は部屋から出たことが無かった。しかしそれに疑問を持ったことは無かった。
そもそも彼女の世界を構成している物が少なすぎたために。唯漠然と自分自身に親がいないということは知っ
ていた。気づいたら彼女のそばにいた男だけが、強いて言うならば親と呼べる存在だった。その男以外の人間
を知らない少女に男はやんわりと殊更優しく、外は危ないから此処にいなくてはいけないと言うのだ。小さな
少女は男の組んだ足の間に腰を降ろすことでそれを返事の変わりにした。頭を撫でてくれる優しい掌が、少女
の世界を構成する全てだった。
おそらく天才軍師と謳われる彼が戦場で見せた最後の情けだったのかもしれない。それもおそらく、哀れみに
よるものに近かった。自信の病から日常生活においても背中に張り付いているかのようなその黒い存在を意識
せずにはいられなくなった頃、医師に余命を宣告された。何故よりによって自分なのかと信じてもいない神を
疑いもした。まだ死について、自分の与えられた運命について割り切れていない頃のことだ。今でも達観して
考えられるわけではない。しかし少なくとも戦場で見た少女の後姿を思うと、これまでの人生においては余程
自分は恵まれていたのではないかと思えた。焼け野原を見る無垢な瞳が自分を責めるようで、気づけば少女の
手を引いていた。子供一人拾ったところで罪滅ぼしや戦が無くなるわけではない。単なる自己満足に過ぎない
が、それでも手を引かずには入られなかった。
、そう名づけて城の奥深く、未だ使われる予定の無いそこにひっそりと置くことにした。
人目につかないそこは本来ならば本妻がいる部屋だった。男はそこでこの少女を自分の娘として育てた。跡継
ぎの一人もいない天才軍師が養女に教えたのは兵法ではなかった。しかしだからといって茶の淹れ方すらも教
えることは無かった。ただ読み書きだけを、それも書を用いずに男自身が手ずから教えたのだった。なぜそん
なことをするかというと、簡潔に言えば少女を外と隔離させるためだった。外界より刺激を受けて此処を出た
いと言い出さないようにするために、一切の情報を遮断することでそれを成そうとしたのだ。なぜそこまです
るのか、理由は至って簡単なものだった。溺愛。そもそも男は子供自体にあまり興味がなかった。好きか嫌い
か等意識したことも無い。とすれば興味がないというのが妥当だ。自身に仕えるものの中から世継ぎを望む声
が無いわけではない。軍師の頭脳、その血を引く子を望む声は強い。しかしそれまで男の頭を占めていたのは
友の野望と自身の夢をかなえること以外には無かった。加えて病持ちが子を成したところで子にまで病、ある
いはこの体質が継がれていくこと考えると、考える時間が欲しい気もした。いずれにせよ、その時その男にと
って世継ぎは二の次であることに間違いはなかった。そんなだから家臣たちも半ばあきらめていたのだ。だれ
が想像出来ただろうか。戦の当事者が戦場で子を拾うなど。それも養子にして外にも出さずに可愛がること
を。文字通り目に入れても痛くないほどにを可愛がる豊臣の天才軍師。
彼がその時を迎えるまでその慈愛に満ちた瞳が一心に一人の少女へと注がれるであろうことは、明白だった。
うとうとと舟を漕ぐ少女はその眠気に対抗しようとして小さくうめき声を上げた。春は眠くなるものだから仕
方ない、微笑ましく思ってその光景を見ていると畳に寝そべっていた少女は手をついて体を起こすとこちらへ
と歩み寄ってきた。室の隅に置かれた文机には先程まで手習いをしていたであろう様子が見て取れた。筆が投
げ出されているから、おそらく途中で飽きて放り出してしまったに違いない。この少女はひどく感情に任せた
行動をとると、育てた自分は知っていた。直した方が良いとは思うが、こうして自分が会いに来ると嬉しそう
に歩み寄ってきてくれることを考えるとまだ今はいいのではないかと甘やかしてしまうのだ。とんだ親馬鹿だ
った。
「はんべえさま、」
眠りの世界とを行き来していたためか、上手く口が回らないようだった。それすら自分の心をくすぐっている
ことなど、当の少女が知る由も無い。自身の袖の端をキュッと掴んでくる小さな手に、顔が破綻するのを隠し
て穏やかに尋ねる。何だいと。膝に招いて乗せてやると、少女は簡単に喜んだ。此処は彼女の特等席だ。畳に
投げ出した足をバタつかせながらはしゃ
ぐをはしたないと窘める口調すら優しくなってしまう。
やはりどうしてもこの少女には甘くなってしまうようだった。体を反転させて向き合う形になった少女は、男
の首に小枝のような腕を回した。はんべえさま、何がそんなに楽しいのかと聞きたくなるような、まさに鈴を
転がしたような声。自分の名前を繰り返し呼ぶ少女は言いたいことを言いあぐねて困ったように首元に顔をう
ずめて来た。おそらくおねだりであろうと見当がついていたが、直接口にしてもらわなければ叶えてはやれな
い。小さな頭を撫でて諭すと、ようやく蚊の鳴くような声で言ったのだった。
「がもっとおっきくなったら、さくらを見に行ってもいいですか」
桜のように頬を染めた少女。自分の機嫌を伺うかのように上目遣いに見上げてくる少女のいじらしさに自分の
教育が間違っていなかったと確信する。この可憐な少女は外の世界を見る時がどういう時になるか、当然知る
わけがない。無垢な瞳を守れるのは自分が生きている間だけだ。その庇護者も病に侵されて残りわずかだが。
しかし目の前の少女は自分が死んだ後に嫌でも外に出ることになるだろう。この少女の存在は側近のもの達に
は知られていることだし女中の幾人かも自身が外に出さずにおくほどの可愛がり様に実子だと勘違いしている
ものも少なくない。おそらく、この少女が読み書き以外には何のすべも持たないことを誰一人知るはずもな
い。そんな少女を軍師が死んだ後も城に留めておく輩がいるとは考えられない。血も繋がっていないのだか
ら。つまり自分の死はの終わりでもあった。
しかし今からでも少女のためにと兵法を教えてこの城に留まらせるようにと教育しなおす気は男には露も無か
った。少女がそれらを知れば首に回された腕が解かれてしまうに違いないのだ。そうなるのであれば初めから
何も知らせずにいるのが一番だ。さて、少女の可愛いおねだりにどう答えようかと考えてみる。彼女が未来へ
抱く希望や夢をむしりとるつもりは勿論無いし、無垢な瞳に嘘はつけないしつきたく無かった。
それは無理だよ。
言えなくて、曖昧に微笑んだ。
わるいおとな
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