渡れぬような川の向こうに登れぬような山があります。
所謂秘境でした。八方を山に囲まれた小さな村、数えられるほどの人しか住まぬ村、そこで私は生まれ育ちま
した。生活にゆとり等ありません。日が昇り暮れるまでを田を耕す事に費やす毎日です。優しさもありませ
ん。皆が苦しいので、今日一日の食べ物を確保するのに精一杯で人に分け与える余裕など、到底ありませんで
した。何処までも悲しい村です。そんな悲しい生活を嘆く者が建てたのか、村の中央には大きな寺院がありま
した。学の無い私には、それが誰によって建てられたのか、いつ頃から建てられているのか分かりませんでし
たが、ともかくそれは、この村の象徴でした。寺院は主に、事が起きると村長と村民達が集まる場所になって
います。一月ほど前に丁度、会合があったばかりでした。私の家からは父が出席しましたが、この夏は冷夏に
よって不作が続いていたので、その対策を立てる為に会議は開かれました。食料が採れず苦しい思いをしてい
たのはどの家も同じでしたが、その中でも困窮を極めていた家が一軒あったそうです。それで、他所の畑から
毎夜、その一家は僅かばかりの食物をくすねては飢えを凌いでいたそうです。会合では、満場一致でその家族
を根絶やしにすることに決まりました。この村で開かれる会合と言うのは、大抵がそういうものです。三日後
の晩、村の男たちは盗みを働いた一家の家の前に集まり、夕食の団欒を楽しんでいた家族を網に包み山へ連れ
て行くと、予め掘っていた穴の中へと投げ入れました。悪事を働いた者の子を後世に残してはいけません。ま
た、他の家がそうする事のない様にと、見せしめのために行われる事です。酷いなどと言っている場合ではあ
りません。この村では、生きるために皆が必死なのです。同様に、働けぬ者に食べさせる余裕もないので、こ
の秋に姨を栗拾いに行かせることになりそうでした。片道だけの栗拾いです。帰途は存在しません。この村に
おいて恐ろしいのは、明日は我が身ではないかという不安でした。そういう村で、私は生きていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
沢で汲んだ水を竹筒に入れます。
三日程前のことです。村に、傷を負ったお侍さんがやって来ました。痩せこけた馬に乗り、上半身をふら付か
せながら村に入ってくる姿を皆が見ていました。私もその場にいた中の一人です。村以外の人間が珍しいとい
うのもありましたが、それがお侍さんであったことが余計に注目を集めていた原因でした。ほとんどの者が侍
という者を初めて目にしたはずです。一目で分かる上等の羽織に身を包んでいました。衣服には無数の刀傷と
汚れがありましたが、それを含めても、位の高さと威風を感じさせる井出たちをしていました。銀の髪と、細
く鋭い瞳に、私は思わず息を呑んだのを覚えています。その先頭を行く者の後を三人の従者が付いています。
このような村に、その人数で行軍に参ったと言うわけでもないでしょう。なにせ手負いのようですから。ある
いは村を滅ぼしに来たのか、そんな事を思いながら、私達は田んぼ道を進むお侍さん一行の背を見送ります。
彼らの乗る馬の向っていく先には、あの、大きな寺院がありました。
それから昨日の朝方早くになって、家の戸を村長さんが叩きに来ました。目的は、傷付いた彼のお侍さんをこ
の村で匿う事にしたという報告です。普通、お尋ね者を村に置くか否かは村人全員で話し合って決める事です
が、村長は従ってくれと言って頭を下げただけでした。私達は、戸惑いながらもそんな村長の異例の決定に従
いました。そうする他にありません。話がそれで終わればよかったのですが、朝一番に村長が我が家を訪れた
のには、やはりもう一つ理由がありました。私に、お侍さんの怪我の治療と面倒を見て欲しいというのです。
人の良い村長からの直々のお願いでした。でしたので結局拒めず、少しならばと、私は渋々それを承諾したの
です。そして今日。お侍さんが療養しているという寺院へと、私は向っていました。先程沢で掬った水と、村
の方から受け取った彼の食事を手に寺院の中へ足を踏み入れると、そこはまるで別世界でした。人気もなく、
完全に隔絶された時を刻んでいるような。私は初めて入った寺院からの眺めに驚き、暫し立ち尽くしていまし
た。するとふいに、私の首に刃が当てられました。
  
「何者だ」  
 
後ろを振り返らずとも分かりました。あの、銀の髪を持つお侍さんです。私の頭には、馬に乗ってこの村にや
って来た時に見た、お侍さんの鋭い瞳が思い出されます。彼の声は想像してよりも一段、低いものでした。首
元にひやりと、冷たい感覚がします。見たことも触れたこともありませんが、それが刀であろう事は分かりま
した。彼の鋭い瞳と同じくらいに、鋭利な刃物です。初めて人に殺意を向けられた気がしました。抵抗をせ
ず、私は言葉を紡ぎます。切り捨てられるのはご免です。 
 
「今日より、怪我の治療と世話を任されました。と申します」
「此処に立って、貴様は何をしていた」
「眺めに、目を奪われていただけで御座います。食事に毒を盛ったり等といった事は決してしておりません」 
 
まだ当てられたままの刀を無視して、私は懐から竹筒と笹に包まれた握り飯を取り出しました。それを見て、
一応は何もしていなかったと納得したようです。お侍さんは刀を引いて下さいました。代わりに付いて来いと
言って、背を向けて歩き出してしまわれました。彼は長い廊下を、随分と速足に進んでいきます。だというの
に、追いかけるのに精一杯な私を振り返ることは一度としてありません。お侍さんとは、斯様に朴訥とした方
ばかりなのでしょうか。先を思いやられます。それから暫く行った所で、お侍さんは立ち止まりました。角部
屋の、一つある障子の前に立つと、そこで初めて遅れてくる私を振り返りました。それに気づき、慌てて申し
訳御座いませぬと一つ、謝罪の言葉を述べます。早々に障子を開けて中に入ると、続いて入ってきたお侍さん
が部屋の中央に無言で座しました。私はそこで、先程の竹筒と握り飯を差し出します。
  
「お侍様には申し訳御座いませんが、この村の者は皆飢えていて、食べ物も満足にありません。貧しいです
が、どうかご容赦ください」  
 
お侍さんに、頭を下げます。膳など、此処にはありません。酒を煽るための杯すらも、村には存在しません。
それらは全て贅沢品です。あったとしても、売る事も出来ないでしょう。村を出て街へ行く事自体が、とても
難しいからです。ここにはここの価値観しかありません。十分にお侍さんを持て成す事など到底出来やしませ
ん。貧しすぎるのです。だから気に入らないと飯を拒まれたのであれば、献上する物はもう何一つ、残されて
いませんでした。額づく私の頭上に、面を上げろとの命が下ります。  
 
「食えれば十分だ」
「ありがとうございます」 
  
面を上げると、そこで初めてお侍さんと目が合いました。鋭く、切れ長の目にはお侍さんの持つという、確固
たる意思が宿っていました。己の信念というのでしょうか。この村において、その様な目をした男は一人もい
ません。私は一目見たときから、彼のその瞳に惹きつけられていました。ここの村人との決定的な違いという
のは、そういった生きる意志の有無なのかもしれません。握り飯を手に取った彼は一口、それを齧って口に含
みます。その握り飯を持つ手が左手だったのを、私は偶然では無いと悟りました。先程向けられた刀を手にし
ていたのも、左の手だったからです。  
 
「一つ。お聞きしてもよろしいでしょうか」
  
握り飯を持った手が、止まりました。寺院の狭い一室に濃厚な沈黙が漂います。一言言葉を違えれば、私はお
侍さんが脇に置いている刀の錆になることでしょう。しかしここで場の雰囲気を読まず、思ったことを口にす
る私ではありません。伊達にこの村で生きているわけではないので、その場に合った事を口にするよう親から
一応の教えは受けています。怪我の原因を聞くのだけは、してはいけない事でしょう。この場合はどうとでも
答えられる質問をするのが一番無難です。 
 
「何故この村に、来たのですか」
 
お侍さんが何の目的でこの地に来たのかは分かりませんが、治療がその目的の一つである事は間違いないはず
です。しかしわざわざ、誰も知らぬ辺境の村に来てまで治療をする必要などありません。考えにくい事でし
た。そもそも、この村の存在自体、あまり世間には知られていないのですから。食料もないこの村に来た理由
など、一つしか考えられません。些か無粋とは思いましたが、慎むよりも早く、私の口からは言葉出ていまし
た。  
 
「死ぬ為ですか」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カラスが鳴いています。山へ帰るのでしょう。鳥は飢えに苦しむ事はあるのでしょうか。二、三日食べること
が無くても、何だかやっていけそうに見えます。人間も少しなら大丈夫そうですが、一月も飢えが続けば骨に
なれます。体力的な面では動物に勝てるところが一つも無い様に思います。非力とは人間の代名詞でしょう
か。あのお侍さんも長らく食べていないような、そんな細さをしていました。しかしどういう訳か、あれだけ
細くても熊でさえも目で射殺せてしまいそうな印象を、私は彼に持っていました。美化のし過ぎでしょうか。
空になった竹筒を持ち寺院を出ると、夕日に染まる真っ赤な田んぼ道が広がっていました。赤い茅葺の屋根が
点々と、山の麓に見えます。かなしみが、私の胸のうちから湧いて出てきます。日が沈めば夕飯です。寝れば
次の日にはまた労働です。私はあと何度、こんな一日を繰り返せばいいのでしょう。果てしない憂愁が私を襲
います。お侍さんはどんな思いで、今この日の入りを眺めるていのでしょう。どんな思いで一日の日の出を迎
えるのでしょうか。そんな事を考え何時の間にか立ち尽くしていた私でしたが、前方に見えてくる影があるこ
とに気が付くと、急いで着物の袖で目を擦りました。訳も無く泣いていたところなど見られたくはありませ
ん。しかし意外にも、夕日を背負って歩いてきたのは、娘を迎えにやって来た私の母でした。逆光になってい
て良く分かりませんが、その顔は心なしか嬉しそうです。理由を聞くと、母はまた少し嬉しそうにして言いま
した。
 
「天下が平定されたらしいわ。徳川家康公が、日ノ本を統べたのだと。これで、少しはこの村も変わるかもし
れないわね」 
 
その言葉を聴いた瞬間、私の頭には先程の寺院であった事が思い出されました。何故かは分かりません。しか
しお侍さんの言葉が頭に蘇ってきます。 
 
「違うッ!!」
 
 
それは地を這うような、まるで世界の全てを拒絶するかのような、そんな強い否定の言葉でした。私は驚きの
あまり、直前に自分が彼に何と言ったのかも忘れて立ち竦みました。彼の逆鱗に触れたのが私の言葉で間違い
はなかったのでしょうが、それ程までに気に障ったのかと、次の瞬間には斬られる事を覚悟したのです。しか
し我に返ったのか、怯える私を見て苦虫を潰した様な顔をした彼は小さく、死ぬためでは無いのだと。言い直
しただけでした。  
 
「生きるためだ」 
 
低く、今度は抑えたような声で熱を吐き出します。彼の負傷した右手は震えていて、私にはそれが怒りを堪え
ているように見えました。誰かへの、強い怒りでしょうか。この村に来る前、彼は負傷していましたから、そ
の怪我を負わせた人に復讐を目論んでいるのかもしれません。しかしどうしてか、私には彼の生きたいという
言葉が死にたいと言っている様に聞こえてなりませんでした。復讐を果たしたら死にたいということでしょう
か。どうであっても、目的のある人間と言うのは強い瞳をしています。羨ましいと思いました。この村にいる
男は、女も皆、一様に覇気の無い瞳しかしていないからです。だから思うのです。天下が平定されようが、こ
の村の一体何処が変わるというのか。戦と無縁であるこの秘境の地に、これからも何かが関わってくるように
は到底思えません。この村は、何も変わりません。これからも時代に遡行していくだけです。

「生きるために、私はこの地へ身を潜めに来たのだッ・・・!!」 
 

戦は、すでに終わっていました。此処の村人達が飢えに苦しみ、八方を山に囲まれた地で田を耕している間
に。食料が無いと言って姨を捨て、作物を盗まれたと言ってその一家を根絶やしにする。そんな、もう滅び行
く村です。悪習に塗れた村に身を潜めに来た等と。それも生きる為にこの村を選んだと。生きる。
私も毎日を生きるのに必死です。それはこの村にいる者達全てが同じです。隣を歩く母もそうです。毎日を必
死に生きています。しかし彼と違うのは、そこに目的が無い事です。死ぬのが怖いから生きているだけでし
た。でなければこの様な地に居続けることなどしません。なのに、彼はこのような僻地にわざわざ生きるため
にやって来ました。目的があるからでしょう。隣を歩く母が言います。彼は敗将、石田三成。この村に落ち延
びてきた、哀れな人間であると。





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