「あまい、な。」 換気扇が壊れていた。この国には馴染の薄い甘い匂いが小さな密室いっぱいに広がる。香りと呼べるほどに洗 練されていない匂いの元は、わたしの手にあるくしゃくしゃのネットスポンジに沁みこみ泡を立てているボデ ィソープからで、イスラエルの死海の塩をふんだんに使用して作られたという、中東地域の甘いお菓子を連想 させるフィグココが原因だった。二帖にも満たない風呂場の湿気と天井まで届く浴槽からの湯気に混じり、胸 を焼くようなココナッツといちじくの匂いが肺に取り込まれていく。咽返るようだと口にして、彼は筋の通っ た形の良い鼻をパールホワイトの浴槽の上に組んだ両の二の腕の間に埋めてしまう。四〇ワットの豆電球に照 らし出される黒壇の髪から滑り落ちる水滴が打つのは、逞しく鍛えられたギリシア彫刻のような肉体。セルビ アの香る湯船に身を沈めて、鷹によく似た瞳で食い入るようにこちらを見つめていた。 「いいにおい」 「そうか」 「きらい?」 「が気に入っているなら、ワシはそれでいい」 肌にじっとりと纏わり付く視線を感じながら、泡が十分に立っていることを確認して左の二の腕にスポンジを 宛てる。ミルク色の細胞を痛めないように、殊更に力加減をしながら、歯型のまだうっすらと残る二の腕や、 消えかかる頃になるとつけられる欝血の生々しい鎖骨とデコルテ、彼の大きな指がその見た目に想像できぬ程 丁寧に扱う秘所を磨いていく。その一つ一つを丹念に、私が操るスポンジの道筋に合わせて舐めまわすような 視線が付いて回る。首を垂れてゆく白い泡が、二つの膨らみの間を流れ臍部から股を伝いアイボリーのタイル へと落ちていった。それを下から掬い上げてスポンジから溢れ出る泡とまぜて胸を磨く。片方づつ、膨らみを 持ち上げて輪郭と谷間、サンゴに色づいた乳房を丁寧に愛撫する。スポンジが触れるたびに柔く形を変えるそ れは、家康が以前に一番好きだと教えてくれた箇所で、それだけに劣状の混じる視線が強くなるのを敏感に感 じていた。それでも知らないふりを決め込み、首と顎を撫で洗いし、耳の後ろから項へと手を進めてい く。髪に泡が付かないようにと生え際を片手で抑える仕草をすると、浴室の湿った空気を家康の吐息が震わせ た。甘く濃密な水分が肌に纏わり付いて、体は火照りを訴える。手を止めて初めて、自分の息が上がっている ことに気がついた。目が合った家康の、困ったような笑み。 「躰を洗うは、色っぽいな」 鼓膜を打つ家康の声は掠れ、瞳の奥にある猛禽類のように猛った劣情を隠そうともしない。けれども決して、 隔てられたパールホワイトの浴槽から手が伸ばされることはない。酸欠を訴える頭痛と、排水溝へと流れず足 元で留まる泡から立ち上る甘い匂い。温かな煙を上げる湯船から洗面器いっぱいのセージ湯を汲み上げ、頭の 天辺から掛けて、一気に泡を洗い流した。 「これで、おしまい」 前髪からぼたぼたと音を立てて滴る水を絞ることもなく、家康が手招きをするバスソルトの溶けたマラカイト グリーンに身を投げた。
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