馬の駆け抜けた道の両脇には、山茶花が鮮やかに咲いていた。それからずっと行って山とま で言わぬ小高い丘に登れば、今度は色を失くしたすすきとねこじゃらしが、冬の野草の絨毯 に秋を引きずっていた。中途半端でいびつな原っぱ。まだ明けきらぬ内に最低限のお供を連 れて出てきた時は馬に跨って楽しそうにしていたのに。 朝露に濡れた土に着物が汚れる事も考えずに腰を下ろした半兵衛は、到着と同時にその表情 をいつかの不機嫌で泣きそうなものに変えていた。 「言わなきゃ、伝わりませんよ」 遠くに止めた、馬の息が白くなっている。群生する野草の季節がちぐはぐなのと一緒で、今 日は一度にいい事と悪い事の知らせが一つずつ、半兵衛にはあった。言えば、半兵衛が機嫌 を悪くするとは分かっていた。それでもは言った。 足に纏わるすすきを一本、茎の中ほどから手折る。 「秋ですね」 「もう冬だよ」 「すすきがこれだけあっては、まだ秋ですよ」 「山茶花は冬だ」 「ではここは秋と冬が一遍に来ている、奇妙な野原ですね」 まるで私達のよう。そう言って小さな背中に近づけば、聞きたくないと土に腰をおろしてい た半兵衛が膝に顔を埋めた。泣きだしそうな背中。最後に半兵衛の泣き顔を見たのは二年前 の、初めての相手を断った時だっただろうか。 言わなきゃよかった。面には出さないが、心底は後悔した。 「じきに、陽が昇ります。帰りましょう」 「いいよ、は先に帰って」 半兵衛の白い頭が、すすきの白い葉に溶ける。丘に漂う冷たい朝霧に紛れる背中は、昔より も少しだけ広く、大きくなった。秋の田の 穂の上に霧らう 朝霞。次は、何だっただろう か。どうにも思い出せなくなってしまった歌の続きを、頭の中で繰り返し詠んでみる。だけ ど先には、一向に進めない。 「みなが心配します。拗ねていないで」 「心配しなくても、僕は一人で戻るよ」 朝日が昇りきるのを待ってここを発つ様では遅すぎる。白い寝巻きのままで黙って出てきた ことが知れてしまったら、せっかくのご機嫌取りも逆効果だ。 いつまで拗ねているのだろう。指先はとっくに冷えてしまった。拳に変えて握り締めると、 少しだけ血の巡りが良くなった気がする。喉を通る冷たい空気は息をしている限り凌ぎよう がないけれど、それでも耳の痛さに比べればましだった。 「家督をお継ぎになられるのです。もう自分本位な行動は、許されませんよ」 毅然として言えば、が殺した感情の分だけ小さな背中が震えた。 良い事の一つは、母親も城中の誰もが弟の重矩が継ぐと思われていた家督を、半兵衛が継い だ事だった。北風が吹きすさぶこの季節に、それはとても喜ばしい事だった。なのに。 「僕をこうさせているのは、君じゃないか」 ようやく顔を上げてこちらを見た半兵衛の鼻は、この寒さに赤くなっていた。真面目な場面 なのに、そのせいでどこまでも滑稽に見える。せっかくの顔立ちなのに。 ああ、でもこれすらも私のせいなのか。半兵衛の今来ている寝巻きが泥で薄汚れてしまった のを見て、は立ちつくす。 「うそつきとは、帰りたくない」 自然な事なのだ。秋が冬に変るように、役目を終えた女中に新たな役目が出来ることは。 家のために、嫁ぐ事。それが半兵衛の世話を終えたの次の役目。使命だった。 秋が冬に変る、その境の結び目がいびつなだけなのだ。丁度今のと半兵衛のように。 断ち切る瞬間を見定められないでいるように、お別れの言葉が見つからないだけで。 それでも睨むよりも泣きそうな半兵衛の顔を見ていられなくて顔をうつむけると、足もとの 踏み折られた彼岸花が目に入ってきた。 「ねえ、なんで」 「・・・泣かないで下さい」 「一緒にいるって言ったのは、嘘だったの」 「嘘ではありません。会えなくなる訳じゃありません。いつでも会いに来れます」 「来れます?僕に会いに来いって言うの?は、酷いことを言うね」 いつもそうだ。結局肝心なところでいつも君は、は、僕を拒むんだ。 視線を足元のねこじゃらしにやって、半兵衛が言った。半分伏せられたその瞼から伸びる白 く長い睫毛は女のように美しい。今は虚ろなその瞳だって、昔にはない艶やかさが備わっ た。顎の線は細く長く、男の人特有の尖りを描いてきている。いつの間に半兵衛は、彼は、 大人になった。「側にいると約束したのは君だ」半兵衛の低い声が、鼓膜を揺すった。 「家督なんて、」 「半兵衛」 「嫌だよ。・・・僕は、」 の窘める言葉を遮って何かを呟いた半兵衛の頬を、涙が濡らした。 零れる滴を、枯れかけた猫じゃらしが吸い取る。の耳には届かない。 家督なんていらない。だから側にいて。そう言えなくて、半兵衛は泣いた。例えば足元で死 んでいくねこじゃらしが、自分の涙を受けて蘇ったなら良かったのに。そうしたらその思い の分だけ、を引きとめる理由が出来たんじゃないだろうか。 夢物語はの方が得意なのに、半兵衛はそんな懸想をしたのだった。 「立って、半兵衛」 「無理だ。僕は、」 無理だよ。無理だ。繰り返しそう言って、半兵衛は足元に広がる荻やらすすきやらの野草を 掴んで根元から引っこ抜いた。これから来るはずの冬を荒らす、半兵衛の手によって毟られ てぼろぼろになった荻の葉は何を思うだろう。可哀想に。子供はいつもそうやって、草をむ しるから。 「城主は土で、指を汚しはしませんよ」 子供は、今日で終わり。 やさしい昨日と、弱い貴方にさようなら。