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コンクリートに散った桜を踏む。革靴の底が汚くなりそうだと思ったけれど、新品の靴では無 いから気にしない。でも心は何だか新しい。今日から一年間お世話になる教室のドアを横にス ライドすれば、私よりも早く来ている生徒の姿がまばらにあった。 「お、ワシの隣はか」 低くて、だけど耳に心地よく響くその声。どうやら私と彼は隣同士らしい。黒い短髪を目印に その席へ向うと、すでに座っていた彼が私を見て笑った。 「徳川君?だよね。私の事知ってたんだ」 「ああ。さっき配られた生徒一覧表を見てな」 「あれか」 校門前で配られていたやつだ。新しいクラスと隣の席の人を確認したらすぐに鞄に入れてしま ったけれど、見ておいてよかった。徳川家康といえばこのバサラ学園の生徒会長で、知らない 人は居ないほどに有名だ。まさかそんな有名人を未だに名前でしか知らない人間がいるなん て、本人も思わないだろう。事前に確認しておく事の大切さを知った。 「えーと、徳川君」 「家康で良い。ワシもと呼ぶ」 「そっか。じゃあ家康、これからよろしくね」 軽く挨拶をすると、家康はニカッと効果音が付きそうな笑みを浮かべて「ワシの方こそ」と言 った。その笑顔の爽やかなこと。 家康は確か生徒会長をしている。もしかしたらこの笑顔で生徒会選挙に勝利したんじゃないだ ろうか。それぐらいの威力を持った笑顔だった。大きな体にあった大きな器をしてそうだし、 頼り甲斐もありそう。加えてイケメン。人当たりがよさそうだから、喋りかけてみても良いか な。でも馴れ馴れしいと思われたりして。そんなことを考えていると、ガラリと豪快な音を立 てて教室のドアが開いた。新しくこのクラスを担任する先生だった。バッドタイミング。家康 とおしゃべりをしてみたいと思っていた矢先だったのに。私は渋々、体を教卓の方へと向け直 した。隣を盗み見れば、家康の鼻筋の通った横顔が見える。ちょっと体格のいい爽やかなイケ メン男子が私の隣に一人。高校最後の年、始まりの一日としては悪く無いスタートなんじゃな いだろうか。なんて内心ガッツポーズをした。 -- 次の日。 始業式を終えればこれまでの二年間の日々に戻るだけだった。わくわくとした昨日の高揚感も すぐに消え去って、初日から六時間フルでの授業が生徒を待ち構えていた。私のクラスにいた っては一時間目から体育という鬼畜っぷり。寝坊をして朝ご飯を食べてこなかったから只でさ えフラフラなのに、バスケットボールなんてハードな種目を前にして今にも体は倒れそうだ。 空きすぎて気持ち悪くなったお腹を摩りながら、お昼ごはんをお腹一杯にほうばる空想に浸る ばかり。末期だと思う。 「!」 「あ、家康」 体育館を二つに仕切るネットの向こう側から聞こえた笛の音と、家康の声。どうやら同じバス ケをしていた男子の方は一足早く休憩になったらしい。ネットの手前までやって来た家康は、 こちらに片手を振った。その額には薄っすらと汗が浮かべられていて、イケメン家康の男らし さに磨きを掛けていた。普通なら汗臭い男子はマイナス点のはずなのに。 先生が見ていないのを確認して、私はそそくさと家康のもとへ歩み寄る。何か用かと声を掛け る代わりに首を傾げてみた。 「顔色が悪そうだぞ。大丈夫か?」 「そうかな?平気だよ」 「ならいいが、無理はするな」 「え、う、うん。ありがとう?」 なんでそんな事を聞かれるんだろう。それとも朝ご飯を食べていない私はそんなに悲愴な顔を していたんだろうか。家康は「邪魔をしたな、頑張れ」と言って元来たネットの方へと踵を返 してしまった。え、あれ。 それだけ言いに、わざわざネットを越えて私のところまで来てくれたんだろうか。昨日初めて 会って挨拶程度の会話を交わしただけの相手なのに。優しくしてくれるのは嬉しいけど、こっ ちは変な期待をしてしまいそうだ。「どこ行ってんだよ家康」と男子コートの方から聞こえて くる威勢のいい声の数々に私の心臓はどきどきとしてくる。 やっぱりあの性格じゃ、友達も多いんだろうな。一回高鳴った胸を落ち着かせるようにシャツ を握り締める。男子コートの方を見ると、目が合った家康が片手を上げて小さく笑った。 見られてる。何でこっちを見てるんだろう。私の事、好きなのかな。なんて。自意識過剰はい けないけれど、見られてると思ったら意識してしまって顔に熱が集まっていった。何なんだ、 もう。 「徳川と。お前ら二人は今日日直だから、日誌を書いてから帰るようにな」 六時間全ての授業を終え、やっと帰れると思っていた矢先。帰りのホームルームで先生が私と 家康を指名した。今初めて知ったその情報に「え!?」と抗議の声を上げたけれど、先生は知 らんぷり。面倒くさい・・・と眉間に皺を寄せると、横の家康も同じだったらしい。 「参ったな、部活がある・・・」という呟きが私の耳に入ってきた。私は帰宅部だからまだい いけれど、家康は生徒会と部活を兼ねているらしいから、大変そうだ。 「あの、さ、家康」 「ん、どうした?」 「日直は私がやっとくから、家康は部活に行きなよ」 「がか?いや、しかしそれでは」 「気にしないで。その代わり家康は部活を頑張って。三年だから今年で最後でしょ?」 「・・・分かった。頼む」 「うん、いってらっしゃい」 最後まで家康は渋っていたけれど、私は帰宅部だからこれぐらいはさせてと言ったら、それで ようやく納得してくれた。行ってくると力強く言って、部活で使う用具だとかの入った大きな 鞄を肩に掛けて教室を出て行った。やっぱり男の子だ。あんな重そうなエナメルバッグをひょ いと持ち上げてしまうんだから。誰もいない教室に一人残った私は、せっせと学級日誌を書き 込み、窓の戸締りや電気の確認を済ませた。30分もかからずに終わっただろうか。 「よしオッケー。さて、帰ろっかな」 「送るぞ」 「わ!びっくりした!」 背後から突然声がしたので振り返れば、先程出て行ったと思われる家康があの大きなエナメル バッグを肩に掛けてドアの脇に立っていた。生徒がいない教室に差し込む夕日。 家康の「どうした?」と言って不思議そうにする声に、私ははっと我に返って首を振る。 見惚れてしまっただなんて言えない。 「そ、そういえば家康、部活はどうだったの?」 「もう終わったぞ。今日はミーティングだけで早く片付いてな」 「あ、そうだったの」 筆記用具を鞄に入れてチャックを閉める。書き終えた学級日誌を片手に持って、鞄を肩に掛け る。そのまま家康と二人で教室を出たら職員室に行って日誌を提出。それから校門を出てふら ふらと、いつもの私の帰り道を進んだ。 「家康の家もこっちの方なの?」 「いや、ワシは駅の向こう側だ」 「え!?それ反対方向じゃん、悪いよ!」 もっと早くに聞いておくべきだった。私の家は駅からちょっと距離がある。家康が一旦駅まで 引き返さなければならないとすれば、結構な距離を歩く事になる。やっぱりまだ明るいし、見 送りはここまででいいよと言って断ろうとしたら、家康は気にするなと言ってまた爽やかに笑 った。それにぐっと、言葉を詰まらせる私。家康の笑みが、どうやら私の弱点らしい。 「日直の仕事を手伝ってやれなかった代わりだ。ワシにもこれくらいはさせてくれ。夜道を一  人で帰らせるわけには行かんしな」 「夜道っていってもまだ明るいし、私を襲う人なんていないから大丈夫だよ」 「そうは行かん。は可愛いぞ」 「なっ・・・!」 「いい、甘えておけ」 よくも、そんな乙女キラーなことをさらっと。でも家康も少し、自分の言った事が恥ずかしい と思ったのか、照れくさそうにした。誤魔化すような、はにかんだ笑み。小さな事や不安な事 は全部吹き飛ばしてしまうような太陽の笑みもいいけれど、こっちもいいなあと思う。他には どんな顔をするんだろう。家まで送ってくれるとか、今時これだけ男気に溢れた男の人ってそ ういないよね。 「家康、あのさ」 「ん、何だ?」 「よかったらなんだけどね?」 「おう」 「もし本当に良かったらでいいんだけど、携帯の、メアド、とか、教えて貰えない?」 断られたらどうしよう。でも家康の事がもっと知りたい。そんな複雑な思いで口にした言葉は 弱々しくて、情け無い声をしていた。何でだろう。何だか家康を前にすると、私が私じゃなく なるみたいだ。返事を待って震えそうになる唇を噛むと、きょとんとしていた家康の顔が、次 には綻んで笑顔に変わっていた。 「いいぞ。ワシもが知りたい」 楽しそうに言って制服のポケットから携帯を取り出した家康。一瞬、オーケーが貰えたのが信 じられなくて動きが止まった。「えっと、じゃ、じゃあ送るから受信して?」なんてどもって しまって恥ずかしい。赤外線でアドレスを交換して、家康の大きな指が携帯のボタンを打つ動 作に目を奪われたりもして。ドキドキする。うわあ、私のアドレスが家康のに入ったんだなあ といちいち感動。自分の電話帳に家康の名前が入ったのを確認して携帯をしまうと、抑えられ ずに頬が緩んだ。好き、だ。その太陽みたいな笑顔。 新学期そうそう、私は恋に落ちた。