私はその時、訳が分からなさ過ぎてパニックに陥っていた。
嘘だろ、嘘だと言ってくれ。頭の中でそう繰り返しては自分に言われた言葉
を否定していた。しかし目の前の男にもう一度今の言葉を「聞こえませんで
した」と言って聞き返してみると、その男は先ほどと同じ言葉を繰り返すも
のだから、とうとう認めざるを得なくなってしまった。
「二万でどう?」
何が、なんて野暮なことは聞けなかった。
いやもう、それどころじゃなかったのだけど。
今日も元気よくバイトに来た私は、そういえばそろそろ給料日であることを
思い出してわくわくしながらエプロンを身につけた。
まだまだ6時頃ではお客様が少ないから、厨房のお手伝いやガラスケースの
水拭きなんかをしたりして過ごしていたのだけれど、作業する体に反して頭
の中は石田さんのことで一杯になっていた。昨日の帰り際、なんと石田さん
に呼び止められて携帯番号を教えてもらった。
やばい、嬉しすぎて死ねる。
まだ一度もメールを送って無いけれど、石田さんには毎日会えるのだからそ
んなに急ぐことも無い。
そんな石田さんの今日のお夕飯は何にしようか。私も一緒に食べるんだった
ことを思い出して、顔がにやけてしまいそうなのをえへん虫で誤魔化すと、
店の自動ドアが開いてお客さんが入ってきた。
慌てて店員モードにスイッチを切り替えて営業用スマイルを浮かべて、いら
っしゃいませを言うと、男性客は私の居るカウンターへと真っ直ぐにやって
きた。何事かと思い、頭にはてなを浮かべる私を凝視するかのように見てき
たその男の人の目は据わってしまっていた。
あ。やばい。直感で店長を呼ぼうかと考えたけれど、今日は出張だったこと
を思い出して内心舌打ちをする。げげ。
「二万でさ。どう?」
その言葉の意味を分かってしまった私は穢れているのか。
それよりもこれはセクハラなのか。いや違う、痴漢だったか。いや、触られ
ては無いからこれも間違いだ。あれだ、変質者だ。ナンパなんてもんじゃな
いぞ。そう考えても、だからどうしたという結論にしか至らないわけで、
もう本当にどうしたらいいのか分からず私は固まるのみだった。
「ね、どう?」
こういうのはまともに返事をするだけ駄目なんじゃ無いだろうかと思い、厨
房の奥に居る調理係の人を呼んで来ようかと思いついたけれど、その前に私
の手は男に掴まれてしまった。あかん。
絶体絶命だと声を上げようとして口を開けば、それも虚しく、完全に男の存
在に怯んだ私の喉は引きつってしまって声を出せる状態ではなくなっていた
。男の据わった目が私の顔を凝視しながらカウンターを乗り出して近づいて
くるのに、いよいよ怖くなった私の体は動けなくなってしまい、もう何もか
も終わりなんじゃないかと思った。すると突然低い声がした。
「その手をどけろ」
男の後ろに銀の髪が見えて、声からそれが石田さんだと分かった。
ああ、もう神様、仏様、石田様。そんな祈るような気持ちで石田さんを見れ
ば、石田さんは私の手を掴む男の手を無理矢理引き剥がして胸倉を勢いよく
掴んで引き上げた。
その一連の力強い動作に石田さんがヒーローに見えて惚れそう。と思ったら
もう惚れてたことに気づいた。
見当違いな事を考えながらも対峙した二人を見続けていると、石田さんは
「下衆が」と相手を吐き捨てて素晴らしい眼力で持って相手を睨みつけた。
それはいつもの私へ向けられる睨みの比では無い恐ろしさがあった。
と、相手の男が突然発狂したかのように奇声を上げて石田さんを突き飛ばし
た。少しぐらついた石田さんが男の手を離してしまった隙に、そいつは店を
飛び出すようにして出て行った。
俺は客なんだぞ、とか電話を掛けてやるから覚えとけよ、とか何とかどこぞ
の負け犬の捨て台詞を吐いていた。ださい。
「ありがとうございました・・・」
嵐が去ったかのように落ち着き払ってしまった店内に私の声はよく響いた。
まだ男が出て行った後のガラス戸を睨んでいた石田さんは、私が言ったその
言葉にようやく見るのを止めて、こちらに顔を向けた。
「本当に助かりました」
お礼を言って頭を下げると、石田さんは何を思っているのか。無表情に私を
見つめたままで黙っていた。何か喋れよ、と思いつつ何故か気まずい気持ち
になった私は、怪我をしていないかをとっさに思いついて尋ねようと口を開
いた。だけどその時、先程の男の奇声にようやく何かあったらしいと気づい
た厨房係の人が売り場の方へと出てきた。
「ちょっとさん!」
白い割烹着をそのままに奥から出てきたのは、この店では古株といわれてい
る調理係のまとめ役をしている人だった。カリカリしているのが一目で見て
分かる。店長でも頭が上がらない人の登場に、何を言われるかと冷や冷やと
して言葉を待った。
「何?何かあったの?問題があったら呼べって言ったでしょ?」
案の定、お説教かと聞く耳すら持ち合わせていない人を前にしてこれまでの
ストレスがどっと出てくるのを感じた。中年ババアめ。
それを隣で見ていた石田さんが口を挟んで私を庇ってくれる言葉を言った。
だけど正直、疲れていた私はその人と石田さんのやり取りをあまり覚えてい
なかった。何だか疲れのせいでお小言も経緯の説明も庇い立ての言葉も今の
私にはどうでも良かった。
そうして暫くして二人の話に決着がついたのか、まとめ役の人が私に向き直
ると言った。
「じゃあもう今日はいいから。上がってちょうだい」
その口調が怒りからなのか私の身を心配して発せられたのかは分からなかっ
たけれど、とにかく私はそれにはいと答えるしかなかった。
あーあ、給料日前なのに問題発生か、と落ち込む気分のまま、下の床を見た
状態でロッカールームへと向かい着替えて店を出ると。
外の看板前に石田さんが立って待っていてくれた。
口を硬く引き結んで腕組みをしていたけれど、変わらない無表情を見た時に
今さっき起こったことが急に馬鹿みたいに思えてきた私は、小さく笑って彼
の側へと走りよった。
「着替え如きにどれだけかけている」
私の姿を確認した石田さんの第一声はお小言だった。
先程のことで少し気落ちしていた私はすみませんと素直に謝ってみた。本当
はもうそんなに気にしていなかったけれど、石田さんがなんと言うか気にな
った。
それを石田さんは見事に面食らったような、難しそうな、苦そうに眉を寄せ
た表情をしてこちらの思惑に引っかかってくれたものだから、私は内心ニヤ
ニヤとしてその顔を眺めた。焦ってる焦ってる。
だけど次の瞬間、突然石田さんは無言で私の手を取ってきた。驚く間もなく
そのまま歩き出してしまい、私は半ば引きずられるようにしてその横を歩か
される羽目になる。
「・・・店を辞めろ」
「え?!や、そんな急に極論を言われましても・・・」
歩きながらそう返すと、私の返事を気に食わないと思ったのか、握る手に力
が篭められて骨が痛くなった。
ガリガリの腕の何処にこんな力があるのかと本気で思う。だけど石田さんが
彼なりに私を心配して言ってくれた事だからと、甘んじてその痛みを受ける
ことにした。しかし家計の都合があるのだから、石田さんの言った通りにそ
う簡単に仕事を止める事は出来ない。自分の身の上は結構シビアだ。
こんな事、石田さんには言えないけれど。
黙って歩くのも何だかなあと思い、そこで空気を変えるべく別の話を振るこ
とにした。
「今日のお夕飯、途中で店を出てきちゃったのでありませんけど、どうしま
す?」
今日はコンビニだとかで適当に買って済ませることになるんだろうか。
だとしたら別に私が石田さんの家まで行って作る必要は無いんだよな、と思
い少し寂しく思っていると、少し考えた後に石田さんが口を開いた。
「全て貴様が作ればいい」
そうして石田さんの家に着くまで繋がれたままだった手に、何故か私は泣き
そうになるのだった。
もう石田さん、大好きだ!ありがとう!!
用はなくとも傍にいろ
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