塩味のビスケット
わたしがまだ、小学生だった頃のこと。 「今日、クラスの子にお母さんがいないのはおかしいって言われた」 「そうか」 「ちがうって言ったんだけど、かわいそうって言われて、言い返せなくて」 泣いちゃった。言葉を辿るように涙がぽたぽた、リビングの床に落ちていった。わたしはスカートのすそを強 く握りしめてくやしさに堪える。クラスのバカな男の子達にどんなイジワルな事を言われたって、絶対に負け ない自信があったのに。涙が止まらない。次から次へと零れる涙を袖で強引に拭っていると、頭の上にお父さ んの温かで大きな手が乗って、ぽんぽんと数回なでられた。わたしの涙のせいでお父さんまで悲しい気持ちに させてはいけないと思うのに、やはり涙は止まってくれる気配をみせない。 「」 お父さんがわたしを呼ぶ。いつも眠りにつく前のおやすみを言うような優しい声で、布団を肩までしっかり掛 けて、目にかかった前髪を優しく払いのけてくれるみたいに。わたしはお父さんの、その低くて落ち着いた声 が大好きだった。 「確かに、卿に母親と呼ぶべき存在がいないのは事実だ」 「うん・・・」 「だが肝心なのは、その事実をどう捉えるかという己自身の問題だ」 床に膝を付いたお父さんは、丁度同じ目線になった私の肩に手を置いた。それからわたしの為に噛み砕いて理 由を説明してくれる。お母さんはわたしを産んで直に死んでしまったけれど、わたしの誕生をとても楽しみに していた。それはきちんと愛されていたということで、わたしは決して可哀想なんかではない。それを知って いれば、母が側にいなくてもいつも見守ってくれている事に気がつくはずだ、と。 「自分の境遇を、不幸だと思うかね?」 説明を終えたお父さんがわたしに質問する。不思議なことにあれだけ拭っても止まらなかった涙はいつの間に かすっかり乾いていて、心は軽くなっていた。わたしがずっと気になっていた心の奥底にあることを、お父さ んはいつも言い当てて答えをくれる。すごいと思った。 「ううん」 不幸じゃないよとわたしが口にすると、お父さんは口の端を少しあげて僅かに微笑んだ。難しい事をよく理解 できたなという意味を込めて頭をわしわしと撫でられる。くすぐったくて、だけど気持ちがいい。お父さんに こうして貰うのがわたしは大好きだ。これでわたしが不幸だなんてことが、あるはずないと思う。だって自分 が可哀想だなんてこれっぽちも思ったことはないし、そのことで悲しんだりしたことだって一度もない。 「わたしにはお父さんがいるもんね!」 ちょっと照れくさいので、勢いで目の前にいるお父さんに抱きついて肩に顔を押し当てた。堪え切れなくて口 からは情けない笑い声がもれてしまったけれど、なんだかどうでもよくなってしまう。飛び込んだ先はお父さ んの匂いでいっぱいで安心した。大きな肩に額をごりごりと押し当てる。 「卿は良い子だ」 ふ、とお父さんの小さく笑う声が聞こえて纏う空気が柔らかくなった。大きな腕がわたしを包むように背中に 回され、一瞬の浮遊感のあと、わたしは抱っこをされた。お父さんはそのまま立ち上がるとリビングを出てキ ッチンへと向う。 「あのね、おとうさん」 「何かね?」 お父さんと同じ高さで見る景色はなんだか空を飛んでいるみたいで壮観だ。だけど少し怖いから落ちないよう にしっかりと首に抱きつく。昼は何がいい?とお父さんに聞かれて、泣いた後でお腹が減っている事に気がつ いた。「お菓子がいい」と答えると「それでは腹は膨れない」とぴしゃり言われる。まあいっか。 「じゃあ、おすし!」 「良かろう」 携帯を取り出してお父さんはどこかに電話をかける。特上二つ、とか何とか短い遣り取りをして電話を切ると 「それでなんだったか」とわたしに向き直った。 「・・・土曜日にね、授業参観があるんだ」 お父さんのお仕事が忙しいのはわかってるんだけど、お休みがなかなか取れない立場なのも知っているんだけ ど、この機会にクラスの皆にお父さんを自慢したい。お父さんはカッコいいから、きっと皆おどろくだろう。 そしたらわたしにイジワルを言ったあのバカな男の子達だって、自分の言った事が間違いであったと認めるは ずだ。 「お願い、次のテストでいい点取るから」 そっとお父さんを伺い見ると、ニヒルな笑みを浮かべて「良かろう」と言ってくれた。テストで良い点を取れ なかったら間違いなくお小遣いを減らされるだろうけど、あのお父さんから約束を取り付けることが出来たの はすごいことだ。誇らしくなったわたしは調子に乗ってお父さんの固い頬にキスをした。 「お父さん、だいすき!」 「当然であろう」 わたしがお父さんに抱きつけば、お父さんも抱きしめ返してくれる。大きな家にたった二人の家族で住むのは 時々寂しいけれど、毎日が楽しくて幸せだ。 「卿を悲しませる全てのものを、この世から取り除いてくれよう」 わたしに意地悪を言った男の子は、その後転校した。