雪晴れ。カラマツ林を進む半兵衛の足を、一尺ほど積もる雪が邪魔をした。ともすれば一面 の銀世界に埋もれそうな色を持つ半兵衛は、天高く伸びるカラマツの木々の間から差し込む 陽の光りに、瞳をそっと細めた。足元に生える霜に覆われた笹。もう間もなくこの陽が足元 までも照らすようになったら葉の色を確認できるのだろうが、その頃にはとっくに半兵衛は 山を降りているだろう。 まるで魂を吐き出しているようだ。息をするたびに覚える肺の痛さに、半兵衛はそんな事を 考えた。しかし歩みは止めない。意地でも。 -- 「またまた半兵衛殿は!どんな本の影響を受けたことやら、可笑しなことを口にされる!  父の重元殿は大層立派な武人であられたというのに、実に残念ですなあ!」 杯を片手に品無く喚く口。別段、嫌味が気に障ったわけでは無い。成すべき事を成さない、 物事の価値を正当に評価しないところに不満を抱いただけの事である。 まだ夏のころ。蝉の時雨が落ち着いた夜更けに、半兵衛は弟を自室に呼んだ。部屋に入れる 前に入念に、周囲に人がいないかを確認させて部屋に入れると、向かい合って座り、行灯を 一つ側に置いた。自分とよく似た弟の顔半分を照らす明かり。怪談でも始めるのですかと冗 談を言う弟の言葉にも、半兵衛は珍しく表情を緩めない。それを受けて居住まいを正す弟。 ややあって、半兵衛は小さく口を開いた。 「重矩、話があるんだ。よく聞いてくれ」 一体いつ頃から、これほどの腐敗が始まっていたのか。父の重元から家督を譲り受けて数年 が経つが、その間の全ての事は上手く行っていると思っていた。一体いつから。 油蝉の五月蝿い鳴き声が、半兵衛の声を遮る。鬱陶しいな、半兵衛は呟いた。それは蝉に対 する言葉だったのだが、しかしどうやら弟は別の事と受け取ったらしい。唾を飲む音が大き く、夏の湿気た部屋に響いた。目を細めた半兵衛が、小さく笑む。 「僕は嘘を吐かれるのが嫌いだ。重矩はその事をよく、分かっているね?」 「・・・はい、兄上」 「では洗いざらい、君が僕に隠していることを話してくれないか?」 行灯の火が僅かに揺れたと同時。半兵衛は弟の瞳に動揺を見た。それが疑念を確信に変えさ せる。衣の擦れる音。弟の額に、暑さから出たのでは無い汗が流れている。 今更、美濃の当主である斎藤にどう言われたなどと愚痴を聞かせるために弟を部屋に呼んだ 訳では無い。こうして懐に刀を忍ばせるほどには、もう全てを憎んでいるのだから。 弟の口が動く気配は無い。視線は強い動揺を受けてあちこちを彷徨っているというのに。 「話せないのなら、僕のいう事を一つ聞いてもらう事にするよ」 さて、どう出るか。そこまで言って半兵衛は口を閉ざし、懐刀を弟の視界に入れさせた。 それを確認した弟の目つきは険しくなる。 兄が長年欲した情報を口を割って話すか。あるいは密命を全うするか。どちらかを選ばなけ れば刀の餌食。後者の方がそうなる可能性は高いだろうと、半兵衛は踏んでいた。今の稲葉 山城はどうとでもなる程には堕落している。其処を叩くのは易い事だ。何もかもを省みない 当主に、ごまをすり一緒になって馬鹿をやっている家臣達。他の実直な家来のためにも、ま たは下心を持った家来への良い見せしめのためにも。 「そちらで、お願いします・・・」 結局、そちらを選んだか。仕方が無いと、半兵衛は溜息を吐く。口を開いた事で誰から戒め を受けるのかは分からないが、消されるよりは自分で命の取捨選択を出来る方がよいのは当 然だろう。故に、この選択は初めから後者の方が選ばれる確率が高いと分かりきっていた。 しかしそれでも、万が一にでも話してくれるのではと思ったのだが。 「・・・残念だよ、重矩」 かくして夏は終わり、秋が過ぎ、冬が来て、年が明け。樹氷が解け、春が訪れる前に、半兵 衛を首謀とする稲葉山城乗っ取り計画は遂行された。迅速に、不可能とも言われるほどの少 人数で行われた其れが見事に成功を収め、半兵衛の名を世に知らしめたと同時。 稲葉山城を返還するのと共に、半兵衛は家督を弟の重矩に譲って退位した。突然の隠居は、 しかしそれすらも数年前から、半兵衛が企てていた計画の一環だった。 「愉快だな。いっそ」 白い息と共に呟かれた独り言は、目の前に聳える一本のカラマツが吸い取ってしまった。見 上げれば、葉を一枚も残さないカラマツの、無数に分かれた枝が蜘蛛の巣のように空を張っ ている。家督を譲った今の身の上は浪人。葉を全て捨て去ったカラマツの様に、半兵衛の今 の心は軽い。これでようやく、心置きなくしたい事に専念できるというもの。 「?はて、どなたでしょう?そのような者は存じておりません」 まるで、口裏を合わせたとしか思えぬ言葉の数々。初めは何が起こっているのか分からず、 半兵衛は立ち尽くした。それこそ己を疑った。子供だからというのを理由に、半兵衛の話を 夢にされた。しかし夢などでは決して無い。その証拠に、脅したうちの家来の一人が一言、 「豊臣」とだけ呟いたのである。城中のものに騙されていた理由など、もう今更聞き出すの も面倒くさい。弟すらも口を割らなかった事に、半兵衛は失望した。強く、強く失望した。 だから城を出ようと、その機会を数年前から伺っていたのである。 ともかく、半兵衛はもう自由だった。己で確かめると決めた。今一度誓いを立て、半兵衛は 雪に足を進めた。目指すは、豊臣。