのかと錯覚するほど、皮肉にも。 家康の代わりに石田君がそれを身につける。それには、一体どういう意味があるんだろうか。