木曜日は匿名希望
「来ちゃった・・・!」 眼前に聳え立つのは超高層ビル。一人で電車を乗り継ぎやって来たのは初めて来るお父さんの職場。こんな都 心部の高層ビルにオフィスを構えているのだから、疑いようもなく一流企業なんだと思う。家では会社や仕事 の事を一切喋らないので、お父さんが社会的にどのような位置にいるのか全く分からなかったけれど、今この 瞬間に初めてお父さんってもしかして凄い?と尊敬した。いつぞや、何かあった時の為にと教えてくれた会社 の電話番号と住所を頼りにやっては来てみたけれど、正直こんなに場違いな気持ちに成るとは思っていなかっ たせいで、立ち往生してしまっている。本日、私の通う中学校は創立記念という事でお休みだ。家でゆっくり しているはずだったのに、お父さんがお弁当を忘れて行ったことに気がついて届ける事になった。あのお父さ んが忘れ物をするなんて珍しいけれど、せっかく作ったのだから食べて欲しい。それにお父さんが働いている ところを見てみたい気持ちもあった。 「・・・あの、すみません。えっと」 おどおどしながらビルに足を踏み入れた瞬間周囲の視線が私に突き刺さった。平日の真昼間に十代の若者が学 校も行かずにここにいるのが不思議、という感じで興味津々だ。だけどそこは社会人。仕事が忙しいので遠巻 きに見るだけで近寄っては来ない。露骨な視線を浴びながら、私はインンフォメーションと書かれたカウンタ ーに二人並んだお姉さんを見つけて駆け寄った。緊張しながら話しかけると、目が合ったお姉さんは優しそう ににっこり笑ってくれた。ほっとする。 「はい、どう致しましたか?」 「あ、えっと、ここでお父さんが働いているんですけれど、お弁当を忘れたみたいなので届けに来ました」 「お届けものですね、畏まりました」 お姉さんは口紅のうっすら付いた唇で綺麗に微笑んだ。それを見て此処に来るまでの不安やら疲れやらが少し 吹き飛んだ気がする。いいな、私もいつかあんな風になりたい。将来の夢は受付嬢っていうのも憧れる。 「それでは失礼ですが、お父様のお名前を教えていただけますか?」 「あ、はい。松永といいます」 「下のお名前は何と仰いますか?」 「えと、久秀です。松永久秀」 「松永の娘・・・?」 どうしようお父さんの名前呼び捨てにしちゃった、なんてドキドキとしていると、あれ。お姉さんの返事が随 分低い様な気がした。と思ったら、その声は私の隣に立っている男性のものだった。振り向いて見るとオール バックの強面な人が眉間に皺を寄せて睨むように私を見ていた。頬にはうっすらと傷もある。ご、極道の人だ 間違いない・・・!私の喉がごくりと、大きく音を立てた。 「それでは面会の手続きを致しますのでお掛けになって少々お待ちください」 言葉を発する事が出来ずに固まったままの私を見かねてか、お姉さんがそう言って話を戻してくれた。ありが とうお姉さん・・・!ぎぎぎと音が出そうなほどにぎこちなく首を戻して、お姉さんに向き直る。それからな るべく横を見ないようにして、指定された座席に腰を落ち着けた。極道と思しき人はその後、もう一人いる受 付のお姉さんと少し言葉を交わすと用事を済ませたようで出口へと向っていった。絡まれずに済んでほっとす る。今のは一体なんだったのだろう。はーと大きく息を吐いて肩の力を抜いた。 「松永様、お待たせいたしました」 「あ、はい!」 ものの数十秒で電話を終えたお姉さんがやってきて、お父さんが今は会議中で会えないことと、会議が終わる のが三時過ぎになることを教えてくれた。携帯を取り出して時計を見る。午前十一時ということは、待つので あれば四時間近くになる。さすがに知らない土地で四時間も時間を潰すことはできない。 「それならえっと、合間にこれだけ渡しておいて貰うことは出来ますか?」 「三時過ぎになるかもしれませんが、それでもよろしければ・・・」 「はい、大丈夫です」 「畏まりました。それではお預かりいたします」 「お願いします」 お弁当の入った紙袋をお姉さんに渡して踵を返す。本当はここまで来た事を知らせてお父さんの驚いた顔を直 接見るつもりでいたんだけど、お仕事の邪魔は出来ないので仕方がない。ちぇ、家に帰ったら暇だし何して遊 ぼうかな、なんて考えながらビルを出た時だった。 「待て」 「ひゃ!!」 背後から突然肩を掴まれた。驚いて振り返るとそこにはさっき見たあの極道の人がいた。帰ったんじゃなかっ たんだ・・・!待ち伏せをされていたことに気づいて怖くて目線を合わせられずにいると、極道の人は慌てた ように悪いと言って肩から手を離した。 「済まない、少し聞きたい事があってな・・・」 「い、いえ。だいじょうぶ、・・・です」 全然大丈夫じゃないです。怖いです。何て口に出来るはずもなく顔を俯けてしまう。極道の方が一般のそれも 中学生に何の用があって声をかけたのだろう。お父さん関連のことだとしても、私は何も関わってないから分 からないのに。凄味のある瞳が私を見下ろしているのが分かって心臓がバクバクとしだす。 「・・・松永の娘というのは本当か?」 「は、はい、そうです」 「そうか。・・・確認したかっただけだ。引き留めて済まなかったな」 坦々として、だけど最後の済まないの言葉だけは優しかった。あれ?以外に良い人?他にも何か聞かれるのか と思って覚悟していただけに肩透かしだ。それでも緊張して握り拳を解かないでいると、頭の上に暖かなもの が降りてきた。幻のような一瞬。え?と思う間もなくそれは頭の上を退いていった。反射的に顔を上げても、 もう歩き始めた背中を見送ることしかできない。夢でなければ今、頭を撫でられたような、そんな気がする。 -- 「済まないが、やはり今日中に帰るのは無理そうだ。会議が長引いてしまってね」 「お仕事なら仕方がないよね・・・。その代わりお土産はシュークリームだよ!」 「はっはっは。姫君も煩くなったものだな」 「楽しみに待ってるよ」 「それはどちらのことかな?」 「お父さんって言った方が嬉しい?」 「はっはっは」 電話越しに聞くお父さんの笑い声。今日は中々機嫌が良いらしい。お仕事で遅くなってるってことは、多分 誰かと飲んでいるんだろう。それなら相手の邪魔をしない方が良いかなと思いお休みを言って手短に電話を 切った。お父さんが家に帰ってこない夜なんて初めてだ。広々とした家にいるのは私一人だけで、静まり返 った我が家は我が家じゃないみたいだった。折角のお休みの日なのに夜更かしをする気にも慣れなくて、九 時には布団に入ってしまったし。寂しいってこういうことなんだろうなと思いながら、ベッドの上で寝がえ りを一つ打つ。せっかく会社まで行ったのにお父さんには会えないし、その上家に帰ってきてからも一人だ なんて。気がつけば枕の横に寝かせた携帯電話ばかりを気にしている。お父さんからの電話なんて何度もあ るわけがないのに。ああ、こんな時に彼氏がいたらな・・・。そういえば、とそれで思い出す。今日お父さ んの会社で会った極道の人、よくは見ていないけれど、ちょっと格好よかった気がする。頭を撫でられたり なんかして。威厳や凄味はあるけど優しさもあるところがお父さんと似ていなくもない。じゃああの人もき っと優しいに違いない。なんてくだらないこと事を考えていると徐々に眠くなってきて、気がつけば眠りに 落ちていた。 - After school, come up to the roof - 「なあに、これ・・・?」 次の日、学校に行くと下駄箱の中にそんな事が書かれたメモが入っていた。