幸か不幸か、半兵衛様はまだ眠っていた。昨晩遅くまで仕事をなさっていたから起きる気配がないのも当然
だ。伏せられた睫毛と寝息を感じられるほどの距離に私の心臓が騒ぐ。ここで半兵衛様が目を覚ましでもした
ら大変なことになる。まず間違いなく言い訳は聞いてもらえないだろう。何とかして半兵衛様が寝ているうち
にここを脱出出来ないだろうか。全て無かったことに出来るならそれに越したことはない。私は覚悟を決める
と慎重に腰に回された半兵衛様の腕をどかした。そして寝ている半兵衛様を絶対に起こさないようにと細心の
注意を払って障子に手をかけた。音もなく廊下に出ると後は自分の部屋に戻るだけだ。

「さようなら、半兵衛様」

自分にしか聞こえない声でそっと口にした言葉は小鳥のさえずりに掻き消された。これでもう、半兵衛様と会
うことは二度とないだろう。どことなく、淋しい。そう思って廊下を歩きだした直後に廊下の後方からキュッ
と床を擦る音がした。反射的に振り返ってしまったのがいけない。そこには半兵衛様を起こしに来たのであろ
う家来の方が立っていた。私の乱れた着物をじっと見ている。半兵衛様の腕から逃げ出すのに苦労して動きま
わったせいで乱れたのだが、そうはとってもらえないだろう。目を合わせた状態で気まずい沈黙が下りた。

「・・・さ、昨夜は半兵衛様とお楽しみだったようで・・・」

顔を赤くしてしどろもどろに紡がれた言葉と私が全速力で駆け出したのは同時だった。



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『最近見なかった女中、半兵衛様に囲われてたらしいわよ』
『半兵衛様が?そういうことにあまり興味がないんだと思ってたけどよっぽどお気に召したのかしらね』
『同衾なさったという話よ』
『まあ、なんてこと』


いやほんと、なんてこと。噂の広まることを危惧した私だったがその日の昼には城中の人間に知られることに
なってしまった。あまりの耳の速さにいっそ笑いが出そうになったが張本人なので笑えない。むしろ行く先々
で質問攻めに合うので怖くて泣きそうだった。その度に何回も否定したがどういうわけか噂が衰える様子は一
向にないまま二週間以上が経ってしまった。そして今日も道行く人々の話題は私と半兵衛様の仲についてだ。
しかし一番恐ろしいのはその半兵衛様の反応が無いという事だった。これだけ皆がそこらじゅうで話をしてい
るのに耳に入らないわけがない。どうして何の反応もしないのだろう。半兵衛様が一言否定するだけで不愉快
な噂はすぐに消えるというのに、故意に放っておいてるようにも見える。最近聞いた噂の内容はさらに過激な
ものになって、半兵衛様の一目ぼれで誰の目にも触れさせたくないから監禁していたが隙を見て女が逃げ出し
た、というものだった。もはやお笑いである。しかしそんな噂の内容を楽しむまでになっていた私の部屋にと
うとう渦中の方が自ら尋ねて来られた。

「こんにちは、君」
「は、・・・」

半兵衛様、と言おうとした声は最後まで出なかった。だってそんなまさか。城主自らが女中の部屋に来るとは
露も考えていなかったのだから。目の前に立っている方を理解した私の体は決まっていたかのように動いた。
しかし謝るために三つ指を畳に揃えた私が頭を下げるよりも早く半兵衛様が言った。

「謝罪も前置きも不要だ。単刀直入に聞くよ。君はどうしてあの日僕の部屋にいたんだい?」

たん、と音がする。半兵衛様が後ろ手で障子を閉めた音だった。誰にも話を邪魔されないように、私に逃げら
れないようにするために。正直に言ってごらん、私の前に腰を下ろした半兵衛様が声だけは優しそうに言っ
た。正直に言ったら叩かれる気しかしないのですが、と出掛かった言葉を飲み込む。言うべき言葉が見つから
ないので畳につけたままの指へと頭を下ろした。

「申し訳ございません」
「謝罪はいらないと言ったはずだよ」

貴方が拾った猫です、なんて言ったらどうなるのだろう。気違い認定されるに違いないだろうけど。

「女中のお仕事にお暇を頂きたく思います・・・」

弁明しておくと私は走って逃げたことに間違いはなかったと思っている。あそこで同衾を自ら否定したら間者
と取られてその場で斬られていたに違いない。その結果城主の顔に泥を塗ってしまったのならこうする事が最
善の策だと思って言ったまでだった。が、半兵衛様は溜息を吐いた。顔を上げるように言われる。

「君が神隠しにあったと噂されたのと僕が猫を拾って飼い始めた時期が同じな理由を、君は知っているはずだ
よ」

これでも白を切るつもりかと、あやめの花と同じ色をした瞳がとても雄弁に語る。

「気づいていらしたのですか・・・?」
「まあね」
「・・・私自身、信じられませんでした。でも気づくと猫になっていたのです」
「信じられない話だけど、でなければあの日君が僕の部屋にいたことに説明がつかないだろうね」
「はい」

もういいよ。そう言った半兵衛様が息を吐く。さっきと違ってこれ以上は話す必要は無いと会話の終了を告げ
るために吐きだされた息だった。綺麗に畳んでいた足を崩したのを見て私も崩したい思ったがそれはさすがに
出来ない。代わりにまた半兵衛様に会うことが出来たのだからせっかくなので何か話をしようと思って考え付
いたことを口にした。

「半兵衛様は、このためにわざわざ私の部屋まで尋ねて来て下さったのですか」

ああ、と言って半兵衛様は楽しそうに唇を薄く延ばした。

「僕のもとへ抗議か意見でもしに来るかと思って待っていたんだけれど君は意外にそういう風評に耐えられる
精神の持ち主らしかったから、僕がわざわざ出向くことにしたんだよ」

遠まわしに馬鹿にされていないだろうか。鈍感、あるいは情報に疎いと言われている気がして仕方無いのだ
が。黄金率で微笑む半兵衛様の顔を見ていると次第に言われた言葉がどうでも良くなって来た。不思議だ。不
思議と言えば、とあることを思い出す。純粋に疑問に思っていたのだ。

「あの、神隠しにあったその日に、私は半兵衛様に拾われたのです」 

拾った時点で私が神隠しにあった事を半兵衛様がすでに知っていたというのは有り得ない。そうなると猫に付
けた名前が消えた私に対する哀れみから等という苦しいこじつけも考えられない。純粋な偶然かあるいは、

「半兵衛様は以前から私のことをご存知だったのですか?」
「・・・」

無言。沈黙が降りた。私の顔を見たまま固まってしまった半兵衛様だったがそれもほんの数秒のことで、何故
か私から顔を背けてしまった。心なしか半兵衛様の頬が赤く染まっている様に見える。

「えっと・・・、半兵衛様?」

声を掛けると私に向き直った半兵衛様が少し苛立ったように言った。

「大体、君が僕に気づかないのが・・・・」

そこまで言って半兵衛様は言葉を詰まらせた。のが、・・・何だろうか。気づくとは何に対して言っているの
だろうか。何故かばつが悪そうな、気まずそうな様子の半兵衛様に私が大丈夫ですか、と聞くと半兵衛様はあ
あ、と言って目を閉じた。精神統一か座禅的な何かだろうか。何故急に。三拍ほど置いて閉じていた瞼が開く
とそこに先程までの半兵衛様はいなかった。

「お互い、猫かぶりはもういいね」

その言葉が耳に入った瞬間、背中に痛みが走った。畳に叩きつけられた。ぐるりと大きく回転した私の視界に
映ったのは半兵衛様の顔とその後ろの天井だった。畳の香りがする、押し倒されたらしい。どういう状況に自
分がいるのか理解ができた。が、どうすればいいか分からない。押さえつけられた肩の痛みに混乱が助長され
る。猫かぶりだなんてとんでもない。狼そのものだ。成すすべもなく硬直してしまった私を弄ぶように半兵衛
様が囁いた。

『抵抗しないでくれ。僕だってなるべく優しくしてあげたいんだ』

ゾクリとする。冗談じゃない。
これからされるかもしれない事を理解した私は何とか半兵衛様から逃れようと身をよじる。が、肩にあった半
兵衛様の手はいつの間にか私の手首をしっかりと掴んでいて畳に縫いとめていた。

「僕のことは嫌いかい?」

そんな。嫌いじゃないですと言ったらこの行為は当然続行されるだろう。嫌いだと答えた場合にも行為をやめ
てもらえるか保証は無い。半兵衛様のことは嫌いじゃない。こんな美しい方に抱いてもらえたら女として箔が
つくと思う。だけどそういう問題では無い。

「私と噂になんてなってしまったら半兵衛様は・・・!」
「もうなってる」
「そうですけどっ!これ以上ありもしない噂を流されたら半兵衛様が・・・」
「心配は無用だよ。それに全部僕がやったことだ」
「・・・・・・え?」

今度は私が止まる番だった。ちょっと待て。言われたことを理解しようと頭が懸命に働く。噂を流したのは自
分だと半兵衛様は仰った。その上で城の皆が噂するのをあえて好き勝手にさせていたと・・・?

「ひゃっ・・!」

半兵衛様が内腿を撫でる。変な声が自分の喉から出た。恥ずかしくて咄嗟に唇を噛む、そうでもしないとまた
変な声が出そうだった。「敏感だね」くすくす笑う声が耳をくすぐる。そんなこと口に出して言わないで欲し
い。余計に恥ずかしくなる。ドキドキとうるさい心臓と掴まれた腕が燃えるようだった。頭がガンガンする。
半兵衛様のもう片方の手がゆっくりと着物の合わせから入ってきた。肌に触れた半兵衛様の手の冷たさに反射
的にひっ、と唇から声が漏れる。心臓がありえない程にうるさく高鳴っている。昼間から、それも薄い障子一
枚を隔てただけの部屋で。加えて外の廊下は人の行き来が激しい。城主と女中が昼間っからこんなことで、許
されるのだろうか。鎖骨に触れた半兵衛様の髪に、半兵衛様の香りに頭が上せそうになる。駄目だ、こんなの
は駄目だ。

「待ってください・・・!」

最後の力を振り絞って私が叫ぶと体を這っていた手が止まった。半兵衛様が驚いたように私を見る。言葉も何
もなしに流れに身を任せたら後できっと私は後悔して泣くだろう。こんなのは嫌だ。そう言いたいのに私の喉
は言うことを聞いてくれなかった。震える唇に情けなくなる。半兵衛様が私の頬を撫でた。私を見つめる瞳
が、切なさを孕んでいた。

「愛してるんだ。君が僕に気づいてくれるのをずっと待っていた。猫を君だと思って名前を付けて可愛がっ
た。ようやく今君と会って話すことが出来た、もう僕には君以外見えない」

矢継ぎ早にそんな事言われたってどうすればいい。どこまでも傲慢な自己中心主義の発言。一体どんな論理
だ。そもそも私は半兵衛様のものじゃない。ましてそんな言葉にほだされるような安い女でも無い。だから頼
むから言うことを聞いてくれ、私の心臓。このままでは目の前の男に負けてしまう。

「頼むから黙って、ただ愛させてくれ」

どうあってもこの行為をやめるつもりは無いらしい。熱すぎる口づけに反論の言葉も何もかも呑まれる。体を
這う冷たい手が熱に変わる迄に、私の気持ちも揺らいでしまう予感がした。