ある日わたしの家の風呂の、プラスティックのバスタブに張ったお湯の中を赤い金魚が泳いでいた。幻覚でも 見ているのかと目を凝らしてみるが、それは決して私の視界より掠れて消えてしまうことはなく、祭で掬うよ うな、あの大量生産される種類の金魚がたった一匹、しかし確かに赤いひれを優雅にバスタブの中で靡かせ存 在しているのだった。ああ、このご時世に河より紛れ込んだ金魚が配水管を通って給湯口へ上ってくること が、はたして有り得るのだろうか。確かこの種の金魚は観賞用であり、自然の川では生きられないと聞いたこ とがある。外部から持ち込んだのであれば警察を呼んで家中を隈なく捜査して貰う必要が出てくるが、誰かが 押し入った痕跡はない。この場合、どこに電話をすればいいのだろう。 「こまったわ・・・」 まさか捨てるわけにもいかず、浴槽の淵に肘をつく。人差し指の爪で水面に軽く八の字を画けば、振動に驚い た金魚が浴槽の深くへと逃げていった。湯気を放つそれは今しがた、帰宅した自身の一日の疲労を取り除くた めに沸かしたもので40℃近くはある。金魚のような淡水魚の生きていける温度では決してないはずなのだ が、意にも介さず、伸び伸びと気持ち良さそうに泳ぐその姿を見る限り、問題はないらしい。時折水面へと昇 ってくる気泡は魚が鰓呼吸をしている証拠だった。しかしどうしたものか。縦横無尽に浴槽の中を舞う金魚を 敢えて狭いバケツや他の窮屈な入れ物に移してしまうのはなんだか忍びないような気がするし、可哀想にも思 えて来る。此方の都合を邪魔されたとはいえ、気分を害されたわけでもないのだ。なにせ金魚であるし、これ 等は自分たちと比べればずっと下の存在にある。憤りを覚えることすら馬鹿らしい。見れば見る程に長い尾び れは美しく、加えてある人間の後ろ髪を彷彿とさせていることが、どうにも金魚を悪く扱えなくさせる。彼も 赤を象徴としていた。しかしこれとそれは無関係であり、わたしがするこの決断は気まぐれによるものであ る。無理矢理自分に言い聞かせているようで納得がいかないが、でもなければ彼の思惑通りになるようで気に 入らない。これは純然たる、金魚のための人間の慈悲による行為である。善意である。他意は無い。なにも数 十年浴槽を占拠される訳でもないのだし、シャワーでも事は足りる。少しの間の不便くらいなら目を瞑ってあ げてもいい。そういうことだ。結論を下し、シャンプーが入ってしまわぬように、わたしはそっと浴槽に蓋を した。 -- わたしは決して鈍い人間ではない。人並みに、年齢通りの人生経験を有しているし、学生だった頃、所謂青春 時代には恋愛の一つや二つもあった。勿論わたしという性格を考えた時に、それがドラマや映画にある程ドラ マティックなものになりはしなかったけれども、期待していた理想と現実の差に不満を覚える事もなく、まあ こんなものなのだろうと冷静に理解して受け止めてきた。卑下するような人生でもなく、つまり平凡な人間で あり、それに見合った人生を送っている。そういうところがなんかいいのだと言ってくれた恋人が過去にはい たりもしたが、逆の立場で考えた時に成る程と思った程度である。それが似たもの同士が惹かれあった場合の 理由であることも重々解ってはいるのだが、やはりここで提起したいのは何故わたしなのかという疑問だっ た。それに気づいたのはそんなに最近の事では無い。例えば何気なく、コーヒーでも淹れようかと席を立った 時に感じる視線。あるいは仕事上がりに飲みに行かないかと同僚に誘われた際の、わたしの返事を待つよう に、少し離れたところから感じる存在だとか。臆病で矮小なわたしには社内のジャニーズだとかアイドルと謳 われる彼の視線を受け止める事など到底出来るはずもなく、ただ冷たく無機質なオフィスの床に顔を俯けて知 らぬふりを決め込むだけであるが、四六時中視線を感じては幾らなんでも居心地が悪い。他に可愛い子ならば いっぱいいるし、彼の部署には頻繁に気のある女子社員が出入りしているのも知っていたから、そちらに気移 りする日が来ないかと、その日を今か今かと心待ちにして日々を過ごしているのだが。とにもかくにもこの一 ヶ月間、視線だけによる二人の攻防が続いていた。昼の時間になる。わたしはひったくる様に財布の入った鞄 を手に掴むと、誰よりも先にオフィスを後にする。時間を潰す為である。社食では彼に出くわす確率が百パー セントを越えており、こちらをチラ見する存在を視界に感じながらでは食べ物を味わう事など到底出来やしな い。ただひたすらに、胃に物を詰め込むだけの作業と化してしまった苦い経験が頭をよぎる。であるからして 会社の近くにあるスーパーで弁当を買い、その辺で済ませるのが最近の日課になっていた。道中思い出したの で、ついでにそのスーパーにて金魚の餌も購入した。 「殿、次回の会議で使う資料についてなのだが」 声。ここ何日か続いている事だったが、未だに慣れず、どくんと心臓が跳ねる。動揺が相手に伝わってしまう のだけは格好が悪くて嫌だったので、平気なふりをして何ですかと口にして後方に首を捻る。A4サイズのコ ピー用紙の束を片手に立つのはやはり真田幸村その人で、ここ何日か、わたしが昼を終えて午後の仕事に戻る 頃になると、何かにつけて一番にわたしの元へやって来るようになった。ああ言えばこう言うではないが、似 たようなものだ。そう来るかと大胆な手に打って出てきたことに内心で感心している。唯一の救いは、彼がや って来る理由がきちんとした仕事の話であることだろうか。資料について話を終えたところで、彼が引き返す 間際にはたと、その目線を私の机の上にやった。つい反射で彼の目線の先を追うと、そこにあるのは先程買っ て来た金魚の餌の入った缶だった。ビニール袋を断れば二円引きだというから、その通りにテープだけを貼っ てもらったのだが、鞄に入れておくと臭いが移ってしまいそうな気がして、帰るぎりぎりまで机の上に置いて おくことにしていたのだが。 「魚を飼っておられるのか」 「はい、まあ。・・・昨日からですけれど」 生き物を飼うのは初めてだと付け足すと、彼は成る程と頷いて徐に机の上の缶に手を伸ばした。手に取って餌 の成分表が印字されたところをチェックしている辺りに、生き物の飼育になれている様子が窺える。「熱帯魚 でござるか」納得したように呟かれた一言にわたしの資料を持つ手が固まる。「金魚ですけど・・・」訂正す ると、今度は彼が目を瞬かせた。 「しかしこれには熱帯魚用と書かれておるが・・・」 「え?」 確認するようにと渡された缶を受け取って見れば、たしかに下部に小さく熱帯魚用と書かれた文字が目に入っ た。表面にプリントされていた魚の写真を見ただけで、よく確認せずにレジに持って行ってしまった事を思い 出して、そんな自分の失敗を思い出して恥ずかしくなる。じっとこちらを見てくる真田さんの目が気になり、 顔に熱が集まっていくのが解った。やだ、もう。思わず呟いた顔を俯けると、真田さんが小さくふいたのが解 った。 「ははっ、殿はおっちょこちょいでござるな」 顔をそのままで目線だけを上にあげると、破顔した真田さんがいた。からかっているのではなく純粋に面白い から笑っているのだとは解っているが、やはり失敗を笑われるのは恥ずかしい。仕事で顔を知っていて何度か 言葉を交わすだけの関係だから、素面ではそんな風に笑うのだな、と。知る必要のなかったことだが、わたし を見る目が予想外に温かかったので出掛かっていた文句も喉の奥に引っ込んでしまう。顔はまだ熱く火照って いた。 「その様子では、エアーポンプや敷石の準備もまだとお見受けする」 「お恥ずかしながら・・・。ただ風呂場で飼っているので敷石は無理だと思います」 「風呂場?」 「浴槽を鉢の代わりにしているんです」 彼は目を丸くしてわたしの顔を見る。信じられないというよりは、言葉の意味を理解できていない様で、呆け た様な表情はどこか幼く見える。「言葉の通りで、お風呂場の、浴槽に張ったお湯の中で飼っているんです」 ポイントはお湯の中というところだろう。そこを強調すると、彼はとうとう意味が解らないと言いたげに眉間 に皺を寄せてしまったので、信じて貰えるかはともかく、事の顛末を一から話すことにした。「ははあ。真に 妙な事があるのでござるな。俄かには信じがたいが・・・」話を聞いて唸り声を上げた彼は、それからふとあ まりにも自然な感じで一度見に行ってもよいだろうかと口にしたので、話の証明にもなると考えた私は特に考 えることもせずに、それならば仕事終わりにでもわたしの家に寄ればいいと返事をしてしまった。短絡的で浅 はかであったと気付いたのは、その日の仕事終わりに彼が今日でもよいかと声をかけてきた時の事だったが、 浴槽で飼うならばそれにあった用意をしようとアドバイスをくれる彼を前にして、無下に断ることなどできる はずもなかった。誠に残念なのはメールアドレスを交換した後になって彼の魂胆に気づいた自身のめでたさで ある。してやられた感はあるが、そこに親切があるのもまた事実だ。スーパーで餌を金魚用のものと交換して もらい、帰り道に缶ビールやチューハイを幾つかとつまみを買って二人で店を出た。「全部一人で飲まれるの か」「・・・そんなわけないでしょ」金魚のためにしてくれる、その事へのお礼のつもりである。帰るのが遅 くなるけれど、少しくらいなら構わないだろうと言えば、彼は一瞬困ったような顔をしたけれど、すぐに口元 を緩めたのだった。 「おお!金魚が、金魚が湯の中を泳いでおる・・・!」 家について早々、飲んだ。といっても金魚の作業があるので乾杯をしてほんの少しの量だけだが。それでもあ まり強くないのか、真田さんの耳はうっすらと赤く染まっていた。「どの、まことにすごいですな!」濡れ たタイルに気にする事なく膝を屈し、浴槽に頭を浸し兼ねない勢いで覗き込んでいた彼が興奮した面持ちで此 方を振り返る。必要以上にテンションが高いところから、少し酔っているのだと察する。「そうですね」しか し返す私の声もやはり幾分か弾んでいた。つられてしまったのかもしれない。いざ湯の中を泳ぐ金魚を目にし て、これはもしや新種ではないだろうかと、真田さんが期待と共にわたしを見る。「・・・しりませんよ」は ぐらかした。もう少し言い方があったのかもしれないが、そんなことは咄嗟に考え付かなかった。いつの間に か、驚くほどに距離が近づいていたせいだ。社内一と評される端正な顔。その瞳いっぱいに煌めきを湛えて、 息のかかりそうな距離で話しかけらたのだ。あれ程合わないようにと避けていた視線がいとも簡単にぶつかっ てしまったことに、酷くうろたえる自分がいる。高揚した状態で、彼にそんな事をしている意識は欠片もない のだろうが、こちらは意識してしまったのだ。悔しくも。浴槽の淵から離れて脱衣所の入り口まで静かに引き 返す。側を離れた事に気づいていないのか、はたまた気づいているが気にしていないだけなのかは解らない。 それでも彼はまだ飽きることなく熱心に金魚に目をやっていた。こちらに向けられた広い背中。無意識に、わ たしは彼の長い後ろ髪を引っ張っていた。 「某は、金魚ではござらんよ」 からかうような、諭すような声に気づき、慌てて手を離す。酔っているようで特に気にはしていないみたいだ が、構って欲しい子供がするような行為を無意識にしていたことに、わたしは居た堪れなさを覚える。金魚じ ゃないことくらい解っている。しかしそれを言えば構って欲しかったのだと口にするのと同じで、苦々しく口 を噤むしか出来ない。気まずいながらに様子を伺うように目線を上げると、そんな私と目を合わせた彼は顔を 赤くして笑って、わたしの頭を撫でてきた。思いのほか優しい手つきにくすぐったくなり、目を細める。彼の 頬はうっすら高潮していて、それは多分理由は違えどわたしも同じだった。「承知してます」蚊の鳴くような 声。いつの時代だと突っ込みたくなるような返事をしてしまったのは彼の影響か。私の心臓は、うるさく鳴っ ていた。くしゃりと笑った彼の顔。ゆっくりと伸びてきた手に応じるように、わたしは瞼を閉じてゆく。柔ら かく、しっとりとした熱を持った唇がふれた。 ---- 彼の異動があってからは特に接触のないままで一週間が過ぎていた。同じ会社とはいえフロアが違うだけで全 く会う機会がないのだから、彼と同じ部署になった女子社員ならばそれは必死にもなるだろうと最近になって あの猛烈なアタックにも納得がいった。メールの遣り取りは数日置きに何度かしているが、互いに会う約束を 取り付けることもなく日々が過ぎている。向こうは急な異動になってすぐで忙しいのだろうし、正直なところ わたしとしても会わないでいられる方がありがたかった。子供ではないのだ。たかが一度交わしたキスくらい で恋人同士になったと思い上がる歳ではないし、相手にもそうは思って欲しくない。会社での立ち位置を考え ればわたしのような女を彼が相手にするわけもないのだが、おそらくは自分に言い寄って来る中に私のような タイプがいなかったことからくる一時的な興味だったのだろうと思う。互いに酔っていたことだし、その上で やってしまったことだから、水に流してなかったように振舞うのが大人の対応だと、わたしはあの日の事を片 付けることにした。それはともかくとして、彼に接触したくない理由は別にもう一つあったのだが、なんとい ってもこれが一番後ろめたいことだった。社交辞令でもしておけばいいと思うのだが、辻褄が合わないなどボ ロが出やすいのがわたしの嘘をつく時の特徴であるから、ばれると面倒臭かったのである。つっこまれない為 にも会わずにいるというのが最善の選択だと判断した。しかし“その日”は予想していたよりもずっと早くに きてしまった。 「金魚は元気でござるか」 珍しく残業があった日の帰りがけ、エレベーターで一緒になってしまった。思わぬタイミングでの再会に頭を 抱えたくなるが、こちらの考えを知らない彼が「一週間ぶりでござるな」とはにかんだのを見ると、何だかあ れこれ悩んでいたのが馬鹿らしいと思えてしまった。小さく微笑みを返すとエレベーターのドアが閉じて、彼 と二人きりになる。 「信じられないと思うかもしれませんが、三日前に突然消えたんです」 金魚の事である。狭いエレベーターにわたしの声はよく響いた。三日前の雨の日、濡れた服を着替えるのが面 倒臭くて帰宅してすぐに風呂場へ向った。シャンプーや石鹸が入らないようにと風呂に入るときには事前に浴 槽に蓋をするので閉めようとした時だ。朝に餌をやった時も浴槽を広々と遊泳していたあの赤い金魚の姿がど こにも見当たらないのである。それはもう、全身の血が引いていくのを感じた。すぐさま這い蹲って浴室の床 を隅々まで探してみたのだが、飛び出た形跡はどこにもない。それからこれはもう本当に嫌々ではあったが、 恐る恐る排水溝も確認した。それでもやはりその姿を見つけることは出来なかったのだ。思えば突然現れた金 魚であるから、突然消える事があってもおかしくはないのだが。ただ、彼があまりにも熱心に見つめていたか ら、わたしにとっても何処か特別な存在になっていた。出来るだけ大切にしたいと思っていたのだ。 「金魚一匹でも、いなくなると寂しいものですね」 私の言葉に彼は頷いた。そうであったかと口にして残念そうな、痛ましい表情で顔を俯ける。死んだと決まっ たわけではないのだが、彼は優しいので金魚一匹でもそうやって心配する性質なのだろう。それならわたしは 金魚になりたかったと思ったが、それはあまりに馬鹿げた考えであるし、なにより不謹慎であるとすぐに振り 払う。どうしてそんな事を考えてしまったのか。しかしまさかわたしがそんな事を思ったとは露も思わぬであ ろう彼は、一階に付くまで始終無言だった。「真田さん、色々とありがとうございました」短く礼を言うと彼 は右手でそれを制した。「某が好きでしたことでござる」気を落とさずに。そう付けたして。それでもやはり 気持ちが嬉しかったので、小さく微笑んで礼を言った。「また明日」「うむ」小さく言葉を交わして別れ、別 々の帰途に着く。残業をした日の帰り道はどことなく疲れのせいか孤独感が強く、寂しさが募った。胸の辺り にぽっかりと穴が開いている気がする。アパートに着いたのは十時を回っていたが、何もする気になれずテレ ビを見てぼんやり過ごしていた。チャイムの鳴る音が二回聞こえて、ようやく意識が浮上した。 「はい」 「幸村にござる」 「・・・真田さん?どうかしましたか?」 驚き、困惑する。彼の家とわたしの家は近くない。むしろ会社を挟んで正反対の位置にあるとメールの遣り取 りで知った。わざわざこちらの家までやって来る理由などそうそうあるものではない。すぐにインターフォン を切って玄関まで迎えに行く。ドアを開けるとスーツ姿の真田さんが、会社の前で別れるときには無かったビ ニール袋を提げて立っていた。何事かと思う。目が合った彼はどことなく緊張した面持ちで口を開いた。 「その、やはり、金魚がいなくなって寂しいのではないかと思い、参ったのだが・・・」 掲げられたビニール袋は所謂差し入れだろう。ペットロスに対する気遣いをしてくれたこと自体は嬉しかった が、金魚一匹が死んだところで泣く程純真ではない上に、そこまでして慰めてもらう程親しい関係でもないか ら、どうにもその優しさが重く感じられてしまうのも事実だった。罪悪感がわくのだ。しかし断るのはもっと 悪いような気がした。ひとまずここまで来てくれた御礼をしなくてはいけない。あがってもらおうと口を開い た矢先、彼は少し苦い笑みを浮かべて、言った。 「というのは口実で、単に某が殿に会いたかっただけでござる」 不意打ち過ぎて反応が出来ずにいる隙を突いて、彼は私の腕を取り家の中へ入って行ってしまう。靴を脱ぎ、 テーブルに買った物を置く。スーツのジャケットを脱いで、ネクタイを緩めた。呆気にとられるわたしを自分 の横に座るよう促して、りんごジュースを勧めてくる。「あの時は酒の勢いのような気がして嫌だったのだ」 やがて彼はそう口にした。後悔していると言いたげに。わたしと同じ考えをしていたことに、そこでようやく 気が付いた。それまで不謹慎だと考えていたが、金魚がいなくなってしまった時に、わたしは真っ先に彼に会 う口実を失ってしまったと思い焦ったが、それはどうやら、彼も同じだったようである。 「わたし、初めてあの金魚を目にした時、真田さんが頭に浮かんだんです」 あの尾びれに触れたいと思った。実際の彼も金魚と同じように触れようとすれば遠ざかるような手の届かない 存在であったから諦めていたのだが、なんとなく浴室にある間だけはわたしだけのもののような気がして満足 していた。けれども失った時、わたしの心は自分で想像していたよりも酷く空っぽになってしまったのだとそ う伝えると、彼は穏やかな顔でわたしを抱きしめた。 「金魚の代わりになりまする」 背中にまわった手があやすように背を叩く。鼓動と同じくらい優しいリズムに安心して、わたしの瞼からはぽ ろり、涙がこぼれてしまった。
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