「おはよう、」 柔らかな、白い髪が視界に入る。陽の光りが入らない暗い室内で目を覚ませば、隣には半兵 衛がいた。私が昨日貸してあげたピンクの花柄のパジャマはぶかぶかで、襟元の乱れも手伝 って鎖骨の辺りまで見えてしまっていた。艶めかしいけれど、それが夢ではないのだと私に 教えてくれる。同じベッドで寝起きするのは随分と久しぶりで、よくお昼寝の添い寝をして あげていたことを思い出した。またこうして、あの時の様に一緒に枕を並べられる日が来る なんて。おはようと返す自分の声は掠れていて、少し恥ずかしい。 「朝ご飯、食べる?」 「いや、まだいい。お腹が空いてない」 「そっか」 横になったままでこちらを見る半兵衛の頭を一撫でして一旦上半身だけを起す。壁にかかっ た時計を確認すれば、針は朝の6時を示していた。今日は幸運にも大学の講義が無いので、 一日中半兵衛の相手をしてあげられる。午後にはゆっくりお散歩でもしようか。それならば 天気予報を確認しよう。そう思いベッドの脇にあるテーブルへと手を伸ばし、リモコンを手 に取ると。テレビの方へと向けたと同時、半兵衛のそれは何?という質問が飛んだ。 「テレビを操る、えっと、リモコンは・・・」 「りもこん、てれび?」 何と言って説明をすればいいのか。半兵衛は言った事を確実に理解をしてくれる程には頭が 良いので、中途半端に教えることが出来ない。適当な事を言っても質問攻めにあって撃沈す るであろう事は過去に嫌というほど経験しているので、これ、とだけ言って実物を指で示し た。半兵衛の頭がベッドの足の方、壁際に置かれた棚の上を向く。リモコンの電源ボタンを 押せば、本体に映し出されるアナウンサー。丁度よく天気予報がやっていた。 「箱の中に人がいる・・・というわけではなさそうだね」 「遠くの人と情報を交わしたりするカラクリって言えば分かりますか?」 「ああ、それだったらなんとなく」 言って、半兵衛は食い入るようにテレビを見た。ここでは随分先の天気まで見通せるんだね とぽつり言う半兵衛の声には驚きが滲んでいる。感心しきりだ。適当に返事をしているうち に天気予報は終わってしまい、特に見るものが無くなった。消すね。そう言おうとして再び リモコンを手に取るけれど、ふと見た半兵衛のテレビへ向けられた視線が真剣そのものだっ たのを受けて、言葉は喉の奥へと引っ込んでしまった。楽しそうだし、邪魔をしては悪いだ ろう。そっとベッドを出ると、私は二人分のお茶を入れに行く事にした。ホットミルクも良 いけれど、飲み慣れないものは胃に悪いのでまたの機会にしよう。そう決めて茶葉の入った 缶を手に取った。 「どこに行ったかと思った」 「あれ。・・・半兵衛」 二回折ったにも拘らずまだ長いらしいパジャマの裾を床に引きずった半兵衛が、台所の入り 口に立っていた。昨日、あれだけ台所に入るなと言っておいたのを覚えているらしい。部屋 との境にある桟からは少しも足先が出ていないのを見て、いい子だと思った。もうテレビは いいのかと尋ねれば、むっとした表情で「それより」と話を切られる。 「何も言わずに立つのは、の悪い癖だね」 「邪魔をしてはいけないと思って」 「・・・だからって黙って行っていいことにはならないよ」 「ごめんなさい」 子供に叱られるのはおかしな図だけれど、あちらにいた頃は半兵衛の方が身分はあったし、 私は仕えていた身であるから、怒られるのは慣れていた。素直に謝罪を述べると、しかし何 が気に食わなかったのか、半兵衛は僅かに複雑な顔をした。日頃からあまり表情を変えない 子なので、この程度の事でも大きな変化である。しかし理由を聞くよりも、ご機嫌取りに回 った方が良さそうだと思った。長年の勘がそう働く。 「朝ごはんにしますか」 「・・・いい。まだ寝るよ」 「はい」 「それも要らない」 「はい」 半兵衛の言葉によって、私のお茶入れは中止となった。だから茶の缶に蓋をして、用意した 湯飲みも元あった引き出しに片付ける。部屋の方からテレビの音が聞こえないということは 半兵衛が切ってしまったんだろう。あれでいてよく見ているから、私が電源ボタンを押した ことで、それがスイッチであると理解したに違いない。本当に賢い子だ。 寝ると言った半兵衛の目はパッチリと開いてしまっていて、今からもう一度寝れるのかと疑 問には思ったけれど、ムキになって物を言うことをあまりしない子だから、黙って従う事に した。台所を出た私の腕を引いて、半兵衛はベッドへと戻る。片足を上げてやっと乗り上が ると、今度は私の腕を引いて掛け布団の中へ誘う。それに大人しく従えば、半兵衛と丁度、 布団の中で向き合う形になった。だというのに澄ました顔で、枕に目線をやって目を合わせ あいでいるのを見ると子供そのものだ。拗ねている理由が分からないが、宥めるように頭を 一度混ぜてやると、ふにゃりと崩れて頭を預けてきた。 「ねこみたい」 「・・・・」 否定できないのか。抵抗も反論もしてこないのをいい事に、ここぞとばかりに可愛い可愛い と頭を撫でる。向こうにいた頃は常に身分が関係していたから、気安く頭を触る事などそう は出来なかった。この世界にいてこその特権だと、遠慮なく、その白くてふわふわとした前 髪を梳いてやると、半兵衛もまた向こうにいた頃にはなかったような甘えを見せてきた。 手に、擦り寄ってきたのである。 「」 「・・・はい?」 白く長い睫が枕に影を落としている。どうしたのかを聞くと、布団の中から半兵衛の小さな 右手が差し出された。しかしそれが何を意味しているのか分からず首を傾げると、そんな私 を見て、半兵衛は分からない?と言いたげに目で訴えてきた。だけどやっぱり、手が一体ど うしたというのか。仕方なく、手ですね、と言うと半兵衛は可笑しそうに小さく笑った。 何故笑われるのかすらも、私には分からない。 「違うよ」 「なら、どういう意味が・・・?」 「握ってってことだよ」 君はこうしていないとまた何処かに行くだろうから。そう言う半兵衛の顔は仕方が無いと言 いたげな子供にする親の顔のようだったけれど、その言い方がお願いである事ぐらい、半兵 衛を知っているものであればすぐに分かった。向こうにいた頃、病気がちなのも手伝って半 兵衛はあまり外に出たがらなかった。だから私がよく散歩をしようと持ちかけたものだ。そ の際には必ずこうして、手を繋いで歩いた。懐かしいと思い出しながら、差し出された手を 握った。寂しくて、不安だったんだ。不機嫌の理由が分かった。 午後に行くお散歩では嫌と言うほど繋いであげよう。そう決めて、もう片方の手で半兵衛の 髪を梳く。段々と垂れ下がって来る半兵衛の瞼。しかしそれ以上に私もまた、眠くなってき ていた。 「眠い?」 「・・・少しね」 「寝て良いよ。ほら、こっちに」 もっと近くに寄るよう言うが、眠すぎるのか、半兵衛は動く気配が無い。寝返りを打ってベ ッドから転げ落ちてはたまらないので、仕方なく背中に手をやってこちらへと引き寄せてや る。しっかり抱いてやれば、子供体温が伝わってきた。気持ちよくて眠気に拍車がかかる。 「お休み、半兵衛」 「お休み」 瞼を閉じて眠りに落ちるかどうかの瞬間。声がした。 「」 「ん?」 「・・・好きだよ」 -- 「あ、?今どこにいるの?」 「お墓の前。墓参りだよ」 「は、え?今日の大学の講義は?」 「・・・無断?」 「何やってんの!?」 単位は取ってるし、必修も無いから大丈夫だと言えば電話越しの友達の声は一応は元の大き さに戻ったけれども、動揺は収まらないようだった。何で急に墓参り?誰か亡くなったの? と矢継ぎ早に質問にあったので、今度会ったら話すとだけ言って、適当なところで通話を切 った。あれから一月。眠りに落ちて三時間後、目が覚めたときに私の隣に半兵衛の姿はなか った。現れた時点で、これは一時的な再開だと直感で分かっていたから、すぐに元の世界に 帰ったんだと分かったけれど、どうにも虚無感は拭えなくて。慰みにでもなるかと、パソコ ンであちらの世界にいた頃に思っていたことを調べてみるとやはりというか。戦国の世に名 を残す、竹中半兵衛の文字を見つけることができた。歴史の分野に疎いせいで何一つ知らな かったけれども、半兵衛は随分若くに亡くなっていることを知って、居ても立ってもいられ なくなった。それですぐ、菊の花を買って奉納に向った。 「こんな事を言うのは、どうかと思うけれど。でも、必ずまた会える気がするの」 手を合わせるのを終えても暫し、しゃがみ込んだままでいた。私があちらの世界に初めて行 ったのが四ヶ月前のこと。それから五年以上もの月日を半兵衛と共に過ごしたわけだけれ ど、その年月を経てこちらの世界に戻ってくると、実際には二日程しか経っていなかった。 まるで長い夢でも見ていたかのような錯覚。その三ヵ月後に半兵衛がああして現れたわけだ けれど、それもたったの一日だけ。あっけない。何もかもが夢のようで、霧の中に住んでい るかのように不思議で掴めない日々だ。だけどこの先、大学を終えて社会に出て、あるいは その途中に運良く素敵な人とめぐり合えて結婚なんかが出来たら。その時は。もしたらあの 子は私の子供になって生まれてくるんじゃないだろうかと。そんな気がしていた。 そうだったらいいのに。 「半兵衛、私も半兵衛が好きよ」 優しくて、実はほんの少し弱い半兵衛が、大切だった。一回墓石を撫で、微笑みを向ける。 さあ、もう行かなくちゃ。これで最後と決めて立ち上がる。墓場を出た。 帰りの新幹線に乗り込むところで、風の声を聞く。 「」 幻聴というにはあまりにリアル。思い出の中の半兵衛よりもずっと低い声をしている。 まさかそんな。その思いで振り返るまで、あと二秒。 まだ、終わらない。
どうか拒まないで