鉄の匂いがする。錆び付いた鎖を握る自分の手にその臭いが移ってしまわないだろうかと思
いはしたが、次にはどうでも良くなってしまった。手で座る場所を払い、汚れを払ったあと
にそっと腰を下ろす。キイ、キイ、と前後に揺れる度に古臭い鉄の擦れる音がする。軽く地
面を蹴れば、私の体は宙へと浮遊した。何年ぶりに乗るだろう。夕焼に伸び縮みする、ブラ
ンコに乗った自分の影。懐かしさに胸が締め付けられる。
「ほら、帰るわよ」
「おかあさん待ってー!」
私達がここに来る以前から砂場で山を作っていた少年。年は5つくらいだろうか、もうそろ
そろあの帰宅を促す町内放送が入るけれど、彼はどうなるのだろうか。そんな事をブランコ
に乗って考えた矢先だった。母親は、ちゃんと迎えに来た。
内心ほっとする。あの少年にも、きちんとお迎えがあったのだ。砂の山に腕を通し、夢中に
なってトンネルを掘っていた少年も、お母さんのその一声で簡単に遊びを中断した。子供と
いうのは単純だ。泥んこ塗れの手を嫌がることもなく引いて歩く少年の母親も大概だとは思
うけれど。
「何見てるの?」
手を繋いで仲良く公園を後にする親子の影を見送った後、名残惜しくその影を見つめていた
私を、自動販売機までお使いに行っていた友人の声が現実に引き戻した。腕にペットボトル
を二本抱えて、私の乗るブランコの横で立ち止まっている。
「お帰りなさい」
「ん、は単なるお茶で良かったんだよね?」
「ありがとう。ちょっと子供を見てたの」
「ああ、さっきまで超真剣に砂遊びしてた男の子」
「そう。可愛いよね」
もう一度お礼を言って受け取ると、「いいよ、ついでだったんだから」と気のいい友人は微
笑んだ。片手が塞がってしまったためにブランコを勢い良く漕ぐ事は出来ない。仕方なく、
私はブランコをベンチの代わりにして、受け取ったお茶を飲むことにした。友人も隣に一つ
あった、使われていないブランコに腰をかける。いい大人がブランコを独占している光景は
少し滑稽だけど、子供のいない時間帯だからまだ許されるだろう。
「が保育士になりたいって言ったの、ちょっと意外だったなー」
「・・・そうかな?」
「子供が好きだなんて一度も言った事無かったじゃん」
「そうだね、そういえば」
渇いた喉に、普段から飲み慣れているお茶はとても爽快だった。炭酸にしなくて良かったと
思う。口を離し、ペットボトルの飲み口に蓋をして硬くしめる。夏は始まったばかりとはい
え、私の大学生活は今年で終わりだ。今から進路を考えるなんて遅いと思う。間に合うのか
心配だ。でも。
「就きたいと思える職業が見つかって、本当に良かったと思ってる」
「大抵はみんな、夢が見つからなくて単なるOLさんになるもんね。羨ましいよ」
「・・・」
「何か心境の変化でもあったの?」
私は結婚が人生のゴールだと思ってるからさー、と何処か諦めたように言う友人はもう就職
先が決まっていて、それこそ所謂OLになるのだった。だからといって彼女が自分を恥じる
ことなんて一つもない。結婚は女性ならば誰もが一度は憧れる夢だ。ゴールととらえても間
違いはないだろう。その女としての夢も、仕事としての夢も両方掴めたら理想だとは思うけ
れど。しかし考えてみれば、私がしたいと考えている保育士と言う仕事は、なりたいという
純粋な気持ちでよりは、そうしなければいけないような罪滅ぼしで選んだ道だった。
中学からの長い付き合いの友人は、そんな私の心の内を見透かすような目をして見てくる。
後ろめたいこの気持ちは、誰かに吐きだせば楽になれるのかもしれない。これを心境の変化
というならば、確かにそうなのだろう。だけどそれを此処で説明するのはあまりに陳腐で、
しかし重い気がした。どう言えばいいのか分からない。軽いのと重いのと、その中間の気持
ちに今の自分はあった。
「・・・親戚の子と遊んでたら、色々考えが変ったのかもしれない」
結局、そう言うしかなかった。子供は、好きでも嫌いでもない。ただ、私自身が小さい頃に
両親が共働きだったせいで寂しい思いをしていたから、同じ境遇の子供を見ていると放って
おけない気持ちがあった。だから優しくしてあげたい。それが切欠だったのかも知れない。
そう話すと、友人は微笑んで言ってくれた。
「同情だけど、そういう気持ちって凄く大切だよね。私も動物が嫌いだったけど、お婆ちゃ
んちで飼ってるゴンは平気だったよ。よく一緒にお散歩した」
言われて、気付いた。同情。そうか、私があの子を大切に思っていたのは同属に対する同情
からだったのかもしれない。病気がちで、部屋からあまり出たことがなかったという。
そういえば、先程砂場で熱心に遊んでいた男の子も一人だった。私達が来る以前から砂場に
いたんだとすれば、ずっと一人で遊んでいたのかもしれない。それならば、母親の迎えはあ
の子にとって、すごく重要な意味を持っているんじゃないだろうか。
「あ、いっけない。今日弟の夕飯作ってあげなきゃいけないんだった。ごめん、先帰るね」
「うん。気をつけてね、ばいばい」
携帯でメールを確認していた友人が焦ったようにそう言いブランコを立ちあがった。簡単に
別れのあいさつを交わすと、それから一目散に公園の出口へと向かて走って行く。確か彼女
の弟はまだ小学校低学年くらいだったと思う。ランドセルを背負っている姿を何度か街で見
かけたことがある。その弟は、きっと家で姉の帰りを心待ちにしているだろう。私も半兵衛
に、何か手作りの料理を作ってあげれば良かった。
ふと、そんな事が私の心に沸いた。今ここに半兵衛がいたら、一緒にもっと遊んであげたか
った。砂場や滑り台、シーソーやブランコの二人乗り、きっとこの時代の遊具は全て半兵衛
の目には新しくて興味の引かれるものに映るはずだ。感情をあまり面に出そうとしない、老
成した子だけれど、喜びや感情を堪えている表情がたまらなく可愛いのだ。ついこの間の事
なのに、随分と月日が流れてしまっているように感じるけれど、それでも鮮明に思い出せる
記憶たち。もう一度、あの子に会いたい。慣れない敬語、慣れない戦国の世の慣習に耐える
日々は決して楽ではなかったけれど、半兵衛が私の癒しだった。結局、厚意で置いてくださ
っていた城主様の頼みを断る事が出来ずに、姫の代わりに嫁ぎに出る事になってしまったけ
れど。・・・蝉の声がする。
「うるさい・・・」
半兵衛の泣き顔が、こちらの世界に戻ってきた日から私の頭を占めている。離れない。
急にこちらの世界に戻ってきて三ヶ月。半兵衛を忘れた日はない。私がいいと泣いてぐずり
手を重ねて来た日。私は半兵衛を拒絶した。嫁ぎに出される日に、丘で泣いて私を引きとめ
ようとした日。私は半兵衛を無理矢理立たせた。また会えるから、なんて無責任な事まで言
って。肝心な時には一度として、本当に求める答えを与えてあげる事もせずに突き放すだけ
をしてしまった。その罪滅ぼしのつもりで、私は保育士になろうとしている。
「・・・ごめんね、半兵衛。私のことは嫌いになって」
うそだけど、本音を言う資格は私には無い。
五月蝿い、蝉が五月蝿い。揺れるブランコ、私の足元の地面にぽたりと落ちる水があった。
涙が夏の日差しに干上がっても、後悔だけは、私の胸のうちに永遠に残るだろう。
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