お店に変態が現れたのは昨日のこと。何とか事なきを得たように思うけど、 昨日私に帰るよう言ったおばさんと今日もまた会うのかと思うと気を病んで しまいそうだった。 小言や説教をねちねち言う分、一発で撃退できる変態よりも性質が悪い気も するし、おばさん特有の陰湿さの塊なのだ。考える程に憂鬱になったけれど もうすぐ給料日。たかがババア一人が嫌という理由でバイトを休むのもしょ うもないと、結局私は店へと向かうことにした。 ところが着替えを終えた私がレジに入る前に、店長にお呼び出しを貰った。 それに嫌な予感を覚えつつ、通されたスタッフルームのしけたパイプ椅子に 腰掛ければ、何というか案の定。遠まわしな解雇通知を言い渡された。 「悪いんだけど本社から苦情が来ちゃっててさ。ほら、今って客の声による  影響が凄く大きいじゃない。先日出張で私がいない間にあった一悶着?  あれがどうもねー・・」 冴えない店長の脂汗で汚れたシャツが見ていて汚らしくて、私は話そっちの けで洗濯しろよと心の中でそればかり考えていた。そうしているうちに冴え ない話も終わってしまい、釈然としない心持のまま部屋を後にすれば壁沿い にある厨房のガラス窓からふと視線を感じた。例のおばさんだった。 すぐに相手は視線を逸らしたけれど、向こうからしてみれば小娘が辞めると あって清々しているんだろう。 ああ、私が何をしたよ。これは冤罪だ。あの変態が逆上して難癖をつけてき ただけじゃないか。 それに実は、私は今までだってあのババアの小さな虐めに散々絶えてきてい た。けど、時給が良いのとつまみ食いが出来るのとで我慢だ我慢だと自分に 言い聞かせて続けてきた。だけどもう、こうなると話は別だ。 いっそ今すぐにでもあのババアの居る厨房に特攻して行って、まな板の上で 割腹自殺してやりたい衝動に駆られるけれど、給料を貰ってないうちはまだ 駄目だから、見てろよババア!と復讐を誓って大人しくレジへ戻ったところ で、丁度店の自動ドアが開いた。 「いらっしゃいませー・・・」 声のトーンが身内に不幸があったかのようだったけれど、もう取り繕おうと も思わなかった。 だって私は悪くないのに、こんな終わりかたって果たしてあるのだろうか。 考える程に腹が立つ。こうなったら給料は貰うだけ貰って店の評判を下げる 事に専念するのもいいんじゃないだろうか。しかしそんな復讐プランを企て ながらも実行に移せない現実にはあ、と溜息を吐く。 客の前で思いっきりダルそうにしている店員をどう思うだろうか。それでも 一応お金を貰うまではと、応対すべくレジへと来た客を見ると、何で気がつ かなかったんだろうか。 たった今入ってきた派手な銀の髪を持つお客様は、憧れの石田さんその人だ った。 「し、失礼しました!!いらっしゃいませ〜!!」 元気よく言い直せば完全な裏声になってしまった。 ああ、もう好きな人の前で最悪!と顔を上げられなくなって伏目がちにして 石田さんを覗き見ると、しかし別段気にしている様子はなかった。 考えたら石田さんはこういうことでいちいち笑ったり何だりするような人じ ゃないよね、と思ってこんな時だけ石田さんの性格を有り難く思って畏まっ た態度を元に戻した。いや、でも憧れの人に自分の凄くやる気の無いところ を見られたのは迂闊だった。 「今日も講義が早く終わったんですか?」 誤魔化すように聞けば、石田さんはいつものようにああと言って私を見た。 というか石田さんは私と話すようになってから空いている早い時間帯に来る ようになった気がする。まだ7時前だ。気のせいだろうか。 トングもトレーも持たずに私の前に立つ石田さんはもう完全に自分でおかず を決める気は無いんだろう。 「今日はガーリックチキンのブラックペッパー風味にしましょうか。焼き立  てでおいしいですよ?」 「貴様に一任する」 「はい」 そっけない返事だけれど、私の手の動きをじっと見ている石田さんの目はど こか優しげだ。いつもの目の剣も、この時ばかりは引っ込むのが好きだった 。あの石田さんが完全に一任してくれるのは嬉しいけれど、ふと。 私がバイトを辞めたら彼はまた元の食生活に逆戻りするんじゃないかと思っ た。あと一週間だ。今月が終わり給料を受け取れば私はそれで終わり。 学費を稼ぐためにまた別のところでバイトをしなければならないから、この 店に来ることは無いだろうし、そこで石田さんと顔をあわせることも無いだ ろう。終わりだ。 「・・・石田さん、私、今月末でバイトを辞めることになりました」 どう言えばいいのか分からなくて、とりあえずそう伝えて石田さんの方を見 れば、思ったよりも残念そうに顔を歪めている自分の顔が店の壁にある鏡に 映った。石田さんは驚かずに少し眉を顰めて私を見るだけだった。 「今までありがとうございました。すみません、色々と生意気な口を利いて  しまって。お礼と謝罪を兼ねて今日のおまけはたっぷり付けさせて頂きま  すね」 きらきらとした店の照明がショーケースに反射するのがとても綺麗で、こん な話をするのはそぐわないなあと、真剣な目で見てくる石田さんに苦笑いを 返した。清潔感のある店内が気に入って始めたバイトだったのに。好きな人 も出来たし本当に楽しんでいた。 「私がいなくなってもきちんと3食、バランスよく栄養を取ってください。  せっかく私がご飯まで作りに行ってあげたのに、逆戻りなんて悲しいです  からね」 もし次にたまたま石田さんとどこかで会ったときに、また顔面蒼白のままだ ったら私はもうどうしていいか分からなくなる。 と言っても言うほど出会った頃との違いは無いけれど、それでも栄養のこと を考えると以前よりは絶対に体にいいはずだから、この生活を続けてもらい たい。こんな急に辞める事にならなければ、私がずっと石田さんの料理を作 り続けても良いと思っていたのに。飯炊き女でも、それで石田さんに会える んだったらと。 はい、と。石田さんに包んだ惣菜の袋を差し出す。あと何回このやり取りも 出来るだろうかと思っていると、ビニール袋を受け取った石田さんは突然、 それを投げた。投げ、・・・え?と袋が飛んでいった方を唖然としてみれば それは綺麗な弧を描いて店の隅に置かれたゴミ箱へと吸い込まれていった。 買ったものがその場でゴミ箱へと放り込まれるという初めて見る光景にぽか んと口を開けたままでいると、石田さんが私に向き直って言った。 「ならばこれまで通り、私の飯は貴様が一から作れ」 淡々として紡がれた言葉に、私の頭は現状把握に一杯一杯になる。 何で今投げた?それを考えるよりも私が一から作れとはどういう意味か。 考えたらバイトは終わりだけど、石田さんのメアドと携帯番号は知っている んだから会おうと思えばいつだって会えるわけで。呼び出されたらご飯を作 りに行ってあげればいいし、私自ら連絡して作りに行ってもいい。あ、でも 石田さんが食べたいと言ってくれればなんだけど。 つまり、今石田さんが言ったのはそういう意味なんだよね、と自問自答して いると、急にカウンターへと身を乗り出してきた石田さんがその腕を私へと 伸ばしてきた。すぐさま顎を捕られ、石田さんの端正な顔との距離がぐっと 近づけられた。2寸あるか?という距離に心臓が発作を起こしそうになる。 これはあかんと顔が赤くなるやら焦るやらでうろたえる私に、低く重い声が 囁かれた。 「今日は貴様を買う」 言われたその言葉の意味を理解するよりも、私の頭と心臓は許容範囲の限界 を超えて壊れそうになった。もう駄目だ!!!と脳が叫んだのを皮切りにし て、私はこの場を何とか逃げるために唯、声の限りに思い浮かんだ事を叫ん だ。 「ぷ、プライスレスッ!!!!」 石田さんを突き飛ばして店の奥へと猛ダッシュする私。限界だ。限界。 変なことを叫んだけれど、心臓はバクバクと鳴っていてそれどころじゃない し、他に客がいて聞かれていなかったのが幸いだった程度。 店に残された石田さんがどうなったかなんて知らない。しかしこちとらこん な状態でこの後もバイトを続けられる訳が無い。もう今日は帰るしかないと 泣く泣く、給料日前に早引きの決断を余儀なくされたのだった。 店の裏口から逃げるようにして家に帰っても赤いままの私の顔が鏡に情けな く映ったのを見たときには、もう抑え切れなくて、八つ当たりがてら心の中 で彼へと叫んだ。 石田さんの野郎おおおぉぉぉぉ!!!!! 責任とれやああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!! ライフカード、どうする私!?