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愛ではない。
春にはまだ遠すぎる。戦は始まったばかりだというのに半兵衛の病状は悪化していく一方であった。出陣前、最後に城で半 兵衛の病状を診た薬師には此処まで来たら手の施しようが無い、薬を飲んでも変わらないとまで言われた。それはつまり死 亡宣告であったわけなのだが、別にもう半兵衛は今更そんな事を言われたくらいで衝撃を受けたり悲しみを覚えたりする事 はなかった。有能で期待できる後釜は何人か見つかっていたし、その彼らにはこの度の戦にも立派な戦力として加わって貰 っている。だからそういう点では半兵衛が死んだ後の豊臣も安心は出来そうだったが、そうなるのは秀吉が天下を統べた後 の事である。戦はまだ終わっていないし、戦略を立てるのは半兵衛の仕事だ。この天下分け目の大切な戦の最中に豊臣の頭 脳が倒れでもしたら形勢を逆転される事だって有り得るのだ。如何に勇猛な将が多くいようと、考えなしに戦をすれば簡単 に負ける。だから、何としてでもこの戦が終わるまでは倒れるわけにはいかないと半兵衛は気力を振り絞って戦場に立って いたのである。友が天下を統一する姿をこの目に納めてから死にたい。それが死を目前にした天才軍師の悲願であった。 そうして半兵衛は己の病を周囲に悟らせず、おくびにも出さずして豊臣のためにその采配を振るっていたのだが、それもと うとう限界が来た。敵の増援が豊臣の背後より迫っているという事で急遽軍略会議を開いた折に、会議が終了して部屋に一 人残った半兵衛の胸を突然、激痛が襲ったのである。立っていられないほどの痛みにその場に崩れ落ちた半兵衛だったが、 それをたまたますぐに見つけることが出来た兵のおかげで一命は取り留めた。しかしその知らせは勿論秀吉の耳に届いた。 床にて目を覚ました半兵衛を待っていたのは、友である秀吉からの戦線離脱の言い渡しであった。勿論半兵衛は反論したが 秀吉は養生に努めるようにと言って彼の意見を跳ね除けたのである。それで半兵衛は体力が回復するまでと戦場を一時的に 退いて、近くにある豊臣の屋敷に身を寄せる事になったのだった。 「半兵衛よ、世を統べる前に倒れては元も子もないのだぞ」 「分かってるよ、秀吉。単なる疲労だからすぐに戦場に戻って来る。それまで待っていてくれ」 最後まで半兵衛は戦場を退く事に対して腑に落ちない様子でいたが、秀吉と戻って来る約束を交わしてようやく陣地を去っ たのである。しかしそうして着いた武家屋敷での半兵衛の養生の日々はというと、病状が回復するどころか悪化していく一 方だった。寝れば寝ただけ体力が落ちていき、その分食欲も消えていく。戦場を退いた事で張り詰めていた緊張感が解けた のも影響してか、半兵衛の体は急速に衰えていったのである。血を吐く回数が増すに連れて半兵衛は、己がこのまま二度と 戦場に立つこともなく終わるのではとないかとすら思うようになっていた。そしてその予感はあながち間違っていなかった のである。というよりも医師よりも正確な予想だったに違いない。人間、自分の体を一番良く分かっているのは自分自身な のだ。夢の成就を前にして死ぬ、まるで神に見捨てられた者のようだと半兵衛が自嘲する度に、彼は思い出すようになって いたのである。のことを。 「おや、猫だ」 冬の冷気に耐えかねたのか。何時の間に入ってきたのか、開け放っていた部屋の戸のすぐ側で野良猫が申し訳程度に丸くな って眠っていた。人間の家に入ってくる猫というのは飼われていたか、そうでもなければ餌を貰いに来たのが大半だと思っ ていた半兵衛は、だからそれを珍しく思い見た。 今日は連日続いていた曇りの天気が良くなり、朝から快晴だった。とはいえ寒さは此処最近で一番のものだったから、とて もじゃないが出歩くことは出来そうに無かった。それはどうやら人間でも動物でも変わりは無いらしいと結論付けて、半兵 衛はまた手にしていた書状に目を戻した。先日、遣いの者がやってきて半兵衛に渡した戦の近況報告書だった。特に問題は なく、半兵衛が考案した策の通りに事を進めているとあったが、しかし何か予想外の事が起きた時が怖いなと、順調に行っ ている事に逆に半兵衛は軍師としての不安を覚えたのだった。この戦はこのまま何も起きなければ間違いなく豊臣の勝利に 終わる。しかしいくら勝ち戦である事が決まったとしても、万が一と言うのは必ずある。だから戦場に行って最前線で指揮 を執りたいと考える半兵衛だったが、しかしこのままでは病が原因で行けないどころではないなと、書状を畳み、丁度今死 んだばかりの猫の骸に目をやって溜息を一つ吐くのだった。 「此処に来るまでに、見張りの兵がいたはずなんだけどね」 「殺した」 懐かしい声と共に、猫の死骸から出刃包丁が引き抜かれた。開け放たれたドアから白い着物を身にまとった女が一人、半兵 衛の部屋へ入って来る。それを床から起き上がるでもなく見て、半兵衛は口を開いた。 「再婚相手の、君の夫は?」 「殺した」 「奥方は?」 「殺した」 「逃げる時に追って来た兵は?」 「みんな殺した」 正直、半兵衛は別れて二日後には彼女のことを忘れていた。忘れていたというと語弊があるのだが、戦の事で頭を切り替え たためにそれどころではなくなったのである。それでようやくこちらに来てのんびりとした日々を送る中で懐かしいと思い 出すようになっていたのだが、てっきり幸せにやっているものと思っていただけに、こうも早い再会をしてしまうと感慨が いまいち湧かなかった。何が目的で会いにきたのかと呆れながら半兵衛が彼女を見ると、出刃包丁にべったりと着いた猫の 血を着物の袖で拭いながら、は言った。 「あんたが血を吐いて死ぬところを見てなかったから、戻ってきた」 それを聞いて、半兵衛は唇を薄く笑みの形に伸ばした。今の彼女が別れた頃からして記憶がどこまで消えているのかは分か らなかったが、出会った頃の威勢のよさに懐かしさを覚えずにはいられなくて、とにかく半兵衛は久しぶりに愉快な気持ち になったのだった。 「そうだね、君はそういう人間だった」 躊躇いもなく人を傷つけるし、世話になっていた女中頭も簡単に殺した。城主に対して奥っ面もなく「お前は血を吐いて死 ぬんだよ」と言う人間だ。しかしそんな彼女を半兵衛はいつからか、気に入っていたのである。城で起こす騒動も自分を手 間取らせるために煩わしくはあったが、それ以上に楽しくもあった。自分が思う以上に、半兵衛は彼女を気に入っていたの だ。死に際になって、半兵衛はそのことに気が付いた。 「、僕の死に顔が見たいかい?」 は一拍と入れずに頷いた。それはとても良い笑顔だった。 だから半兵衛は彼女を武家屋敷から連れ出すことにした。着替えて仕度を済ませると彼女を連れて馬に跨り、戦場へと向か ったのである。彼女が気力を振り絞って半兵衛のもとへ来たことを考えると、半兵衛も遣り残した事をしなくてはいけない 衝動に駆られたのだ。二人は今日別々の理由で死ぬだろう。しかしそんな事はどうでもいいとばかりに、森の中を馬で駆け 抜ける半兵衛の気分は高揚していった。も半兵衛の死に顔が見れるとあって嬉しそうだ。 いつか櫓に行った際に奇襲を受けて帰って来た時と、全く反対の気持ちにあった。寂しくなど、もうないのだ。二人は病に 侵されているとは思えない程の力を全身に漲るのを感じて、一度も馬を休めることなくそのまま目的地へ走り続けた。そう して大凡半日以上も掛けて戦場まで辿りつくと、自軍の兵たちは突然半兵衛が陣地に戻ってきた事に驚き、加えて女まで連 れて来たという事に口を開けたまま固まったのだった。 「は、半兵衛様?お身体は・・・、いえ、それよりもその者は・・・・?」 彼女の白い着物の袖についた真っ赤な血と手にしている出刃包丁に異様さを感じ取った兵の一人が、恐る恐る半兵衛に口を 利いた。馬を家来に渡している最中だった半兵衛はそれに気がつくとああ、と言って隣にいたの手を取った。 「僕の妻だよ。今日、死ぬんだ」 何処か変かい?と聞く半兵衛に兵達は慌てて首を振って否定した。 その様子を見ていたはにやりと、その場にいる全ての兵に厭らしく微笑む。 血染めの女を見て恐怖に怯え出す兵士たちに気を良くしたのか、半兵衛と繋 いでいた手を前後に振って、は言った。 「半兵衛、好き」 半兵衛はそんな彼女を見て薄く微笑んだ。知ってた、と返して手を強く握り直す。 春は来ないが、2人はこの先どこまでも、ずっと一緒だった。
fin