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寂しい。
この頃になって、がよく口にする言葉だった。
それまで口を開けば罵詈雑言と死ねが十八番だった彼女が、つい最近になってふとした拍子でそんな悄らしい事を言うよう
になったのは、一重に彼女が抱える病気の悪化が原因だった。とはいっても寂しいと口にしながら庭に忍び込んでいた猫を
斧で殺すような彼女であるから、城の者達が抱く彼女への恐怖はこれまで通り薄れる事は無かった。だが単なる残虐姫かと
言うとそうでもなく、玉蔓との一件以来、半兵衛の新しい側室の話は周辺諸国に広まり政略結婚を考える大名達が減ってい
たので本人のあずかり知らぬところで牽制の役目を果たしていたりとあながち単なる疫病神でもなかったのである。しかし
こうも寂しい寂しいと喧しく繰り返す癖に悪行は止めないのだから、尚更性質が悪い。むしろ最近では悪質さの増した悪戯
に付き合わされる家臣たちに怪我人が出るようにまでなっていたし、彼女を庇っていた女中頭にいたっては二日前から行方
不明だ。見つからないという事はそういう事なのだろうと城中の者達が分かっていたが、如何せん身分が関係しているので
話題を口に出す事も憚られていた。それで嫌な雰囲気になりつつあった城なのだが、冬の戦に備えての秋の食料確保に人々
が追われ始めた折に半兵衛の腹心の部下が一つ、そんな空気を打破しようと城主にある提案をしたのだった。それで、それ
を了承した半兵衛はと2人で療養に行くこととなった。
「ゲホッ、ゲホッ!」
それは勿論、考え無しに言った言葉ではなかった。療養とは名ばかりで、一月ほど、敵方の良く見える地に立つ櫓に滞在し
てその土地を把握しておくのと身を潜めるのが目的であった。これまでの小さな戦ではその様な事をせずとも事前の家来の
報告だけで楽に布陣を敷いていたのだが、今回の冬の戦では兵のほとんどを投入する大一番となるだけに、軍師としては己
の目で直接見て確かめておきたい気持ちがあったのだ。だからの療養はその便宜上の名目に過ぎなかった。
しかし半兵衛が彼女に療養を提案した際、常ならば「もうすぐ死ぬんだから好きにしたら」と嫌味を交えて返してくる威勢
の良さがなかった事に何か引っかかりを感じていた。彼女が病気だったから、という理由だけでは片付けられないようなそ
れは、天才軍師とやらに少しの予感を抱かせたのだった。そして、その半兵衛の杞憂は杞憂に終わらなかったのである。
内通者は、療養を進言した腹心の部下であった。
「敵はどこまで迫っている?」
よりによって。こちらに到着してそうそうに奇襲に会うとはさすがに計算外だった。半兵衛達一行の予定を知っているもの
でなければこの奇襲作戦は考え付かなかったであろうと考え、半兵衛はすぐに内通者がいた事に気がついた。篭城戦の折り
、そうして半兵衛は見事に兵の中から内通者であった腹心の部下を見つけ出して処罰を下すことが出来たのだが、それが終
わると急激な胸の痛みに襲われたのだった。夏にあった戦の際に、半兵衛は一度病状を悪くして倒れたことがあった。しか
し今回は以前よりも吐く血の量が多くなって更に悪化している事が分かったから、死期が近いのだとそれで悟ったのだっ
た。今や城門は破られ、敵の侵入を二階まで許してしまっていた。上へ続く階段を上る半兵衛の背に、家来が「三階も直に
破られます」と絶望的な宣告をする。敵の数はそんなに多くないが、こちらの兵の数も相応に少ないのが問題だった。
半兵衛は周囲をざっと見回して生き残っている人数を確認した。連れてきたのは半兵衛の信頼の置ける兵と女中と、とそこ
まで考えて。そこでようやく、半兵衛は気がついた。
「は何処にいる?」
半兵衛の近くにいた者達の何人かが、主のその声に振り返った。しかし皆一様に気がそぞろで、後ろめたいのか目線を半兵
衛に合わせようとしない。
「聞こえなかったかな。は、何処にいるかと聞いているんだけど」
「あ、いえ・・・・恐れながら、存じません」
「君は?」
「わ。私も、その、兵の怪我の手当てに追われておりまして」
そこで、半兵衛は気がついた。そもそも腹心の部下が半兵衛を裏切ったという事は、今責めて来ている敵も含めてこの場に
いる味方全員が敵である可能性があることに。いいや、最初から味方など一人もいなかったし、皆が純粋な敵だったのだ。
は、見捨てられていた。
死に掛けには庇う価値も無いし、彼女の猟奇性を思うと自分の命を賭してまで守っても意味が無いだろうという皆の考えを
半兵衛は知った。は初めから、今回の逆賊の存在に気づいていたのだろう。
知っていたから、今回の療養にあまり色よい返事をしなかったのだ。半兵衛は彼女が何のためらいもなく女中頭を殺した理
由が分かった気がした。それで全てを理解した後、先ほど己の血で汚れた手で剣を握り直し、それを一振りして周囲の敵を
薙いだ。「半兵衛様?」という城主の雰囲気が変わった事に気がついた家来の声が聞こえたが、半兵衛はそれを綺麗に無視
して敵見方ごった返す階段を一歩ずつ下りていった。
「」
櫓を出て少ししたところにある厩の前で、は大人しく座っていた。
足を怪我しているようで血が流れているのが見えたが、手には彼女お得意の出刃包丁がしっかりと握られていたので、さす
がだと苦笑いを一つ零して半兵衛は彼女に近づいていった。
「来るんだ、」
意外にもは大人しく半兵衛に従った。
厩から馬を一頭解いた半兵衛は先にを乗せ、その後に自らも跨る。
そうして未だ喧騒の中にある櫓を振り返りもせずに半兵衛は手綱を取りその場を後にした。それはつまり、櫓に残った五十
の兵を見捨てるという事を意味していた。しかし半兵衛はの方を選んだ事を後悔していなかった。
むしろあんな兵なら、死んでしまった方がマシだとすら思った。
「寂しい」
が呟いた。
秋の風を切って進む中、半兵衛は一つ咳をして前に座る彼女を強く抱え直した。手綱を握り直した己の手に赤が散ったのを
見なかったことにして。
の体は冷たい。
二人の終焉は、すぐそこまで来ていた。
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