夢を見た。昔の夢だ。 夜半、息苦しさに目が覚めた。コノハズクの鳴き声が耳につく。その場で布団から上半身だ けを起せば、夜着が汗でべったりと体に纏わりつき、酷く不愉快になった。夏はこれだから 嫌いだ。内心溜息を吐いた半兵衛は額に張り付いた髪を掻き分け障子に目をやった。月明か りが差し込む室内は青白い。今日はそれでなくとも明るい夜だ。水でも飲んで涼もうかと考 えた半兵衛は静寂の中、ひっそりと部屋を出た。すると庭に面した渡殿に、月光を受けて立 つ一人の姿を見つけた。 「秀吉」 「・・・半兵衛か」 振り返った友の顔は、いつもと変らず憮然としたものだった。大きな体を半分だけこちらに 回して半兵衛を一瞥すると、彼はすぐに前方へと視線を戻す。何故こんな夜更けに秀吉が起 きているのか、同じように寝苦しさに目が覚めたのだろうかと半兵衛は考えた。だが、すぐ に合致がいく。秀吉の視線の先にあるのは、大きな月。 「今晩は随分、月が明るいね」 「・・・次の戦を暗示するが如く、光りを放つ月よ」 「暗闇を照らす光り、君が日ノ本を導くことを示しているんだよ」 「うむ」 そのまま二人で立ち尽くし、暫し月を眺める。次の戦は天下の平定に王手をかける一番だ。 織田の世が去った今、日ノ本を統べる程に兵力を持つ軍は全国にそう多くはない。いくらか 難があるのも事実だが、それ以上に優秀な人材が多い豊臣の敵では無いだろう。加えて半兵 衛の天才軍師たる腕をもってすれば、攻略は可能だ。幼い頃より培ってきた頭脳を、遺憾な く発揮できる時が来た。半兵衛はそう考え、視線を月から庭の茂みへと下ろした。 部屋を出た時から鼻をついていた臭いが気になる。足元を良く見れば、二人が乗った渡殿の 梁や庵の支柱、至る所に寄生するかのようにして群生するドクダミを見つけた。原因はそれ だった。夏になると急速に色づくこれは、臭いがとても強烈だ。他の花が香りを放ってもそ れをかき消してしまう。明日、家来達にはドクダミを摘んでおくように言おう。あまり目に 美しくないものは見たくない。半兵衛はそう決めて、再び月に視線を戻した。 「日ノ本の統一は、僕らの夢だ」 「・・・だが半兵衛」 「何だい?秀吉」 そこで秀吉が、一度半兵衛にやっていた視線を泳がせた。彼が言葉を選びかねているのを見 るのは珍しい。半兵衛は数拍、呆然とその姿を眺めていたが、すぐに我に返った。秀吉が何 を言わんとしているのかを悟ったからだ。半兵衛は友を見やった。 「君が気に掛ける必要は無い。僕ならもう、諦めてる」 生暖かい風が吹いているおかげか、先程かいていた寝汗も冷やされて今は涼しいくらいだ。 コノハズクの鳴き声ももう聞こえない。しかしそれを、寂しいとは思わない。半兵衛は秀吉 に心配はいらないと語りかけるように笑みを作った。しかし否定の言葉はすぐに入った。 嘘を言うな、と。 「半兵衛。お前のその目は、我には欠片も諦めているようには見えぬ」 引きつる頬。やっぱりばれたか、と半兵衛は今度こそ浮かべていた偽りの笑みを苦笑いに変 えた。気まずさに顔をうつむければ、やはり視界に入るのはドクダミ。あれがこの庵の支柱 に絡み付いて群生するように、半兵衛もまた、その思いが存外しぶとく己のうちにあり続け るのに気づいていた。しかし月日が経っても、それはあまりにも衰えることなく半兵衛の中 心にあり続けたから、いっそ蓋をしてしまおうと決めたのだ。何故って、あれから3年は経 っていて、半兵衛にも新たに叶えたい夢が出来ていたからだ。だというのにその思いは、夢 の邪魔をするから。 「・・・君にはかなわないな」 「お前の目がどこに向いているか、分からぬ程に浅い付き合いでは無い」 「・・・そうだね。だけど」 豊臣に嫁ぐ為に向ったという知らせの後、は忽然と消えたという。 突然軽くなったのを怪しく思い籠の中を覗き見た兵の話によれば、服と今しがたのぬくもり 以外には何も無く、空っぽだったそうだ。そう言って体よく暗殺でもしたのでは無いかと初 めは勘繰りもしたが、それをするには彼女の価値は軽すぎたから、政治的意図は考えにくい のが実情だった。遣る瀬無い。 その一言だろう。そんな話があってたまるかと思う。せっかく彼女を追ってここまで来たと いうのに、手がかりは愚かおかしな話まで聞かせられる羽目になったのだ。しかし。 「正直、これだけ探していないってことは。そう、諦めている部分もある」 「・・・」 「考えられる可能性は五万とある。全てを確認していたら、天下の平定どころではなくなっ  てしまう。今は、後回しだよ」 秀吉は何も言わなかった。半兵衛もそれ以上言う事は無かった。豊臣、という手がかりだけ を求めてここまで来たのに、得られた情報はそれ以外には何も無い。それでようやく、今に なって半兵衛は稲葉山城で謀反を起す以前に弟や城の者達が己に吐いた嘘の意味に気づいた のだった。残酷な真実を教えないようにと、初めからいなかったことにしてくれていたそれ は、全ては優しさ故に。しかし自分はその事を察せられずに、己の目で確かめると決めて、 ・・・いや、それ以上は何も言うまいと、半兵衛はそこで思考を中断する。 「今の僕達に大切なのは、日ノ本の明日だ」 それ以外、今は見ない。見えない。 己にはもう時間も無い。出来ることを優先しなければ行けない。たとえ足を掬うが如く群生 するこのドクダミのような苦い思いが胸を締め付けても、それを断ち切る暇もないのであれ ば見えぬ不利をしておくのが一番だ。もうそれ以外に道はなくなってしまっている。 頷かぬ秀吉に、半兵衛は複雑な気持ちになった。だから一度、君は君で良いんだと半兵衛を 気に掛ける必要がないことを説けば、秀吉はそれでようやく納得して頷いてくれた。月明か りがもう少し控えめだったらと思う。そうすれば、これだけ弱い表情を友に見せる事もなく 済んだと思うのに。言っても、仕方が無いが。 「さて、僕はもう休むとするよ」 「半兵衛」 「・・・ん?」 「は、別の世界から来たと聞いた」 身を翻し、夜着の合わせを正したと同時。驚きの情報が友の口から出た。しかしそれが半兵 衛の動揺を誘う事は無かった。勿論友を疑うわけでは無い。それが嘘だろうが本当だろうが が此処にいないことは変わらない、それだけだった。 家に帰ったのかな、そう思う程度にとどめておく。それならそれでもいい、彼女が幸せなら 僕はそれで十分だ。半兵衛は内心満たされた気持ちでいた。 「ありがとう、秀吉。十分だよ」 もう十分だ。僕を置いて行ってしまったを薄情だなんて言いはしない。 己も同様に、今や彼女以上に優先しなくてはいけないものが出来てしまったからだ。切り捨 てなければいけない物が出来て初めて、あの時のの気持ちが分かった様な気がする。 それだけ、大人になったのだろうか。薄情なのは、彼女を探すのをやめた自分の方だ。 「いいんだ。あるいは来世で会えたら」 なんとなく、来世で会える気がしていた。いや、それよりは、今生では会えない気がする、 の方が言い方としては正しいだろうか。半兵衛はすでに、手の施しようも無いほどの病に身 を痛めている。咳を一つして、その身を月の陰に隠す。夜は、今日も更けていく。 自分の背中を見送る友の視線に、己が隠している秘密だけはばれないようにしなければと気 を払う。彼女も自分が子供だった頃は、そんな風に何か自分に隠し事をしていたんだろうか と、今更考えても仕方のないことばかりを思ってしまう。 「疲れたんだ」 あれから、3年以上は経っている。半兵衛はそれでもまだ、を追っていた。 無意識にも、夢の中でも。