ふりだし













それは本当に唐突だった。
その日の朝、いつもの様に先に起きて着替えた私が日課である政宗を起こす
ために部屋のドアを叩いた時のこと。中から音がしないのは寝ているからで
あって、それはいつものことだったけれど、今日はそのいつもとは根本的に
何か違うものをドアの前に立って感じた。部屋の隙間から洩れ出ている空気
がやけに涼しいような、まるで気づかぬうちに鳥かごから大切な鳥が逃げて
しまったかのような予感がしてドアを開ければ、案の定と言うべきなのか、
そこに政宗の姿は無かった。
 
 
 
「・・・政宗?」
 
 
 
どこに行ったのか、部屋に一歩踏み入って周りをぐるりと見回してもその姿
は見つからない。
閑散とした部屋に、初めから政宗と言う人間など存在していなかったかのよ
うな空気がそこにあるだけだった。政宗のベッドに手を掛けると予想してい
たよりもそれはずっと冷たくて、出て行ったのが今やほんの数時間前の事で
はないのだと分かる。私に何も言わずに出掛ける事なんて無かった政宗だ。
何かがあったに違いないと、気づけば私は政宗を探すために部屋を飛び出し
ていた。
 
 
 
「幸村君、今日、政宗そっちに行ってる?」
 
「政宗殿でござるか?今日はお見かけ致しておりませぬが」
 
 
 
この間教えてもらった幸村君の携帯にかければ、予想していたとはいえやは
り政宗は大学には行っていないと分かった。ありがとうと言って通話を切る
と、もう政宗の行きそうな場所で思い当たるものはなくなってしまった。
大学、近くのお店、以前一緒に行ったところも念のために探した。
だけど政宗がかなり前に家を出ているんだとしたら、もっと遠くに行ってい
る可能性も考えられた。それなら私は探すだけ無駄だった。
どうしようもなくなって、かけても繋がらない携帯電話を握り締めればその
手は小さく震えた。そんな時、路上で立ち尽くす私の頭をふとよぎったのは
以前政宗が私に言った置いていくなという言葉だった。何が置いていくなだ
と思う。嘘つきめ、置いていったのはそっちじゃないか。
この場にいない政宗に対してそんな怒りが湧いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
結局何処を探しても見つからなかった上に、海外にいる親に弟の失踪を伝え
る電話をすることも出来なくて、あきらめて一旦家に引き返してきた。
事件にでも巻き込まれていない限りいつか必ず家に帰ってくると思うし、男
だからそんなに心配する必要は無いと思うけれど、政宗が私に何も言わずに
家を出たことだけがとにかく気がかりだった。
リビングの壁掛け時計を見ると、針は丁度お昼の時間を指していて、自分の
お腹は体内時計に正確に腹を空かせて鳴りそうになっていた。だけどこんな
時に食事なんてしている場合じゃない。
朝の、政宗の部屋の前に立った瞬間から何か嫌な予感がしていたのを思い出
す。それが何なのかは未だ分からなかったけれど、これが女の勘というやつ
なのかもしれない。とにかく何かが起こりそうな気がするのだ。
リビングのソファに膝を抱えて座って、自分の体を抱きしめる。いつもは隣
に必ず政宗がいて、横で髪を梳いたり私の首に顔を寄せてきたりして、そこ
に政宗の温度を感じて安心していたのだ。だけど今はそれが無い。そのこと
にひどく欠落感を覚えて気持ちが沈む。いつの間にやら私は政宗がなくては
ならない体になっていたのだと気づく。早く帰ってきて欲しい。悪い予感が
嘘だと、証明して欲しかった。
 
 
 

「ただいま」
 
 
 
幾時間かが経ってどこか非現実的な感覚でいた私を覚醒させたのは帰宅を知
らせる人の声だった。急に玄関の方が騒がしくなる音がして顔を上げると、
その方から私を呼ぶ声がした。だけどその声は今私が今帰宅を望む人のもの
ではなくて、というかむしろ出来るなら帰ってきて欲しくないと願う人のだ
った。どうして。
理由が思い当たらなくてソファの上に座ったまま固まる私。その私のいるリ
ビングのドアが開いて入ってきたのは二人の男女だった。大きなトランクケ
ースを手にして久しぶりに見る私の顔に嬉しそうに笑った。
 
 
 
「お父さん、お母さん・・・」
 
 
 
呟いた私の声が呆然としているのを、父は驚きと受け取ったらしい。
私の頭を撫でてただいまを言うと、急に帰れることが決まったのだと娘にあ
えて嬉しそうな父親の顔をした。お母さんは汚れた服を鞄から取り出すのに
忙しそうにしていて、こちらに構っている場合じゃないという風だった。
それをまだ信じられないと目の前の光景に動けないでいる私。
お父さんとお母さんが帰ってきたというのはどういうことなのだろうかと頭
が目の前で起きている事を理解しようと働いた。政宗が今日に限って何も言
わずに出て行ったのが、これに関係しているはずだった。というかそれ以外
に理由なんて無いから、絶対にこれが原因なのだと思い当たる。
だけど、私にも言わずに出て行く用事とは一体何なのだろうか。そうする必
要がある程のことだったのか。段々と私の頭の中で疑問が一つに絞られてい
った頃、整理していた手を止めたお母さんがふいに立ち上がってリビングを
ぐるりと一周見渡して口を開いた。
 
 
 
「政宗はもう行ったみたいね。入れ違いかしら」
 
 
 
全てを知っている顔をして言う母に驚いて、反射的に隣にいる父の顔を見れ
ば、どういうことなのか。お父さんはお母さんの言うことに相槌を打ち、二
人は当然のように政宗が行ったと続きを話し合った。
その光景に二人ともが今日、政宗がいない理由を知っていて、知らないのは
私一人だけなのだと理解した。そんな私の驚く顔を見て驚いたのは二人の方
で、特にお母さんは私に気づくと半ば信じられないと言いたげに目を大きく
見開いた。
 
 
 
「政宗はに何も言ってないの?」
 
「・・・何が?」
 
「そう、言って無いのね。あの子」
 
 
 
要領を得ないやり取りの中では完全に私がのけ者だ。こうして恥をかくのも
原因は全てこの場にいない政宗だ。どうして一言でも何か言ってくれなかっ
たのかと心底腹が立つのを抑えて乱暴に返事を返せば、お父さんが私の頭に
ぽんと手を置いて嗜めた。責めるべきがお母さんでないこと位、私だって分
かっているけれど。
 
 
 
「政宗ね、近々結婚するのが決まってたのよ。今日は相手のご両親のところ
 に正式に挨拶に行くことになってたから」
 
 
 

私と政宗の仲がいまいちだという事には、お母さんの方が理解を示してくれ
ていた。まさか自分が海外に出張に行っている間に娘とその弟がそんな仲に
なっているなんて思わないだろうし、お母さんじゃなくても誰もが想像がつ
かなかったことだと思う。分かっているんだ、それは。だから今こうして、
私のためを思って微笑んでそれを報告してくれたのだと思うけれど。
だけどそれは、今の私には到底笑って喜べることなんかではなかった。
いきなりの事に表情が作れなくなって固まるのを、それでも何か返さなくて
はと苦労してようやく口を開けば、そこから出た私の言葉は「あ、そうなん
だ」の一つだけだった。
シンプルな表とは反対に頭の中はごちゃごちゃだ。私は政宗から何も聞いて
いないという事実が、頭の中で転がって転がってこんがらがっていた。
私は知らない。何も聞いていない。政宗がいつからそれを知っていて、いつ
から私に黙っていたのかも、いつから私を思っていたのかすら。
いいや、私は知らなくても政宗は全て知っていたはずだ。全て。でなければ
こんな酷いことをやって出て行くことは偶然でもない限り出来ないのだから
。初めからこうなることを分かっていてやったはず。
そりゃあ姉弟なのだから初めからこの関係が永遠に続くとは思っていなかっ
たし、少なくとも両親が帰ってくるまでの仲だとは分かっていた。
ただ、それにしたってもう少しは長く一緒にられると思っていたし、こんな
終わり方をするつもりはなかった。他に女がいる。結婚。考えるとつまりそ
ういうわけだったのかと思う。
本当は声の限りに私がいるんだから政宗は他の女のところになんて行かない
し行かせないと叫びたかったけれど、目の前にいるのは自分の親だ。それは
言えない。涙を呑む悔しさは喉に詰まって、飲み込むのすら痛い程だった。
我慢してそれをすっかり飲み干せば、それでも笑えたけれど。
 
 
 

 
やっぱり弟が、きらいだと思った。