すいようびのこども
お父さんは料理が出来ない。掃除もしない。ゴミだしだってやらない。家事の一切は家に人を呼んでやって貰 っている。お父さんが何の仕事をしているのかは知らないけれど、どうやらお金には困っていないらしい。 小学生の頃はそんなものかと思っていたけれど、さすがに中学生にもなれば私だって気づく。毎日の夕飯が出 前や外食ばっかりで体にいいわけがないし、いくらお金に困っていないからといっても、その金銭感覚が恐ろ しい。だけど今更お父さんに料理を作って欲しいなんてお願いはできないし、お仕事も忙しいのだからそれは 無理だろう。お母さんの役割をお父さんに求めるのは間違っている。それならと、中学校一年生のある日、私 は一大決心をして料理を作る事にした。 「ええと、玉ねぎ人参じゃがいも牛肉・・・」 スーパーなんて初めて来た。家の近くにあるのは知っていたけれど、人が多くて入りづらそうだったから一度 も利用した事はなかった。何かつまみたくなったらコンビニを利用していたから、行く必要がなかった。 (主婦の人ばっかり・・・)天井から吊るされている広告や大特価の文字が躍るプライスカードに目を奪われ ながら、周りの人を真似てカートにカゴをセットしてみた。制服のポケットから折り畳んだレシピ本のコピー を取り出して、必要な材料を確認する。茶道部の部長のお市先輩に相談をしたら、初めてなら簡単なものがい いと勧めてくれた。だから今日のお夕飯はカレーだ。もし私が毎日料理を作るようになったら、その分生活費 は浮くしお父さんだって健康になる。良い事づくめだ。誉めてくれるかな?なんて。カートを押して陳列棚と 主婦でごった返す中を進んでいく私の手は、緊張とわくわくで少し震えていた。 「お、重かった・・・!」 ビニール袋をリビングのテーブルにおいてやっと一息つく。学校を出たのが四時で、買い物を終えて家に帰っ てきたら時計は五時を丁度回ったくらいを指していた。お父さんが帰って来るのが大体七時半から八時の間だ から、今から作れば十分間にあう。今日の事はお父さんに内緒にしてあるから、帰ってきたらビックリさせる と決めている。中学に入って部活動や委員会で帰るのが遅くなる日が増えた事を心配してお父さんに持たされ た携帯電話。まだ使い慣れないそれを開いて、メールを打った。 To おとうさん sub 今日は 本文 どこにも寄らずに、 早く帰ってきてね(はあと) これならそんなに不自然じゃないよね、と送信ボタンに指を乗せたところで違和感。中学生にもなってお父さ ん相手にハートの絵文字ってどうなんだろう。ありかな。でもやっぱり何処か変な気もする。でも絵文字がな いと文面が寂しい気がするし、凄く真面目っぽくなる。いいよね、つけちゃえ!とそのまま送信ボタンを押し て携帯を閉じた。 「さて!作るぞー!」 ガッツポーズで気合を入れる。お市先輩に貸してもらったエプロンを巻いて、制服のブラウスが汚れないよう に袖を捲くる。まずは野菜からだ。じゃが芋は洗って皮をむいたら芽を取り除き、適度な大きさに切るとレシ ピにある。読んだだけなら簡単そうな気がしたけれど、やってみると案外難しい。じゃが芋はゴツゴツしてい て皮をむくと分厚くなってしまうのにむき残しは多い。適度な大きさが一体どれくらいなのかが分からなくて 取りあえず切ってみたら小さくなりすぎた。人参はそれほど難しくはなかったけれど、問題は玉ねぎだ。どこ までが皮なのかわからないし、櫛型切りにするというのはどういう意味か。涙は止まらないしでもう最悪だ。 肉に至っては茹でる時に灰汁を取っていなかったことにルウを入れてから気がついた。なんだか地味な失敗が 多い気がする。それでもなんとか蓋をして後はコトコト少し煮るだけとなった時だった。 ガチャガチャ …パタン お父さんはいつもお帰りを言わない。そのせいで足音やドアの開く音に敏感になった私は、すぐに鍵の回る音 に気がついて顔を上げた。時計を見る。(うそ、まだ7時前なのに!)カレーはまだ出来上がっていない。ご 飯も炊けていなければリビングの食卓の上は帰ってきた時のままで散らかし放題だ。レシートが床に落ちてい るのが見える。どうせならテーブルセッティングまでして完璧な状態で玄関に行ってお父さんを迎えたかった のに。足音なくリビングまでやって来た気配がドアの前で止まる。だけどドアが開いてそこから入ってきたス ーツ姿のお父さんと目が合ったら、そんな計画どうでもよくなってしまった。今日もスーツがよく似合ってい て、朝と変わらず格好よかった。 「おかえりなさい、お父さん!早かったね」 「卿が寂しがっているようだったのでな。仕事を切り上げて帰ってきた」 なにそれ。明日、きっと部下の人に怒られるよ。返す私の言葉は頬が緩んでいるせいでお父さんにはこれっぽ ちも効いてなかった。だって私の為に仕事を切り上げてくれたなんて、嬉しいに決まってる。会社の人には悪 いけれど。ありがとうと言って笑顔にして表すと、お父さんも口の端に小さく笑みを浮かべて、私を見下ろす 瞳を優しく細めた。 「さて、。何か言う事があるのではないかね?」 「え?」 「連絡まで寄越すくらいだ。余程の事があったのであろう。ふむ・・・香辛料の匂いがするな」 「あ、えーっと・・・・・・」 わざとらしく顎に手を当てて考える素振りをするお父さん。きっと予想は付いているんだろうけれど、私が自 分から口にするまでは知らない振りを通すんだろうな。優しいんだか意地が悪いんだか。お父さんの為に夕飯 を作ったなんて、理由が恥ずかしくて口にし辛い。 「カレー作ったんだ」 「ほう」 「お父さんと食べようと思って」 「随分と唐突だな」 「・・・だめ?」 「いや、構わんよ」 「じゃあ、食べてくれる?」 おそるおそるお父さんを見上げた。 「頂こう」 短く言ってお父さんは背広を脱いだ。嬉しくなった私は「すぐに準備するね!」とキッチンへ向った。カレー は丁度出来上がったところで、お米も炊けていた。この家にある数少ない食器のうちカレーを入れるのに適し ていそうなのを食器棚から引っ張り出して、軽く洗って布巾で拭いた。お玉で鍋をグルグルと掻き混ぜて、肉 も野菜も満遍なくお皿によそって食卓で待つお父さんの目の前にそっと置く。 「えっとね!あのね!不味かったら本当に無理しないで、残していいからね!」 私がそう言うと、お父さんは小さく笑って可笑しそうにした。 「それほどの失敗をした覚えでもあるのかね」 「ないけど・・・。レシピ見てその通りにやったし先輩からアドバイスも貰ったけど!」 でもお父さんは舌が肥えていて、そんなお父さんがこれまで食べてきた物に比べたら、私の作ったカレーなん てお世辞にもおいしいとはいえないはずだ。美味しいと言って欲しいわけじゃない!せめて普通に食べること のできる味になっていて欲しい!とお父さんがスプーンを手に取るのを横から祈るような気持ちで見つめた。 ルウを一掬いして口に入れたお父さんは、咀嚼を繰りかえしてごくりと飲み込んだ。 「どう?おいしい?」 「気になるなら食べてみるといい」 「うん、・・・そうする」 恐々スプーンにカレーを掬い、自分の口に運ぶ。野菜や肉は中まで火も通っていて大丈夫そうだけれど、口に 入れた瞬間に気がついた。ルウが美味しくない。原因は、・・・思い当たる。牛肉の灰汁抜きをしなかったせ いだ。苦くて変な味がする。絶対そうだ。スプーンをカレー皿の端に伏せてお父さんに向き直った。 「ごめんねお父さん、やっぱり失敗しちゃった」 初めてっていうのは何事も上手く行かないみたいだ。頑張った結果がこれなのは残念だけど、いい勉強にはな ったと思う。これから練習して腕を磨いていこう。お皿を下げようとすると、だけど伸ばした私の手を制して お父さんは食事を再開した。 「ま、不味いでしょ?無理しないで残していいよ?」 「卿が作ってくれたものだ。最後まで頂くことにする」 そう言うお父さんは何故か嬉しそうだった。どうして、だってそれ不味いのに。ぽかんとしているとお父さん が言った。「父を思い作ってくれた娘の手料理を、残す父親などおらんよ」って。五分もしないで全て平らげ たお父さんは、旨かったと言って口を拭う。うそつき。だけど泣きたくなるくらい嬉しかった。 「私がまた料理を作ったら、お父さんは食べてくれる?」 答えはたぶんイエスだ。どんな失敗作だって、きっとお父さんは私が作った物なら残さず綺麗に食べてくれる だろう。膝の間に顔を埋めていた私の頭を撫でて予想通りに勿論だと答えてくれたお父さんに、私は次こそ成 功を誓った。