気になっている子がいる。
最近よく電車で見かけるようになった子だ。本人はこちらに気づいていない
ようだけれど、ある朝の出来事以来、僕の目は彼女を追うようになった。
 


 
 
その日は雨だったこともあっていつにもまして電車内の空気は悪かった。
毎日の通勤や通学に皆疲れが溜まっていたんだろうと思う。僕もぬれた傘を
持っているだけでも溜息が出そうな気分だった。手はふさがっていて、本も
読めないから何もせず早く降りる駅に着くのだけを待っていた。そんな時、
静かな車内に彼女の声が聞こえた。誰もしゃべる人のいない車内にその声は
よく響いた。
 
 
 
「ここ、どうぞ、」
 
 
 
そういって席を譲った。
僕の位置からでは彼女の姿は見ることが出来なかったけれど、その声で状況
は理解できた。おばあさんがありがとうといって座るのを、いいえ、当然の
ことです。と彼女が返す。別になんてことない、同じようなことはたまに見
かける光景だったけれど、雨の日の鬱々とした車内でのその出来事が割と印
象に残っていた。
加えて遠目に見えた彼女の制服が自分と同じ学校のものであったのにも少し
驚いた。僕は彼女から視線を窓の外に移したから、その後に二人がどうなっ
たかはもう分からないけれど、窓から見えた雨の景色が、それほど嫌なもの
に感じなくなっていた。かすかに聞こえる二人の楽しそうな声だけが駅に着
くまで静かな車内に響いていた。
 

それからしばらくして目的の駅に着き電車を降りて改札口に向かう際、よう
やく彼女の顔を確認することができた。そもそも人間関係の浅い僕が人の顔
を見ただけでどこのクラスの人間かを特定できるわけがなかったけれど、記
憶力はいいから彼女の顔はすぐに覚えた。
そうして次の日、駅のホームで偶然彼女を見つけた。どうやらいつもこの時
間の電車に乗っているらしかった。電車がホームに来て、彼女と同じ車両に
乗る。いつものように本を広げて読もうとした、が。
なぜか内容が頭に入ってこなかった。
彼女の方が気になってしまう。一体どうしたんだろうか。こんなことは今ま
でなかった。ちらりと彼女を伺うと、吊革につかまってうとうとと眠そうに
舟をこいでいた。立ったまま寝るつもりだろうか。あ、起きた。恥ずかしそ
うにきょろきょろと見回している。面白い。
見ていて飽きない子だ、ってちょっと待て自分。さっきから彼女のことばか
りじゃないか。一体僕は何を考えているんだ。彼女のことばかり気にしてい
ないで本に・・・・・・・・いや、気に、なっているのかもしれない。
彼女のことが。名前すら知らないというのに。
 
 
 
 
 

そうしてある日、学校の廊下を歩いていると偶然にも彼女の友人が例の彼女
の名前を呼ぶのを聞いた。本当に偶然だった。その友人というのが、僕も知
る隣のクラスのかすがくんだったわけだけれど。

その下の名前を僕はすぐに記憶に刻んだ。思わぬ幸運に微笑んでしまうとこ
ろだったけど、もちろん顔に出すわけがない。
。
何度も心のうちで繰り返して、そこでようやく彼女の名前を知ったくらいで
自分がこんなにも浮かれている理由が分かった。
つまり僕はが好き。
どうやらそれが一番納得できる真実らしかった。その後すぐに彼女のクラス
の名簿を見て苗字も知ることができた。彼女はとてもまじめな生徒らしい。
教師が今年の皆勤賞について話をしている中で、彼女の名前を挙げたのを通
りがかりに聞いた。
それからは僕も毎日、彼女を電車で見るというのが日課のようになってしま
ったのもあって、学校をあまり休まなくなった。秀吉は無理はするなと僕を
心配したけれど、別に無理はしていなかった。むしろ充実しているほうだ。
ただ。不満があるとしたら、といまだ話すきっかけがないってことだ。
 
 
 

は僕が見ていることに気づいてすらいないようだし。








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