湿り気を帯びた夜風が頬を撫でる。雨の上がった街を包む空気は繻子のように柔らかく、街灯の黄丹色が夜道 を淡く照らし出す。遊歩道の脇に止められた車はエンジンの音もなく、寝静まった獣のようにコンクリートに 影を落としていた。アパートとシャッターの完全に下りた商店が交互に立ち並ぶ通りに人の気配はなく、見な れているはずの花屋の看板にすら違和感を覚える。道路を挟んで向かい合うアパートは初雪のような白で壁の 色を統一している。それがこの暗がりの中ではぼんやりと、セピアに色を変えて落ち着いた存在感を放ってい た。ああ、まるで別世界に迷い込んでしまったみたいだ。ゆっくりとした歩みを止めず、爪先でバレリーナの ように軽やかな一回転をすれば、オーロラのスカートはふくらみ、さながら風に揺れる花弁のように優雅に虚 空を舞い踊った。いつか観たくるみ割り人形のバレエが思い起こされる。淡いオレンジのチュチュ、わたしは パ・ドゥ・トロワも踊れる。街灯が続く方に、そのまま中央通りまで駆けて行き、息を整える間もなく小橋の 欄干に足をかけて勢いよく乗り上げた。視界を遮る物は遠ざかる。黒い流れが私の足元を通り過ぎていた。名 も知らぬ川は穏やかに、時を止めた街で唯一、ゆっくりと時を紡いでいた。時間が持つ、闇を垣間見た気がす る。今はそんなこと思い出したくなかった。悲しさに目線を戻し、靴の幅と同じくらいの幹を一歩一歩、慎重 に足を進めていく。いつもより少し高い視界に映るのはいたる所に出来た水たまりと点々とどこまでも続いて いく、輪郭のない淡い橙の街灯。顔を上げれば果てなく続くインディゴブルーに溶けかかったシトロンの月。 息を吐けば、悩ましげな音を立てて湿った空気に吸い込まれてゆく。いつだって、雨上がりの夜は優しい。





「夜は嫌いじゃないよ、・・・太陽は眩しい」

吐息が耳にかかる。とびきり甘い声で囁かれる言葉と、熱情のこもったアメジストの瞳。ビスクドールのよう な雪肌に落ちかかる繭糸のような繊細な髪も、白樺の小枝についたような桜の花弁によく似た爪も、彼を構成 するすべてはこの世の美しいものを余すところなくその器に閉じ込めた宝石箱のようで、わたしは、彼がなに ものかによって、その美しい運命を奪われてしまいやしないかと、常に胸の内にほの暗い予感を抱いていた。 儚い雪を想起させる見た目とは裏腹に、訪なう指は貪欲で、わたしへと注がれる熱は紛れもなく男のものであ ったけれど。それでも時折、ふとした拍子に黙りこんで、憂愁に閉ざされ虚空を見つめたままでいる時があ る。時を選ばずにやってくるそれは、わたしの存在が唯一及ばない彼の領域を垣間見る瞬間でもあった。凛と して冬に佇む白椿のような彼が、散り際の木蓮のようにわたしには映るのだ。

「雨・・・?」

頬を打つ水滴は、わたしを組み敷く半兵衛が落としたものだった。スモークブルーのシーツに溶け込んでシミ を作る透明な雫。ベッドの軋みが止まり、互いの乱れた呼吸が部屋に響く。下肢を繋いだままで、伸ばした手 を使い垂れ下がる無数の絹糸を掬い集めて彼の耳にかけてやると、現われた白磁の頬に、今しがた流れた涙の 痕が見て取れた。目の合った彼は呆然として、自分の身に起きた事が理解できていないようだった。わたしを 見下ろす双方のアメジストの方が、彼より余程雄弁であるようだった。「はんべえ、泣いてる」そのアメジス トの縁を珊瑚に彩る眦が目に入る。指の腹で目尻をなぞってやると、うっすらと親指が湿った。彼は薄い唇を 噛みしめて、そっと長い睫を伏せる。儚げだった。常に冷静で感情の起伏が激しくない彼でも、センチメンタ ルな気分になる時があるのかと、ぼんやり思う。人形のように澄ました顔の下から本音が見えたことなんて、 これまで一度もなかったというのに。濡れそぼった睫を二度瞬かせた半兵衛が、ゆっくりと自嘲めいた笑みを 浮かべて、わたしを見下ろした。

「哂っていい。時間が無いと焦っている、惨めな僕を」

皮肉をこめて紡がれた声は低く、静まり返った夜の部屋によく響いて聞こえた。闇の中に浮かび上がる彼の肉 体は今や病的なまでに痩せこけ、持って生まれた陶器のような白い肌は彼の身体の不気味さを増徴させる要因 の一つになってしまっている。掘り深く浮き出た肋骨のある光景は猟奇的ですらある。

「わらう?わたしが、半兵衛を?」
「半兵衛を哂えば、わたしを哂うことにもなる。哂わないよ」

張り詰めたような空気だった。お互いの下肢はいまだ繋がったままで、わたしの左手は彼の右手によってベッ ドに縫い止められたまま体温を分かちあっているはずなのに、その体温と世界の温度だけはどんどん失われて いっている。ただ、右手で拭った彼の涙の感触だけが、未だにわたしの指先に残っていた。

「僕から離れるなら、これが最後のチャンスだよ」
「もう、むり。愛してる、半兵衛」

そう告げると、堰を切ったかのような半兵衛の抱擁にあう。二人分の重さで再び軋むベッドと、下肢に甦る圧 迫感。顔じゅうに彼の浮き出た肋骨があたってその痛みに切なさすら覚えるけれど、それよりも半兵衛の心の 内を思うと、胸が一杯になった。会うなら夜がいいと言われて、その通りにして何年が経つだろう。ここに来 るまでの道すがら、わたしはもう何度も街中の時が止まるのを経験して確認したはずだった。わたし達以外に 人はいない、世界の全ては活動を止めていた。それなのに、なぜ彼は痩せていく一方なのだろうか。わたしが いつか、夜の街を半兵衛の家に向かって歩かなくなる日が来るとしたら、(それはきっとそう遠くない未来の こと)そしたら、わたしはどうすればいいんだろう。不安で不安で、頭がおかしくなりそうだった。

「愛してる半兵衛、愛してる、ずっとずっと愛してる」
「足りない、、もっと、言ってくれ」
「何度でも言う。愛してる、愛してる半兵衛、愛してる」

壊れたロボットのように同じ言葉を繰り返している内に、ぽろぽろと溢れ出て止まらなくなった涙は視界を曇 らせて、わたしの大好きな半兵衛の宝石のような瞳も、桜色に上気した頬も、汗にしっとり濡れたスノーホワ イトの髪も、全てをぼやかして滲ませてしまう。遠ざかっていくようなそれは、事実錯覚ではない。『雨、暫 く止みそうにないね』こんな時に半兵衛が掠れた声で口にする。止まなくても良い。肩甲骨をなぞって薄い背 中に腕を回し、離すまいと背骨に爪を立てて半兵衛を求めた。あと何度、こうして半兵衛と同じ夜を過ごせる のか。彼が旅立つ前の、最後の心残りがわたしであればいいと願う。泣きやんだわたしの瞼にとびきり甘いキ スが贈られる。そう、いつだって雨上がりの夜はわたしたちに優しい。




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