真水に足を浸しているようだと、ぼんやりは思った。 冷たさに足先が痺れる程だというのに、しかし体はなぜかほっこりとしてきて心も温かで穏 やかになってきているのだ。だからそれにつられるようにして凭れてきた重い瞼に抗う理由 なんて無くて、そうする事が危ない事と分かっていながらも身を任せようとしたのだった。 廊下の木目を数えていた目がゆるり揺らめき、視界が狭まる。その時。 「風邪をひいてしまうよ」 屋根を打つ激しい雨音に消えることなく、はっきりと幼い声が聞こえた。はっとして目の前 を見ると、曇天を背にして真っ白な男児がこちらを覗きこむようにして立っていた。 「僕の部屋の前なんだ。ここで寝ないでくれ」 随分と小生意気そうな口調で喋るその童。おそらく女中である自分よりも遥かに身分のある 子であろうとは羽織を見てすぐに推察がいったが、果たしてこのように色の白い男児が城に いただろうかは、頭を巡らせど思い当たらない。子供らしからぬ老成した雰囲気は不気味で すらある。 その蚕糸のような稚児の髪に、雨漏りによる重い雫が一粒落ちた。童が肩を竦ませる。 「冷たい」 「・・・今日は寒いですからね。白湯をお持ちしましょうか」 うん、お願いする。奇妙な一拍を置いて、童子が頷いた。すぐに背を向けると私の背後にあ る部屋の障子に手を掛けて中へ引っ込んでしまう。一連の動作はまるで流れるようで、足音 を立てないところなんて女子のようだった。不思議な児だ。 頼まれた白湯を持って中へ入ると、文机に向って書物を手にしている背中を見つけた。しか しそれ以上に目に付いたのは、部屋の中央に堂々置かれた真っ白な布団。敢えて口にはしな いが、何故畳まれていないのか。野暮ったく見えて内心首をかしげた。 稚児がこちらに気づいて振り返る。 「何を読んでおられたのですか」 「兵法だよ」 「まあ、熱心で素晴らしいことですね」 「・・・そうでもないよ」 男児の視線があらぬほうを向いた。今日の明け方から続く雨のせいで湿った部屋に、そこで 沈黙が降りる。やがて男児がぽつりと、「君は僕を知らない雰囲気だね」と呟いた。やはり ここでも男児は、子供とは思えぬ含んだ物言いをする。は考えた。 天気の悪い、湿気た日にも拘らず仕舞われぬままの衾。それは男児が横になる機会が多いこ とを意味しているのでは。そう考えると、男児の肌の、異様に白い理由も分かるような気が した。 「書を読むのが、お好きなのですか」 「うん」 「では、お話を聞かせて差し上げましょうか」 「・・・何の?」 「諸国漫遊のお話です」 「それは楽しいのかな」 「はい。おそらく」 そう。言って、男児は目線を下に伏せ少し興味がありそうに考え込んだ。窓に向けた体、そ の横顔は心なしか楽しそうに見える。やがて顔を上げた男児が「お願いする」と言って広げ ていた兵法の書を閉じる。私はそこで、正座していた足を崩して部屋の中央に敷かれた布団 へ行き、体を半分、その中へ入れた。不思議そうにその動作を見る男児に今度は目をやり、 掛布の端を持ち上げて見せる。 「ではこちらへ」 「・・・どうして布団なの?」 「お休みになる前に聞く話なのですよ」 「今はまだ昼時だけど」 「ではお昼寝ということで」 「・・・」 いくら稚児が賢くて口が回ると言っても、女の屁理屈にはまだ勝てないだろう。どこか理不 尽だと言いたそうに眉を寄せた顔ががようやく年相応に見えて、小さく微笑む。 不服そうにしていたが、男児はやがて大人しく捲った布団の端から体を入れてきた。枕に置 いた頭を右を下にしてこちらを見上げる。しかし何故か、布団に入った二人の間は不自然に 空いていて、どうにも話を読み聞かせるには遠かった。なので男児の体を胸元へ引き寄せ、 つむじが顎に当たるくらいまでに距離を縮めた。その刹那、見逃してしまいそうなほどに小 さく、男児の紫の瞳が揺れた。桃色の女子のような唇が震える。 「病気がうつるって、君は言わない?」 それでようやく、分かった。雨が激しく打つ音が聞こえる。互いの声を聞き逃さないように と、再度力強く男児を抱きなおす。 「言いませんよ」 なるべく優しく、囁くように言う。首にかかるふわふわとした白い髪がくすぐったい。少し 目線を下げれば着物のあわせを握る男児の丸々とした子供の手が見える。膝に当たる踵が愛 しい。稚児が、笑った。鎖骨に息がかかる。布団に包まれて暖かい。不思議なほどに幸せな 気分だった。 「・・・乳母にだってされたことないな。こんなの」 「ふふ、頼めばしてくださりますよ」 「どうだろう。君くらいじゃないかな」 「そうですか?頼めばいつでもして差し上げますよ」 本当?と確かめるように聞いてくるのに、本当ですと返す。廊下で会った時に感じた嫌に老 成して子供らしからぬ雰囲気など、そこにはもう欠片も見られない。 目にかかった稚児の癖っ毛を掻き揚げてやると、朱色に染まった頬がそこから覗いた。 「僕、君のこと好きだな」 「それはそれは、身に余る光栄です」 「名前は何て言うの」 「、と申します」 「・・・」 雨は止まないけれど、廊下に出ていた時ほどに足は冷たくない。繰り返し自分の名前を呼ん で覚える男児にはもう、聞かせてあげると言ったお話のことは頭に無いようだった。 可愛いのでそれでもいいと、は目を閉じる。 雨の日に、やる気は出ない。暫くして腕に抱いていた稚児も大人しくなったので、寝たのだ と分かった。窓から見える雨が、二人を包む優しい緞帳に変って見えた。 「」 「はい、どうしました?」 この後、半兵衛は私を訪ねてよく部屋にやってくるようになる。それを見て知った家臣たち が城主の重元様にお伝えしたことで、私は稚児の面倒を見る役を与えられる事になった。 そう、稚児は名を竹中重治、半兵衛といった。紛れも無い城主様の御嫡男だったのである。 体が弱く多病であるために外にあまりお出かけになることがない。だから私は見たことがな かったのだった。と。 人見知りと警戒心の激しい半兵衛が母と乳母以上に懐いた人間は私だけと城じゅうで有名に なったのは、今から6年も7年も前の話。半兵衛が7つの頃のことだった。