もうまったく、私の愛は自分の意思で捧ぐ相手を選ぶ事など初めから出来やしないのです。木蓮の花が全て散
り、新緑の芽吹きを目にするようになった頃、兼ねてより父に申し付けられていた通りに嫁ぎ先が決まり家を
出ることになりました。家を出るとは言いましても、これまで住んでいた奉公先の城の内部の一室に住まいを
移しただけの事で、家族との今生の別れというものもなく、平生となんら変わりなく、万事滞りなく事は済ま
されました。変わったことといえば、ですから住まいと、それからこの私にもとうとう生涯の伴侶となる方が
出来たということです。あまりにも上手く運んだ次第ですから、まるで実感が沸かないくらいでいます。とも
あれ、天下人の血を家系に取り込めるとあり父や親族はそれはもう大層祝いの席で満悦そうにしていました。
なのでどうやら、居心地の悪さを感じてこの婚姻に終ぞ異議を申し立てられずにいたのは当事者の私だけであ
るようでした。白無垢に夢を見ていた幼い私が今の私を見たら、どう言ったことでしょう。口にはしませんで
したが、隣にいらしました方もどうやら、自ら望んで私を取った、という風でもありませんでした。望んだ相
手ではあらねども、一緒に寄り添う内に情も沸いて好きになっていくだろうと考えていた私の気持ちが、それ
で一層、望まれぬ結婚と自覚させ、惨めな気持ちにさせただけの出来事になったのでした。
それから、一年が経ちます。英雄色を好むとはよく言ったものです。どうして気がつかなかったのでしょう。
当然の事ですが、天下人である家康様には多くの側室がいらっしゃいました。しかし特筆すべきなのはそれら
側室の内にはかつて、何者かの妻であった過去を持つ者が多いという事でした。未亡人の体裁の悪さを哀れに
思い取り計らった結果なのかもしれませんが、それにしては家康様も女の選り好みをなさるので、人妻である
ならば誰でも良いと言うわけでは無いご様子でした。ある従者の中に、彼に取り入ろうとして、器量良しとも
っぱら評判の生娘を差し向けた者があったと耳にしました。天下を統一してから幾歳月が経ち、いつまでも若
いとは言える歳ではなくなった家康様でしたが、それでもせっかくの若い娘を抱ける機会を、それはそれで頂
いたという話ですが、妻の位を与えることもせず、最終的にはふった、という話です。哀れなのは女です。そ
んな事があったので彼の直近もその下の者も全て、安直に自分の娘を差し出すというような真似はしなくなり
ましたが、そうなるとここで疑問なのは私の存在です。私は確かに生娘でありましたし、婚儀の席での家康様
は目に見えて喜ぶ私の両親に呆れから苦笑いさえ浮かべられていました。つまるところ、好いてもいない相手
なので、破棄しようと思えば出来た結婚だったわけなのです。現に、又聞きしたお話しの通り、家康さまは誰
でもよいという訳ではないようなのですから。それをせずに未だ側室ではありますが、私に地位を与えてくだ
さっているというのは、これもまた、やはり彼の情によるところだと言えるのでしょうか。輿入れした日より
他に一度として、家康様に抱かれた事が無いままの、お渡りの多い方に負け、場所を城の隅に追いやられ忘れ
られた室と、不名誉な呼称を賜っている私への、それでもまた尽きぬ彼の情けであるとでも。しかしながら今
後もその情に縋って生きていくしか無い私に言えます事は、ただただ、私という人間が惨めでならないという
ことです。取り立てて美しくもなく、かといって教養が深いわけでもなく。こういう一物も持たぬ、ただ背後
にある親の威光でもって位に座す半端者には、当然、風当たりも優しくはありません。何か、彼に愛されるこ
とをしなければいけないと、思うに至った次第でした。
 
「それならば、他に良い人を見つけてみては如何でしょう?」
  
ある日、何度目かの溜息の原因を尋ねてきた侍女の一人が、思いついたように言ったのです。その侍女という
のがまだ歳若い、それこそ同い年くらいの人なのですが、近しく感じられるとあって、私は彼女には何でも相
談していました。結婚してからの此処で過ごした一年で、見にまとう衣の見立て等は全てその人がしてくれて
いましたし、また他所の室からの嫌味などから遠ざけてくれていたのも彼女でした。その、私の信頼する人が
何の考えもなしに軽々しく口にしたということはないでしょう。肘置きに預けていた身を起し、簾の向こうに
投げていた視線を侍女にやると、その人は一つ咳をして、それからはっきりとした声で言いました。
 
「深いお付き合いではなく、あくまで家康公の気を引くための一時的な関係を他の方と結ぶのです。他の者の
もとへお渡りがあると知れれば、家康公も心中穏やかではなくなるでしょう」
「妬く?妬くとは家康公がですか?」
「左様でございます」
「この一年、一度としてお渡りのなかった私を思ってですか?」
「はい」
「それは、なかなか無理があるのではないですか」
「何故です?しようと思えば出来た婚姻を破棄なさらなかったということは、少なからず家康公は貴方を思っ
てくださっているということの現れです」
「いいえ、例えそうであったとしてもこの案件では妬くよりも早く、面倒のかかる女として城を出されるのが
関の山です」
「そんなことは決してございません」
「それに聞きました。新しい側室を、近日、またお取りになると」
「・・・なんと、まあ」 
 
侍女は一寸、開いた口を閉じる事が出来ないようでした。しかしすぐにを険しい顔をして黙りこみます。どち
らかというとそれは、家康公を妬かせる作戦が使えなくなった事よりも、彼のその、言い方は悪いですが節操
の無いところを嫌悪しているというに近い、少しばかり憎悪が入り混じったような顔でした。私のためを思っ
てする、その素直な表現が気に入っています。黙り込んでしまった侍女から再び視線を簾の向こうに投げ、今
日、もう何度目になるかも分からぬ溜息を吐きます。簾の外、障子の少し開いた隙間から入る風が少し冷たい
以外には全て皆、恐ろしいほどに穏やかです。庭の、一番室に近い所に木蓮が植えてあり、それが去年の今頃
に丁度、輿入れした私を迎えるように咲いていたのを思い出し、知らず、涙が零れてきたことにやっと気付い
たのです。
 
「わたしは一体、なんのために生まれてきたというんでしょうね」
  
袖を濡らす私を見て、侍女は心底哀れだと言いたげな顔をして、瞼をそっと閉じたのでした。それから二日ば
かりが経ち、ある朝、私の瞼を貫くようは陽の光りの強さに目を覚ませば、衾の直脇にある障子の合間より覗
く木蓮の白い花が完全に散っているのを見つけました。それを目に入れた瞬間、何か恐ろしいほどに心が落ち
着いていくのを感じました。それはこれまで一度として感じたことの無い感覚でしたが、けれども決して、戸
惑うような事はありませんでした。そしてこう思ったのです。
(そうです、一度として私、好きに生きた事が無いのですから、もうこの先一生、この隅の部屋で枯れてゆく
のを待つのみであるならば、今枯れたとして同じことです。なんだって、好きにやってみるべきです)
今日は新しい側室の輿入りで、こちらにも挨拶にやってくるというのを聞き及んでいましたが、もう構う事は
ないと決心がつきました。極力音を立てずに棚から、履きなれて一番足に馴染んでいる下駄を持ち出し、それ
から部屋に戻ると急いで着替えと支度を済ませました。そしてやがて廊下を歩いてやってくる侍従の足音がこ
の場に到着する前にと襖に手を掛け、室を出て、まだ朝露に濡れる庭の茂みを掻き分け、城門へと一人、走り
出していったのです。雑草を取り除かれ整然とした庭には私の足音がなかなかくっきりと残っているようでし
たが、その後始末をしている暇はありません。ともかく音を立てぬように細心の注意を払いながら、小走りを
続けました。めっきり外に出る事もなくなり衰えた体力ではすぐに息が上がり、足には岩か何かを括りつけて
いるかのような重さを感じられましたが、それで止まろうと思うことはありません。いっそ臓腑がこの苦しさ
に押し潰されてしまえば運良く死ぬ事が出来るのではないかと思いましたが、そうもならないでしょう。朝が
早すぎるためか、見張りもほとんど居ない敷地内を過ぎ、もうそろそろ領内をも出れるという所まで来た時で
した。平民達が暮らしている世界とこちら側とを区切る最後の門の前で、腕を組んでこちらをじっと、門番か
何かのように見つめていらっしゃる殿方が一人、立っていました。久方ぶりだと私の頭に浮かんだ言葉を、目
の前の方も同様に口にしていました。
 
「久しぶりだな」
「・・・」
「走る姿を見かけたから、もしやと思い先回りをしてみたんだが・・・」 
 
何とまあ、身軽な方でしょう。そういえば、彼は少し前、といってももう戦国の乱世が終わってから幾年も経
ちますが、戦の最前線で拳を振るい兵を率いていましたから、並外れた体力を持っているのでした。見張りに
見つかった場合の言い訳は考えていましたが、当の本人に捕まえられた場合の言い訳はすっかり忘れていた私
の、準備不足です。現役だった頃の家康公を知らないとはいえ、一日中室に篭ってすっかり筋力の衰えた私と
では、その力の差を考えるまでもありません。息一つ乱さず、精悍な顔立ちに纏う威風を正面から受けて、私
は彼の背後の門を潜る事は不可能であると、早々に考えを捨て去りました。
 
「家康様」
「なんだ?」
「お久しぶりです」
「・・・そうだな」
「わたしの名前を、覚えておいでですか」
「だろう」
「覚えていてくださったのですね」
「妻の名を忘れるわけがない」
「そうでございますね」
「・・・何か、言いたいことがありそうだな」
  
嫌味の様な、ともつかぬ言い方をすれば、家康公はそこで初めてその整った眉の片方を歪めて、表情らしい表
情を作られましたが、それが一体どういった感情からくるものなのかは、私には咄嗟には推察しかねました。
しかしわたしとて馬鹿ではありません。たまたま今朝方早くに彼が城内を散歩していて、偶然私の逃げる姿を
見つけたということではないことくらいは分かります。彼はこの場で、新しく輿入れに来る妻を、今か今かと
待ちわびていたのです。そこへたまたま、私が反対側からやって来たのでしょう。彼は時折、聞いているこち
らが良い様に誤解するような、卑怯な言い方をするのです。その嘘の見事たるや、八方美人の鏡でしょう。
  
「お願いがあります」
「なんだ」
「死にたいです、消えてしまいたいんです。どうか、この場で私を殺すか、さもなくば見なかったことにして
そこを通させてください」  
 
家康公の背後より少しばかり覗く、まだ見ぬ世界がとんだ汚れたものであったとしても、この場に留まるより
は遥かに希望に満ちているような気がしました。もっと早く、父に結婚を言い渡された日に、こうするべきだ
ったのです。家康公は驚きに目を見開きこちらを見ましたが、すぐにその凛々しい瞳をすっと細め、強い声で
きっぱり、言いきりました。 
 
「それは出来ない頼みだな」 
「何故です?」
「妻に逃げられたとあれば、ワシは大目玉だ」
「私よりも遥かに重要な側室はたくさんいらっしゃいますし、また新たに迎え入れられるようですし、何の問
題もないのでは?入る代わりに出る者があっても良いはずです」
「もしかして、・・・妬いているのか?」
「・・・ふ」 
 
今度こそ乾いた笑いが、私の閉じた口の端から漏れてしまいました。自分の勘が外れた事が悔しかったのか、
家康公はわたしの笑みに気分を害したように眉を顰め、機嫌を一気に下げたようでした。先程までとは違い、
今度は剣呑な視線をこちらに寄越し、言い聞かせるような口調で話を切り出します。
  
「いいか、。ワシはだ」
「はい」
「皆に平等に接しているつもりだ。その言葉を違えるつもりはないし、それで優劣をつけるつもりもない」
「はい」
「だけではないが、どの妻にも等しくしているつもりだ」
「そうでございますか」
  
そうは言いましても、あなたはこれからお取りになる室を、私を思って取りやめるということはなさらないで
しょう。それではまるっきり、仰っていることと行動に現わしていることが噛みあってございませんよ。これ
で最後と思い、洗いざらい考えをそう述べましても、まだ家康公は、門の前をあけては下さりませんでした。
それどころか彼と門の間には新しく嫁ぎにいらっしゃる方を乗せた御輿が入る程には空間がありまして、その
用意周到ぶりときたら、憎らしい程に抜け目がないのです。出しはしないが、やってくるものは歓迎するとい
うのです。「、そうか、寂しかったんだな」まるで犬猫を愛でるように、わたしを見下ろします。
そういうところ、豊臣秀吉様が生きていらした頃、何方だったかに指摘されたと伺っておりますよ。彼は貴方
様がどういう人なのか、よく見抜いておいでだったのですね。洞察力に優れた、素晴らしい方に相違ないでし
ょう。わたくし、来世というものがございましたら、今度はその方と夫婦をご一緒してみたいものです。自棄
になってそう言えば、いつのまにやら家康様は今にも泣き出しそうな顔でもって私を見つめていらっしゃいま
した。十近くも歳が離れた殿方の、そのあまりにも幼稚な一面。婚儀の際に横並んだ時は、彼をよく知らない
こともあって男気に溢れた素晴らしい殿方に違いないと夢を見たものでしたが、なんだ、この程度の男であっ
たのかと、今、この瞬間に無い愛情が空っぽになったのを感じました。ややあってずきり。痛みの走ったわた
しの体の部位に目をやれば、掴まれている手首がその力の強さに色を黒く変えていました。なるほどこれは、
確かに異常です。
  
「それでもワシは、このやり方が正しいと信じている」
  
縋る目に掛ける情はもうこれっぽっちも残しては居ませんが、ただひとつ、思うのです。ひょっとすると、以
前にあった生娘の婚約が破談になったというのは、今いる室の内の誰かが私のようにして、行動に起こしたこ
とによるものではないかと。その室は家康公を愛していたのでしょうが、わたしは根本的に彼と彼のやり方を
許せないので、なかったことにしようとは思えません。新しい室についても、もうお好きになさってください
というのが本音です。余り部屋も少なくなってきた頃でしょうから、わたしがぬけた室を新たに入る方に宛が
われては如何でしょう。それがよろしいと思うのです。小さな子供がいやいやをするように、未だ首を左右に
小さく振ってわたしに縋る姿は、どうにもこの瞬間だけはわたしだけの家康公であると思わせますが、それで
絆されたりするような蜜月もとうに過ぎました。木蓮は散りましたし、わたしも散るか逃げるかすることにい
たします。あなたは少しばかり、思い知ればいいのです。
 


よだかの消えた明日