7
奇跡が起こる日。
「いたいー・・・・」
最悪の朝だった。目が覚めた時に時計を見ると針は7時半を刺していて、二度寝してから三十分以上が立ってしまっていた
事に気がついた。大慌てで支度を済ませて部屋を出ると、更に最悪な事に階段で足を滑らせ見事に上から滑り落ちてしまっ
た。ああ、朝から今日はついていないなと思いながら朝食も摂らずに革靴を引っ掛け家を出ると、いつもの様に家の門の前
で私を待っている人がいた。
「おはよう、半兵衛!お待たせ!」
「お早う、随分慌しい朝だね」
読んでいた本を閉じて半兵衛が振り返った。絵に書いたような王子様の外見をしているくせに、口を開けば上から目線で嫌
味しか言わないこの幼馴染のことが、実は私は大好きだった。小さい頃からお互いを見て一緒に育ったから、半兵衛の事は
何でも知っていると自負している。高校に入ってからこれまで以上にもて始めた半兵衛だったけど、私はそんなことに焦り
を感じたりはしない。だっていくら女の子達が頑張ってアピールしようが半兵衛は綺麗に受け流してしまっているし、半兵
衛の一番身近にいる女の子って私だけなのだ。時たまラブレターを貰っているところを見るけれど、振るだろうなと分かっ
ていたから優越感すらあった。と考える私は汚いかもしれないけれど、これが案外、自意識過剰でもないのだ。半兵衛は私
の短い髪を気に入っていて「良く似合う」と誉めてくれるし、そのままの長さでいて、と言うのだ。普通の幼馴染がこんな
ことを言うだろうか。少しは気があるはずだと思うんだ。私はだから、この先もずっと半兵衛と一緒にいたいなと思ってい
て、いつか告白しようとタイミングを計っていた。
「さっき階段から落ちて後頭部打っちゃってさ、凄い痛かった」
「大丈夫かい?それ以上君の頭が馬鹿になってないといいんだけどね」
「ひっど!半兵衛心配する気ないでしょ!?」
そう言うと半兵衛は笑った。彼の微笑みは友達の秀吉君か相当親しい人にしか向けられない。私には向けられている。だか
ら心を許してくれているのだと嬉しくなる。私達は登下校もクラスも一緒で、家に帰っても親同士が仲がいいから夕飯を一
緒にする事もあって、もうクラスでは半兵衛と私の仲は公認みたいなところがある。だからこのまま、高校を卒業したら大
学も一緒になって、その後は結婚にまでなるんじゃないかな、とか。思っているのだ。一人そんな妄想に浸りながら半兵衛
と歩いていると、いつもの人でごった返すスクランブル交差点に来ていた。赤信号を待っていると、丁度私の隣に同年代ら
しき凄く雰囲気のある女の子がやって来た。同年代、のはずだけど平日のこの時間に制服ではなく白いワンピース姿なのが
不思議だったけれど、とにかく私は目を奪われてしまったのである。そうしているとそんな私に気がついたのか、半兵衛が
どうかしたのかと聞いてきた。
いつもならばその質問にも「すっごい綺麗な子がいたよ!」と平気で言う私だったけれど、その時ばかりはさすがに半兵衛
が見惚れてしまうかもしれないと思って、急いで首を振ってなんでもないと言った。だけど半兵衛はそれよりも早く彼女に
気づいてしまい、目を見開いた。これまで誰かに見蕩れるなんてなんてなかった半兵衛が動きを止めたことに私は凄く悔し
くなった。信号が青に変わる。目を奪われたままの半兵衛を見ていたくなくて、だから「早く行こう」と小さく言って袖を
引っ張ったけれど、半兵衛は目線もくれずに私に言った。
「君は先に行っててくれ」
その瞬間、無数の靴音と行きかう人々の声が聞こえなくなった。完全に背景と化して、半兵衛の声が頭の中をひたすら響い
ていた。私は今、彼に何と言われた?
「」
半兵衛が私の袖を掴んでいた手を振り払って、綺麗な女の子の名前を呼んでその子の元へと駆けていった。立ち尽くす私に
後方から信号を渡り終えてきた人の肩が当たって前に突き倒されそうになる。寸での所で転びそうになるのを抑えたけれど
も、肩が痛いのか胸が痛いのか分からなくて動けなくなる。今まで半兵衛に先に行け、と言われた事なんて無かった。どう
して半兵衛は今見たばかりの女の子の名前を知っているのだろうか、なんて思いながら、私は目の前が真っ暗になっていく
感覚を覚える。人込みの奥に幽かに見える二人、その二人に目をやると、半兵衛とその女の子は人でごった返す仲で互いを
見詰め合っていた。そして唐突に、半兵衛が彼女にキスをした。
「やっと見つけたんだ」
気づけば私は学校にいた。
隣を見れば半兵衛がいて、そういえば家だけでなく席も隣同士だったのだと思い出した。此処に来るまでの事が思い出せな
い。ぼんやりとした思考のまま、私はいつ来たのか分からぬ半兵衛に目をやる。すると彼は口を開いて言った。
「付き合うことになったよ、と」
そう言って嬉しそうに携帯に触れた半兵衛の姿を、私はこれまで見たことが無かった。どちらかというと、恋愛を理性的で
はないと言って切り捨てそうなタイプだったのに。彼の髪と同じで、白い色をした携帯には早くも彼女のアドレスが登録さ
れているのだろうと分かったけれど、何だかもう見ていられなくて、私は急いで目を手元の教科書に落としたのである。
、。
心の内で繰り返すほどに、憎しみが湧いてくる名前だった。思いがけず手が自身の髪を梳いていたことに気がついて頭から
離すと、何か既視感に似たような思い出が頭に蘇ってきた。
「お返し」
そう言って髪を切った彼女。長くたゆたう自慢の黒髪を乱雑に引っ掴んで、根元から切り落としたのだ。そんな覚えの無い
記憶が私の頭に蘇ったけれど、何故かそれを他人事には感じられなくて、私は隣にいる半兵衛に目をやった。寒気がする。
「半兵衛、その子ってさ、名前、何て言う・・・?」
「」
ああ、私の世界がまた壊される。
半兵衛の言葉に、私は今度こそ眩暈を覚えた。
ナタリーは昨日だった