彼に黙って、バイトを辞めてしまった。
石田さんとあんなことがあった次の日に顔をあわせるのがとてつもなく恥ず
かしくなってしまい、思い出すだけで顔が赤くなるようじゃ仕事が手につか
ないと一日休んだらその次の日は更に行きづらくなってしまった。
そうしてその次の日もとずるずる休みが続いていき、そのうちに契約期間も
終わってしまい、私の手元に残ったのは給料の入った袋だけになってしまっ
た。ああ、やばい!!無断欠勤を謝りたいけどでも今更!!
そんな心境のまま石田さんに連絡も入れられず、バイトを辞めて既に一週間
が経ってしまった。私ってば何て馬鹿。
気になっていたお客さんとあれだけ仲良くなれたのに、実際にそういう関係
の一歩手前までくると受身な態度になってしまうのが仇となった。
好きになったのは自分からな上にあれだけアタックもしておきながら、何を
今更恥ずかしがるよ。
考える程に落ち込んだけれど、今回の一番の犠牲者兼被害者は石田さんだ。
連絡一つ寄越さずに逃げるようにして辞めた私のことなんて、もう大嫌いに
なっているに違いない。あ、想像したら泣きたくなってきた。
それでもやっぱり一度、石田さんにはきちんと謝りに行くべきだと思った。
今回の騒動で私を変態から守ってくれたのは石田さんだし、その後におばさ
んの嫌味から擁護してくれたのも石田さんだ。
私のせいであの店に行きづらくなったことは間違いないだろうから、嫌がら
れたらそれまでだけど、とにかくお礼と謝罪はしに行こう。あと、ついでに
顔色と、ちゃんと食べているのかの確認も兼ねて。
そうしてとりあえずと、石田さんの絶対家に居る時間、夕飯時を狙って家に
突撃訪問してみることにした。
ピンポーン。
たかが一週間かそこら訪れていなかった程度なのに、チャイムの音が酷く懐
かしく感じられて石田さんの家に来たんだなあ、と実感した。
といってもそんな悠長なことを考えて思い出に浸っていられるほど私の頭も
心臓も落ち着いてはいない。
こう言っては何だけれど、チャイムを押した直後には激しい動悸に襲われた
し、今にも口から胃か心臓が飛び出てきそうだった。
今ならまだ帰れるけどどうしようかという後悔の念や、石田さんに会いたい
けど謝るのが目的なら作ってきたおかずを置いておくだけでいいんじゃない
かとか、思考は負の渦潮へと巻かれていき、もう帰ろうよ!!と頭が破裂し
そうに叫んだ時、目の前のドアは開いてしまった。
「あ、どうも。こんばんはー・・・」
玄関のドアの前で頭を抱えてうずくまる女が一人。
変質者決定だ、と思いつつ見上げたドアの向こうにあった端正な顔が私をじ
っと見てくることに気恥ずかしさがこみ上げて、すぐさま目を反らした。
一週間ぶりの彼の顔は変わってなかった。少し驚いたような顔で玄関の重た
いドアを支えて固まっている。やっぱり突然私が来たから今更何の用だと怒
っているのかもしれないと恐々、石田さんを覗き見るとばっちり目が合って
しまった。
と同時に、石田さんは突然座り込んでいた私の腕を強引に掴んでそのまま家
の中へ引きずり込もうとした。
「きゃあああああああ!!!!何何何なになに何ですか!!????」
「五月蝿い!!黙れッ!!!!」
石田さんの鬼のような気迫に圧されて、このまま家の中へ連れ込まれれば生
きて出て来ることが出来ない様な気がして、必死で足を踏ん張って抵抗を試
みるけれど所詮は女。男に力で敵うはずも無くそのままずるずると玄関の敷
居を跨ぎタイルに足が到達してしまった。
「分かりましたから!!逃げませんから手を離してください!!」
そう言えばようやく腕に篭められた力は和らいだけれど、靴を脱ぐ間も依然
として左の二の腕は掴まれていた。二の腕は掴まれると痛いんだぞ、と訴え
たくなったけれども勿論そんな事を言える雰囲気は微塵も無い。
逃げないって言ったのに、全く信用していないらしい。まあ、当然かもしれ
ない。先に連絡を入れずに姿を消したのは私だ。
無言で私を睨んでくる瞳が早くしろと急かしてくるのに応えるようにして靴
を脱ぎ、足がフローリングに着いたのを確認して、石田さんは私の手を引い
て奥の部屋へと進んだ。そこは以前、私が夕飯を作る間に石田さんが待って
いた場所で、一緒に夕飯を食べた部屋でもあった。
「2日、何も口にしていない」
「え・・・?」
私の手を離した石田さんが向き合って言った。
その表情があまりにも感情を映していなかったために、私はいまいち何を言
われたのかしっくり来なくて首を傾げてしまう。
石田さんは二日間、何も食べていない。
そう頭の中で言い直し、意味を理解して気づいた。え?それってやばくね?
だって二日間何も食べていないというのが今日を含めてなのだとしても、今
は夜の7時だから、これで何も食べなかったら明日は絶食生活三日目になっ
てしまう。もう石田さんは仏教徒になった方がいい。天職だよ。
「貴様が作れ」
「って!私は飯炊き女じゃないんですよ!」
手を掴んでまで私を中に引き入れた理由はそれかい!と此処まで来て第一に
飯と言う石田さんに脊髄反射で怒鳴り返すと、ならばその手に持ったのは何
だと逆に返された。おかずを持ってきたのがばれてしまった。目敏い。
「あー・・・、うー・・・・・台所、借ります・・・」
此処に来た理由の一つにご飯を作りに来たことがあるため、飯炊き女と言わ
れても弁解のしようがない気がした。
じっと見てくる端正な顔に耐え切れなくなって、気まずさを隠すためにキッ
チンへと逃げるようにして入る。どうせこれも惚れた弱みだ。
溜息を一つ吐いて気合を入れなおし、持ってきたエプロンを身につけてさあ
やるかと意気込んで味噌汁に入れる具のキャベツをちぎり始めると、不意に
後から伸ばされた手が私の体を包み込んだ。鎖骨の辺りを、もう一方は胸の
下に回されている。
「・・・・・え、あの、・・・石田さん」
「動くな、逃げるんじゃない」
抱きしめられてる。
しかも手が絶妙な位置にある。心臓が一気に早くなり心拍数が急上昇するの
を感じた瞬間、持っていたキャベツはキッチンの流しへと落ち、私の顔は火
を吹きそうなほどに熱くなった。茹蛸になっているに違いない、口が一気に
渇いていくのを感じる。固まる私が次に感じたのは自分の背中に当たるもう
一つの体温だった。
うそ、石田さんが、くっ付いてる・・・・・!!
近さに気づいた同時、首元にさらりとくすぐったい感触がして逃れるように
反射的に首を捻れば、そこに更に強く、石田さんの顔が寄せられた。
待って、本当に待って。これは一体どういうこと。
「あ、の・・・っ!!」
「動くなと言っている!離せば貴様はまた逃げるだろうがッ!」
「逃げますよ!!これは逃げますよ!!!誰でも!!」
「ならば此処から出られぬようにしてやる!」
「いやいやいや!!!それ監禁ですから!」
耳元で怒鳴るのは止めて欲しいけれど、甘い雰囲気なんてもっと耐えられな
いからこれでいい。ぎゃあぎゃあと色気無く抵抗して吼えれば、石田さんは
まんまと乗せられて同じように言い返してきた。
よし、この隙にこの抱きしめられた状態から抜け出そうと体に回された石田
さんの腕を掴むと、しかしかなりの力で固定されていて中々抜け出せない。
二日間食べて無い人間の体力じゃねえよ!と憤りを感じていると、私がしよ
うとしていることに気づいた石田さんが私の腰を捻って回し、向かい合う形
にして抱きしめ直してきた。あろうことか、悪化!!!
「きゃああ!!もう本当、ちょっとー!!」
「だから逃げるなと言っている!!」
さっきよりもがっちり抱え込まれ、私の体は石田さんの体とぴったり合わさ
っている。お互いの体の輪郭が分かってエロイ、とかいう問題じゃない。
いや、そんなことを考えてる私がエロイのか、まあそれはともかく、あまり
の至近距離に恥ずかしくて爆発できそうだった。いや、できる。
しかし抵抗することに散々力を使い、おまけに抱きしめられた腕の強さにぐ
ったりとしてきた私は、石田さんが首に唇を寄せるのにも抵抗できなくなっ
ていた。恥ずかしいけれど、それよりも疲労が勝っていた。
そんな大人しくなった私を見て石田さんが声を落して言った。
「こんな時間帯に男の家に来ることに疑問を抱かなかったのか」
「・・・いえ、以前も来たことありましたし、その時だって何もありません
でしたから・・・。それに石田さんなら大丈・・・」
大丈夫だと思って、と言いたかったのだ。本当は。
だけどそれを言う前に石田さんのキスによって口を塞がれて、呼吸ごと奪わ
れてしまった。絶対に分かってて言わせないためにやったんだと思う。
口はすぐに離され、石田さんは私の顎を掴んで腰を強く抱き寄せた。
「帰れると思うな」
そしてもう一度、口が合わさった。
貪るような口づけに私の体は仰け反りキッチンのシンクへと倒れそうになっ
たけれど、石田さんが腰を支えてくれているおかげでその心配は無かった。
恥ずかしさも此処まで事が運ぶとどこかへ飛んでいってしまうらしい。
激しい口付けがだんだんと優しいものに変わっていく頃には私の腕はしっか
り石田さんの背中に回っていたし、逃げようとすら思わなくなっていた。
やっと離された口から銀糸が伝うのを石田さんが噛むようにして舐めとった
後、私の体は石田さんに委ねられた。力ない私は抱きかかえられ、姫抱きに
されてより奥の部屋に運ばれていく。その際に見えたキッチンの惨状、流し
台に四散したキャベツたちを哀れに思いながら別れを告げる。
ばいばい、可愛いキャベツ太郎たち。
「石田さん、今日の味噌汁キャベツが無しになっちゃいます」
「明日また作ればいい」
いや、明日の分のキャベツは無いですよ、と返すとそうでは無いとすぐさま
否定された。その言い方は根本的にそういう意味で言ったんじゃないと言っ
ているようだったけれど、お馬鹿な私は石田さんの本当に言いたいことを察
することなんて出来なくて首を捻るばかり。
「・・・どういう意味ですか?」
素直に尋ねると、自分から言葉を否定した石田さんは何故か答えるのが嫌と
言いたげに眉をひそめた。その表情にようやく本来の石田さんが見れたよう
な気がして内心気持ちが昂ぶる。
やっぱりこの顔だよね、と答えを待っている間に石田さんの顔を眺めている
と、ベッドに下ろされたと同時、意を決したように石田さんが口を開いた。
「・・・・私のために、毎日味噌汁を作れということだ」
歯切れ悪く小さな声で言ったそれが、色々と普段の石田さんからは想像が出
来ないほどに可笑しくて、抑えきれずに吹き出してしまうとやっぱり彼は眉
を吊り上げて不機嫌そうにした。
それから仕返しとばかりに顔を近づけてきたから、目を閉じる前に石田さん
の耳元で私も返した。
「おかずはたまに手抜きでも、許してくださいね」
お後がよろしいようで。
デ リ カ テ ッ セ ン !
fin
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