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お別れだ。
「僕は君を、連れて行けない」 唐突な、しかし成るべくして成ったのかもしれない別れだった。冬の始まり、兼ねてより予定されていた大一番の戦を前に して半兵衛は己の病からを手放す事を決意した。 戦が終わるまで己の身が持つか分からなくなったからである。もし戦の最中に病に倒れた場合、半兵衛以外に身よりも後ろ 盾も無い彼女は居場所を完全に失う。城の誰もが嫌悪する彼女を城主が亡くなった後も置いておこうと考える奇特な人間は いないだろうから、そうなる前にと半兵衛は知り合いに掛け合って当人に内緒で再婚の話を進めていた。それで彼女の噂を かねがね耳にしていたある公家の人間が、物珍しさもあってを側室として娶りたいと申し出た。 しかし半兵衛もそうだが彼女の病も相当なところまで来ていた。だから半兵衛は一応、彼女が病に侵され追い先短い命であ り、娶ったところで子は生せない事を伝えたのだが、それでも尚、彼は承諾を引き下げることはなかったので、彼女の再婚 先はそこに決まったのだった。それはめでたい事なのか、惜しまれる事なのかも分からない。説明の仕様が無い気持ちで半 兵衛は彼女の再婚を受諾したのである。だから冬の戦を前にして、半兵衛とは別れることになった。 それでいいのか、半兵衛。 秀吉がそう言った。彼は常に半兵衛の側にあって、誰よりも半兵衛の心の内を知っていたから、友を案じてそう言ったの だ。だけど半兵衛は頷いた。 「春までには、秀吉。君が天下を取っているよ」 それ以外に、何が言えたという。 「また穴掘りかい?」 雪が降っていた。 今年は特に冷え込みが早かったが、秋の収穫が大量にあったので飢える心配は無さそうだった。といっても半兵衛は大食い でも無い上に、病で食欲は落ちる一方であったから飢饉であったとしてもあまり困らないように思えた。それは目の前の も同じだった。 全く持って、病んだ人間同士が顔をつき合わせると湿った空気にしかならないと半兵衛は苦笑いを零したが、庭の地面を愛 用の出刃包丁で一心不乱に穿り返す彼女にはそんな事はどうでもよさそうだった。以前よりもずっと体力が落ちているはず なのに、しゃがみ込んだ彼女の後姿からはそうは感じさせぬ力強さが見えて、半兵衛はそれを少し、羨ましく思ったのだっ た。筆を取ったものの、早々に執務に疲れを覚えた半兵衛が庭に目をやった際、いつか見た光景がそこにあったから思わず 草履に足を突っかけて外に出てきたのだが、無駄足だっただろうかと半兵衛は息を吐いた。 にはもう、ほとんど正気の心など残っていなかった。 半兵衛を見ても誰を見ても、敵意しか向けなくなっていた。寂しいとも言わない。今にして思えば、寂しいというあの言葉 は彼女の最後の自我だったのかもしれないと半兵衛は思う。切なげに呟いていた姿が、今でも目に焼きついている。 「、風邪を引いてしまうよ」 着ていた自分の羽織を脱いで、半兵衛はの肩にかけてやった。それに対する彼女からの反応は無い。 期待もしていないので別に気にはならない。おそらく彼女には自分が何をしているかという認識すら無いのだろう。しかし 半兵衛は別にそれでも良かった。自己満足だと割り切っていた。出会った頃はこの場所で薄気味悪く笑んでいた彼女が、今 では日に日に自我をなくして表情を失っていき、死を待つのみとなっている。同様に死が近い半兵衛は、それを同情のよう な哀れみのような、そのどれでも無いような気持ちで見ることしか出来なかったが、もし再婚が、彼女に終末の安息を少し でも与えてくれるのなら、そうするに越した事は無いと思っていた。 しかし不意に、の背に掛けられていた羽織が揺れた。 「・・・殺してやる、竹中半兵衛」 突然恐ろしい事を呟いたかと思ったら、は立ち上がった。 そのせいで半兵衛が掛けた羽織は薄く積もった雪の上に落ち、彼女の象徴である白い着物が外気に曝された。それはまさし く死人のような出で立ちだった。だが先程までと違い、確固たる意思を持って振り返った彼女の目は鋭く半兵衛を睨んでい た。出刃包丁を手にした彼女の手は寒さか怒りのどちらかに震えていたが、そんな表情を見るのは初めてで、半兵衛は唯、 を見つめた。 「殺してやる・・・お父さんとお母さんの仇・・・」 搾り出された呪いの言葉に、半兵衛はあることを思い出した。病のせいで何もかも忘れた人間が死ぬ前に、まれに正気を取 り戻す事があるという奇跡。医者より聞いた話だ。今にも刺し殺さんとして包丁を構える彼女だったが、それはまるで長年 の恨みを晴らさんとする表情で、記憶が戻ったのだと。半兵衛は気づいたのである。しかし彼女は遅すぎた。 「・・・残念だったね。君が今、手を下さずとも僕はじきに血を吐いて死ぬ運命にあるよ」 半兵衛が言うと、は怒りに顔を歪めた。戦は六日後だ。それまでに殺されるわけにはいかないと半兵衛は思ったが、 しかし自分の目の前で包丁を構えるにその気は無いとすぐに悟った。 口では怨念を吐くが、実際に殺す勇気はまだ持てないといったところか。その辺に関して言うならば出会った頃のすでに狂 っていた彼女の方が躊躇い無く半兵衛を刺せただろうと思い半兵衛は内心自嘲したが、彼女は納得していないようで、未だ 包丁を握り締めていた。 「寒いだろう、中へ入ろう」 言えば、遂には手にしていた包丁を落とした。 雪に受け止められたそれは重々しく鉛色に光り、正しく凶器である事を証明していた。それで半兵衛は今、ここで自分の病 気を何故知っていたのかを正気を取り戻した彼女に聞くことも出来たのだが、敢えてそれをしなかった。お互い死ぬ間際に なってそんな事を聞いても今更だと分かっていたからだ。もまた、それを理解していたから凶器を捨てた。 死の下には、何もかもが意味を成さないのである。復讐でさえも。しばし、お互いの間に重たい沈黙が下りたが、半兵衛は 俯いて呆然としていた彼女を部屋に入れると火鉢を暖め直して己の羽織を再度、彼女の肩にかけてやった。その間、寒さか それ以外の理由があってなのかは分からないが、 は部屋の隅で身を小さく震えていた。 「可哀想な子だね」 意地悪を言えば、は嗚咽を漏らして泣き始めた。 戦で、自分の両親を殺した敵に仕える事になったのだ。堪えていた涙の分、彼女には今まで多くの困難があったに違いな い。しかしそう考えると、何もかも忘れて狂ってしまった方が人生というのは生き易かったのかもしれない。彼女にはまだ 言っていないが、此処を立って明日には新しい夫に貰われ幸せになれる。まだ、彼女には余生への希望が残されているの だ。そうする事が彼女に対する小さな報いになるのかもしれないと半兵衛は思ったが、それは理由の後付けにしかならない という事も勿論分かっていた。しかしともかく二人が死ぬことに変わりは無いのだ。儘ならない世を思い、半兵衛は最後に 接吻を一つ、彼女に贈った。じきに、迎えの籠が到着する。