積乱雲が天を覆う。アスファルトの熱気が空気中の湿気と混じって、何とも不愉快だった。 遠方より段々と近づいている雷鳴に比べたら、蝉の方が何倍も良いかもしれない。早く帰ろ う。夕頃に俄雨があると天気予報が言っていたのに、それを無視して洗濯物を干しっぱなし にしてきた。濡れても良いと思っていたわけでは無いけれど、どうでもいいと思っていた節 があるのは否定できない。だから折り畳み傘も鞄に入れてこなかった。大学の講義が終わっ たと同時、私は走って帰途に着いた。午後3時過ぎとは思えない暗さ、街を行く人の姿はま ばらで、皆が建物の中に入ってしまっている事が伺えた。家に着いたのはそれから30分 後、どうにか降り出す前に帰ってくることが出来た事にほっとし、鞄から家の鍵を取り出し たと同時。とうとう雷が落ちた。慌てて玄関に入りドアを閉めれば、雷の音は幾分か小さく なったけれど、停電のせいで電気を付けることが出来なかった。幸いブレーカーは玄関にあ ったので、落ちてしまったレバーをを引き上げて電気を付けるだけでいい。と、何故か。一 人暮らしの私にタオルを差し出す手があった。靴を脱いでいた手を止め、顔を上げる。 「お帰り、」 白くて小さな手。子供にしては落ち着いた口調。老成したと評する者がいたそれは、私が良 く知っている子供のものだった。どうして此処に、そう聞くよりも、あの日置いていった事 への謝罪の言葉を述べるよりも早く、私は鞄を投げ出し子供を抱きしめていた。 -- 「紅茶は飲めるかな・・・?」 「こう茶?それは何だい?」 驚いた。振り返ったすぐ後に半兵衛が立っていた。台所は火があるので危ないから、向こう でソファに座って待っていてと言ったのに。そうは思いつつも、私が手にしている紅茶のパ ックが入った缶を興味深そうにして覗き込む瞳を見ると、あまりの可愛らしさについ叱ろう と思っていた言葉も喉の奥へと引っ込んでしまう。背が足りないせいで台所のシンクに手を ついて、背伸びをしているのが可愛い。 「・・・南蛮のお茶と言った方が分かりやすいでしょうか。赤色をしてるんですよ」 「赤いお茶?・・・怪しい気がするね」 「ふふ、試しに淹れてみましょう。受け付けないようでしたらいつものお茶に戻せば良いん  ですし」 「うん、じゃあに任せる」 怪しさに傾げられていた首がこくりと頷いたところで、再度危ないので向こうに行っている ようにと促す。分かったよ、とどこか不服ながらもしょうがないと言いたげに返事をして、 半兵衛はソファへと戻った。浮いてしまっている足を小さくバタつかせている。袴から覗く 足袋の小さいこと。可愛らしい。半兵衛、半兵衛だ。まだ夢でも見ているんじゃないだろう か。どうにもその思いが拭えなくて、私は沸騰を知らせるやかんの音も耳に入らず半兵衛を 見つめた。 「その五月蝿いのは止めなくていいの?」 私が見ていることに気づいていたと、子供らしからぬ含み笑いを浮かべた半兵衛が顔だけを 向けて言う。我に返り恥ずかしくなった私は、「止めます」と苦笑い。しかしどうにもこの 半兵衛、子供らしくない気がした。老成した雰囲気はいつものことだけれど、更に思う。 「ここは見たことの無いものがたくさんあるね。一体どこなんだろう?」 「え?半兵衛、分かってるんじゃなかったの?」 室内は薄暗くて、そのせいで半兵衛の色白の肌は余計に儚く朧に見えた。表情も分かりにく い。電気を付けないのは眩しいのが好きでは無い半兵衛のため。しかしそれだけ暗い中でも 半兵衛の瞳が驚きに見開かれたのが分かった。私はそこでようやく、口をついて出てしまっ た自分の言葉を思い返し気づいた。 「・・・失礼しました」 「いいよ。そのままで」 「で、でも」 「の敬語は、拙くてとても聞いてられないからね」 取っ手があるのに、紅茶のカップを湯飲みに見立てる様にして両手に持つ半兵衛は、その中 身に興味深そうに視線を落としたままで語った。嫌な顔をしていないところを見ると、どう やら紅茶が嫌いでは無いらしい。その横で、急いで帰宅する事になった目的である洗濯物を 取り込む私。ベランダからでは半兵衛の言葉は聞き取り辛かったけれど、嫌味はきちんと聞 こえてしまうものだから困る。 「冗談だ。の素が見れて嬉しいだけだよ。だからそのままでいい」 半兵衛はふっと、気が抜けたかのように笑った。そしてまた視線を私から部屋のどこかへと 向けてしまう。その仕草に私は再度思う。半兵衛は確かに老成していて子供っぽくは無かっ たけれども、今のような含み笑いや、まるで過去を重ね見るかのような目はしたことがなか った。それは子供の証でもある。なのに。成長だったとして、三ヶ月会わなかっただけで、 ここまで変るものなんだろうか。 「半兵衛、は。本当に半兵衛なの・・・?」 訳の分からない質問になってしまっていた。ただ、どうやら半兵衛に言いたい事の意味は伝 わったらしい。部屋の壁に貼ってあるカレンダーや写真、時計の針を興味深そうに眺めてい た横顔が私に向く。その表情は諦めとも呆れともつかないものだった。 「・・・・元の僕は、もうとっくにいい歳なんだけれどね。体だけ子供だなんて、一体どう  いう皮肉だろう。神とやらも随分なことをすると思わないかい?」 「・・・・」 せっかく君に会えたっていうのにね。そう言って私を見る半兵衛は、だけど言葉に反して楽 しそうに微笑んでいる。自分の事よりも、私に敢えて嬉しいのだと言っているようだった。 それは素直に嬉しい。だけど、そうなると今私の目の前にいる半兵衛は、私の知っている年 齢の半兵衛では無いということになる。一体、今はいくつくらになるんだろう。不思議なこ ともあるものだ。まだ完全には乾いていないタオルを手に、考え込む。 「奇妙だ。気付いたら、いつの間にかこの場にいたんだ」 全ての洗濯物を取り込み窓を閉めた私がレースのカーテンをすると、その様子をじっと見て いた半兵衛が言った。しなければいけない事を終えた私は半渇きの洗濯物が入った籠をその 場に残し、半兵衛の座るソファの隣に腰掛ける。腕が当たるほどに、半兵衛の近くに寄る。 何が起こっているんだろう。半兵衛と、私に。 良く分からないのは私が半兵衛のいた世界に飛ばされた時からだけど、こんな神様の気まぐ れのようにして再会することがあるなんて。それもそれで、何と言うか。嬉しいんだか、悲 しいんだか。中途半端な気持ちだ。別れ方が、別れ方だっただけに。今更謝るのも遅すぎる 気がしてしょうがない。二人で口を閉ざしたままでいると、暫くして半兵衛が頭を私の肩に 乗せてきた。雷鳴はもう、聞こえない。半兵衛の白い髪を撫でる。 「明日、晴れたらどこかに行こうか」 ねえ、半兵衛。と小さな肩を抱いて引き寄せると、簡単に私の方へと倒れる体。動く様子も ないのを良い事に、そのまま胸のうちに抱きしめた。されるが儘にもたれて来る半兵衛が可 愛い。くぐもった声が、心臓のあたりから洩れ聞こえる。 「の好きな様にしていいよ」 一瞬、心臓が止まる。 別の意味も入っているような、そんな風に聞こえる一言だった。それをまた、敢えて無視し ていつかの時のようにはぐらかすか、それとも今度は受け入れるのかは全て私次第だった。 あるいは、半兵衛が言ったのはそんな複雑な事ではなく、純粋に私の言った事に対する返事 だけだった可能性もある。頭の良いこの子は、どちらにでも取れるように言葉を返すときが あるので困る。時にすると数拍だが、私はその間に随分と迷った。言葉を選びかねていると 私の胸に頭を埋めていた半兵衛が顔を上げた。見上げる瞳は分かっていると言いたげに微笑 み、私を助ける言葉を紡いだ。 「ここには僕の知らない珍しい物がたくさんあるようだし、飽きないだろうね」 楽しそうに微笑む。子供の顔を取り繕い、無かった事にしてくれる。三ヶ月前まで私が見て いた半兵衛は、答えをくれない事に泣いてぐずる事はあっても、私を困らせないように逃げ 道を用意してくれるような事はしなかった。ああ、今私の前にいるこの彼は、半兵衛は。 大人なんだ。そう思わせられた。しかも私なんかよりもずっと、賢くて気の回る。申し訳な いやら面目ないやらで、半兵衛の顔を見ていられず自分の顔をうつむける。と、頬にひんや りとしたものが当てられた。手だった。半兵衛の、小さな手。 「君と一緒にいられるなら、僕はどこでもいいんだよ」 優しい声と微笑み。半兵衛を置いて嫁いでしまった私を許す小さな手。頬を撫でるその指の 冷たさに、私はたまらず懺悔したくなるような強い罪悪感に襲われた。一度として半兵衛が 求める答えをあげる事が出来なかったのに、それでもこうして未だに私を慕ってくれている 事に、申し訳なくなる。こんなのが、半兵衛の母親代わりでもあったなんて、と。 「僕はもう、大人だ」 「・・・」 「泣かないし、駄々を捏ねて君を困らせもしない」 私の肩に顎を乗せているせいで表情が分からなかったけれど、声音から、子ども扱いするな という意味と、全て分かる年になったのだと、聞き分けの無い行動を取る子供では無いと自 分の事を言っているのが分かった。言葉こそは立派なものだったけれど、だけどその体は子 供の頃の半兵衛なわけで、声も勿論幼い時のままだ。どうにも感情が表に出やすいらしい。 だけど、と続けた声が、少し震えていた。 「君がいい」 返事に惑う、いつかの言葉。それでも、この瞬間が夢だったとしても、優しい夢だと思っ た。半兵衛が泣いていないのだから。彼はもう子供ではない。テーブルに置かれたカップ。 中の紅茶はもう冷めてしまっているだろうけど、夢でもまだ、今は覚めないでほしいと思っ た。 「ありがとう、半兵衛」 ようやく言う事が出来た。 頬笑む私に、半兵衛も頬笑みで返してくれた。優しく。